萩城
Hagi Castle, Japan

登城日:
2017.7.15

【萩城 概要】

萩城は毛利輝元が1604年(慶長9年)に築いたお城です。

戦国時代、毛利元就が中国地方一帯の120万国を
領地とした毛利氏でしたが、関ヶ原の戦いの際に、
敗れた西軍の総大将となった為、敗戦後に
周防・長門二国の30万石程の領地となり
この萩に居城を定めたのでした。

関ヶ原古戦場の散策記はこちらです。

幕末、長州藩は日本の歴史の表舞台へと飛び出して
行ったのですが、第13代藩主・毛利敬親は、
1864年(元治元年)に山口に政事堂(山口城)を建て、
そちらを居城としていました。

山口政事堂の登城記はこちらです。

萩城は萩の城下町の西北の海沿いに位置しています。

萩の市街地に南北に外堀が走り、
その西側が城内にあたります。

三の丸は広大で、家臣屋敷が建ち並んでいました。
このホームページでは三の丸の様子を 萩の散策記で紹介しています。

萩の散策記はこちらです。

指月山の麓に本丸があり、二の丸は
本丸を囲むように位置していました。


厚狭毛利家の屋敷長屋に萩城の模型がありました。
本丸と二の丸、そして指月山山頂の詰丸の
様子が再現されています。

萩の街は何度か訪れていましたが、この萩城を
訪れたのは2017年7月が初めてでした。
その時の様子を紹介します。

【萩城へのアクセス】

JR山陰本線玉江駅が最寄り駅になります。
北に徒歩25分程です。

また萩バスセンターや萩・明倫センターから
萩循環まぁーるバス西回りコース(晋作くん)で
萩城址・指月公園入口下車、徒歩5分程です。
萩バスセンターへはJR東萩駅から徒歩20分程です。

萩循環まぁーるバスの案内はこちらです。

【萩城登城記】

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厚狭毛利家萩屋敷長屋、二の丸

萩の堀内地区を散策し、毛利輝元公墓所を
訪れた後に堀を渡りました。
この堀は橋本川と菊が浜を繋いでいますが
江戸時代の古地図にはなく、明治以降に
築かれたもののようです。

萩の散策記はこちらです。

堀を超えた左手に厚狭毛利家萩屋敷長屋があります。


撮影: 2017年7月

厚狭毛利家は毛利氏一門で、山陽小野田市
厚狭周辺に知行を持っていた為に
こう呼ばれていたそうです。

この長屋は1856年(安政3年)に建てられ、
萩市内に残る最も大きな武家屋敷との事です。


撮影: 2017年7月

長屋は幾つもの部屋に分かれ、多くの出入り口があり、
当時は多くの侍がここに住んでいた事でしょう。


撮影: 2017年7月

部屋の一つに毛利輝元公の肖像画とこの建物が
重要文化財に指定された際の書状が置かれていました。

厚狭毛利家萩屋敷長屋の外観です。


撮影: 2017年7月

実は、厚狭毛利家萩屋敷長屋で萩城までの道を聞いたのですが、
この外観の写真を撮りたく、教えて頂いた道とは違う
方向に歩き出したので、教えて頂いた係りの方が
怪訝そうな顔をしていたのを覚えています。

萩城は厚狭毛利家萩屋敷長屋から
真っ直ぐ北に行った所にあります。
すぐの所に石垣が見えて来ました。


撮影: 2017年7月

二の丸の大手門にあたる南門の枡形門です。
思いがけず立派な石垣の門がありました。
江戸から遠く離れた萩にあっても備えは
怠らなかったという事でしょうか。

この南門には毛利輝元公の銅像が置かれています。


撮影: 2017年7月

萩藩の初代藩主は、輝元の長男・毛利秀就ですが、
輝元は藩祖として、1623年(元和9年)に隠居する迄
萩藩の藩政にかかわったそうです。


撮影: 2017年7月

南門の枡形の様子です。
堅い南門の様子が伺えます。

南門を過ぎると、萩焼の窯元がありました。


撮影: 2017年7月

江戸時代に、ここに窯元があったとは
考えにくいのですが、明治以降にここで
萩焼を作り出したのでしょうか。

この萩焼の窯元の先には内堀が広がり、
その先は本丸です。


撮影: 2017年7月

二の丸の敷地の幅は狭く、厚狭毛利家萩屋敷長屋の
模型でも、門や土塀、櫓以外の建物はありませんでした。

本丸への入り口となる御本丸橋から
内堀に沿って左手に進みます。

内堀越しに天守台とその向こうの指月山の
光景がとても絵になっていました。


撮影: 2017年7月

江戸時代、この天守台には石見瓦の赤い瓦の
載った五層の天守が建っていました。

御本丸橋から右手側にも本丸の石垣が続きます。
本丸の東南隅には、着見櫓が建っていたようです。


撮影: 2017年7月

二の丸の東端には東門跡があります。


撮影: 2017年7月

この東門も桝形門で、当時は南側に時打櫓、
北側には東櫓が建っていました。

東門跡から北に向けて道路が続いていました。
この道路の左手に石垣が続いています。


撮影: 2017年7月

この道路の先に、紙矢倉跡の石垣があり、
道が枡形状に折れ曲がっていました。


撮影: 2017年7月

紙矢倉跡から先は、石垣の上に
白壁の土塀も復元されていました。


撮影: 2017年7月

この先に塩入門がありました。


撮影: 2017年7月

塩入門は、萩城に隣接する菊が浜に面して開いており、
まさに潮の香りを取り入れるような位置にあります。


撮影: 2017年7月

塩入門から城外に出ると、菊が浜の
夏の景色が広がっていました。

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御本丸橋から本丸天守台

二ノ丸から本丸へは、本丸の南に
架かる御本丸橋を通って行きます。


撮影: 2017年7月

御本丸橋を渡る手前の萩城址の眺めです。
この眺めが萩城の代表的な眺めではないでしょうか。
本丸の向こうに聳える指月山の姿が印象的です。

御本丸橋を渡った先の本丸門です。


撮影: 2017年7月

桝形の櫓門型式だった本丸門の建物は、
すべて失われていますが、石垣が当時の
堅牢な門の佇まいを伝えています。

桝形内の料金所で入城料を払い、本丸に入りました。
本丸内の様子です。


撮影: 2017年7月

当時は所狭しと、御殿の建物が建てられていたようです。
その本丸の南側は内堀に沿って石垣が築かれていましたが、
その石垣の内側には雁木がありました。


撮影: 2017年7月

この雁木から石垣の上に登ってみました。
石垣の上からは、内堀越しに二ノ丸の
様子が手に取りように見えました。


撮影: 2017年7月

背後には、指月山がすぐそこに迫っていました。


撮影: 2017年7月

当時は指月山の山頂部に詰丸がありました。
2017年7月に訪れた際には、この詰丸にも
行こうと思っていましたが、萩の街中の
散策に時間が掛かってしまい、断念しました。

石垣から本丸の御殿跡に戻りました。
本丸跡は公園の様に整備され、当時の
御殿の敷地跡も判らない状況でした。


撮影: 2017年7月

その本丸の一角に、当時の萩城の
天守の写真が掲げられていました。


撮影: 2017年7月

萩城の天守は、石垣から迫り出しています。
白黒の写真では分かりませんが、瓦は
赤い石州瓦だったそうです。

この後、天守台に登りました。


撮影: 2017年7月

天守台はニ段になっています。
一段目から、天守台の西側の内堀が見えてきました。
天守西側の内堀は入り組んでいました。


撮影: 2017年7月

本丸西側の内堀の様子を眺め、天守台に上りました。
天守の礎石がしっかりと残っています。


撮影: 2017年7月

これだけ礎石も残っていれば、天守の古写真も
今に伝わっており、萩城天守の復元もいつか
実現して欲しいと思ってしまいます。

天守台からの、本丸南側の内堀の様子です。
左手遠くに御本丸橋が見えています。


撮影: 2017年7月

こうしてみると、天守は内堀に囲われてはいるものの
二ノ丸には近く、防御的には少々疑問が残ります。

天守台から降り、本丸を西に向かいました。


撮影: 2017年7月

広い内堀と天守台の石垣の眺めがいい雰囲気です。
傾きかけた日差しに、本丸の石垣が照らされていました。

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岡崎櫓台から御台所門

天守台から本丸を西側に向かって歩いていきます。
内堀越しに天守台が見えてきた辺りから
本丸の西側の二の丸へと入っています。

道を塞ぐような石垣が見えて来ました。
岡崎矢倉台の石垣です。


撮影: 2017年7月

この先で、内堀越しに天守台を
真西から眺める事が出来ました。


撮影: 2017年7月

萩城西側の内堀は、規模の大きな
凹凸の構造になっています。
岡崎矢倉台の先には八間矢倉台もありました。

八間矢倉台からは二の丸の西側に出る事が出来ました。


撮影: 2017年7月

公園として整備されているようで、
緑豊かな空間が広がっていました。

公園も思った以上に広く、萩城の
規模の大きさを実感しました。

ここから再び本丸に戻りました。
本丸の天守台の北側には茶屋がいくつか建っています。


撮影: 2017年7月

こちらは花江茶亭です。
この茶亭は、萩藩第13代藩主・毛利敬親公が、
安政の始め(1854年)頃、花江御殿に建てた茶亭です。

幕末の時期、長州藩は何度も危機に陥っていますが、
難局をどう乗り切るか、毛利敬親は、家臣と
この茶停で話込んだ事もあったでしょうか。

そしてこちらは梨羽家茶室です。


撮影: 2017年7月

梨羽家は3,300石の高級藩士です。
当時は萩の東の中津江という所に
この屋敷がありました。

二つの茶亭から東に向かうと、
神社の参道が見えて来ました。


撮影: 2017年7月

志都岐山神社です。


撮影: 2017年7月

志都岐山神社は、明治になって創建された神社です。
毛利元就、隆元、輝元の初期の3代と、幕末から
明治にかけての敬親、元徳公の萩藩主が祭神です。


撮影: 2017年7月

志都岐山神社の本殿は一段高い位置にありました。
若い女性グループが丁度、訪れていました。

志都岐山神社から東に向かうと、
南北に石垣が続いていました。


撮影: 2017年7月

この石垣は本丸と二の丸を隔てる石垣で、
すぐ近くに御台所門跡がありました。

御台所門を出た先には、二の丸の
潮入門や紙矢倉などがあります。


撮影: 2017年7月

その石垣に続いて緑豊かな本丸の景色が続いていました。

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