厚狭毛利家萩屋敷長屋、二の丸
萩の堀内地区を散策し、毛利輝元公墓所を
訪れた後に堀を渡りました。
この堀は橋本川と菊が浜を繋いでいますが
江戸時代の古地図にはなく、明治以降に
築かれたもののようです。
萩の散策記はこちらです。
堀を超えた左手に厚狭毛利家萩屋敷長屋があります。
撮影: 2017年7月
厚狭毛利家は毛利氏一門で、山陽小野田市
厚狭周辺に知行を持っていた為に
こう呼ばれていたそうです。
この長屋は1856年(安政3年)に建てられ、
萩市内に残る最も大きな武家屋敷との事です。
撮影: 2017年7月
長屋は幾つもの部屋に分かれ、多くの出入り口があり、
当時は多くの侍がここに住んでいた事でしょう。
撮影: 2017年7月
部屋の一つに毛利輝元公の肖像画とこの建物が
重要文化財に指定された際の書状が置かれていました。
厚狭毛利家萩屋敷長屋の外観です。
撮影: 2017年7月
実は、厚狭毛利家萩屋敷長屋で萩城までの道を聞いたのですが、
この外観の写真を撮りたく、教えて頂いた道とは違う
方向に歩き出したので、教えて頂いた係りの方が
怪訝そうな顔をしていたのを覚えています。
萩城は厚狭毛利家萩屋敷長屋から
真っ直ぐ北に行った所にあります。
すぐの所に石垣が見えて来ました。
撮影: 2017年7月
二の丸の大手門にあたる南門の枡形門です。
思いがけず立派な石垣の門がありました。
江戸から遠く離れた萩にあっても備えは
怠らなかったという事でしょうか。
この南門には毛利輝元公の銅像が置かれています。
撮影: 2017年7月
萩藩の初代藩主は、輝元の長男・毛利秀就ですが、
輝元は藩祖として、1623年(元和9年)に隠居する迄
萩藩の藩政にかかわったそうです。
撮影: 2017年7月
南門の枡形の様子です。
堅い南門の様子が伺えます。
南門を過ぎると、萩焼の窯元がありました。
撮影: 2017年7月
江戸時代に、ここに窯元があったとは
考えにくいのですが、明治以降にここで
萩焼を作り出したのでしょうか。
この萩焼の窯元の先には内堀が広がり、
その先は本丸です。
撮影: 2017年7月
二の丸の敷地の幅は狭く、厚狭毛利家萩屋敷長屋の
模型でも、門や土塀、櫓以外の建物はありませんでした。
本丸への入り口となる御本丸橋から
内堀に沿って左手に進みます。
内堀越しに天守台とその向こうの指月山の
光景がとても絵になっていました。
撮影: 2017年7月
江戸時代、この天守台には石見瓦の赤い瓦の
載った五層の天守が建っていました。
御本丸橋から右手側にも本丸の石垣が続きます。
本丸の東南隅には、着見櫓が建っていたようです。
撮影: 2017年7月
二の丸の東端には東門跡があります。
撮影: 2017年7月
この東門も桝形門で、当時は南側に時打櫓、
北側には東櫓が建っていました。
東門跡から北に向けて道路が続いていました。
この道路の左手に石垣が続いています。
撮影: 2017年7月
この道路の先に、紙矢倉跡の石垣があり、
道が枡形状に折れ曲がっていました。
撮影: 2017年7月
紙矢倉跡から先は、石垣の上に
白壁の土塀も復元されていました。
撮影: 2017年7月
この先に塩入門がありました。
撮影: 2017年7月
塩入門は、萩城に隣接する菊が浜に面して開いており、
まさに潮の香りを取り入れるような位置にあります。
撮影: 2017年7月
塩入門から城外に出ると、菊が浜の
夏の景色が広がっていました。
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御本丸橋から本丸天守台
二ノ丸から本丸へは、本丸の南に
架かる御本丸橋を通って行きます。
撮影: 2017年7月
御本丸橋を渡る手前の萩城址の眺めです。
この眺めが萩城の代表的な眺めではないでしょうか。
本丸の向こうに聳える指月山の姿が印象的です。
御本丸橋を渡った先の本丸門です。
撮影: 2017年7月
桝形の櫓門型式だった本丸門の建物は、
すべて失われていますが、石垣が当時の
堅牢な門の佇まいを伝えています。
桝形内の料金所で入城料を払い、本丸に入りました。
本丸内の様子です。
撮影: 2017年7月
当時は所狭しと、御殿の建物が建てられていたようです。
その本丸の南側は内堀に沿って石垣が築かれていましたが、
その石垣の内側には雁木がありました。
撮影: 2017年7月
この雁木から石垣の上に登ってみました。
石垣の上からは、内堀越しに二ノ丸の
様子が手に取りように見えました。
撮影: 2017年7月
背後には、指月山がすぐそこに迫っていました。
撮影: 2017年7月
当時は指月山の山頂部に詰丸がありました。
2017年7月に訪れた際には、この詰丸にも
行こうと思っていましたが、萩の街中の
散策に時間が掛かってしまい、断念しました。
石垣から本丸の御殿跡に戻りました。
本丸跡は公園の様に整備され、当時の
御殿の敷地跡も判らない状況でした。
撮影: 2017年7月
その本丸の一角に、当時の萩城の
天守の写真が掲げられていました。
撮影: 2017年7月
萩城の天守は、石垣から迫り出しています。
白黒の写真では分かりませんが、瓦は
赤い石州瓦だったそうです。
この後、天守台に登りました。
撮影: 2017年7月
天守台はニ段になっています。
一段目から、天守台の西側の内堀が見えてきました。
天守西側の内堀は入り組んでいました。
撮影: 2017年7月
本丸西側の内堀の様子を眺め、天守台に上りました。
天守の礎石がしっかりと残っています。
撮影: 2017年7月
これだけ礎石も残っていれば、天守の古写真も
今に伝わっており、萩城天守の復元もいつか
実現して欲しいと思ってしまいます。
天守台からの、本丸南側の内堀の様子です。
左手遠くに御本丸橋が見えています。
撮影: 2017年7月
こうしてみると、天守は内堀に囲われてはいるものの
二ノ丸には近く、防御的には少々疑問が残ります。
天守台から降り、本丸を西に向かいました。
撮影: 2017年7月
広い内堀と天守台の石垣の眺めがいい雰囲気です。
傾きかけた日差しに、本丸の石垣が照らされていました。
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岡崎櫓台から御台所門
天守台から本丸を西側に向かって歩いていきます。
内堀越しに天守台が見えてきた辺りから
本丸の西側の二の丸へと入っています。
道を塞ぐような石垣が見えて来ました。
岡崎矢倉台の石垣です。
撮影: 2017年7月
この先で、内堀越しに天守台を
真西から眺める事が出来ました。
撮影: 2017年7月
萩城西側の内堀は、規模の大きな
凹凸の構造になっています。
岡崎矢倉台の先には八間矢倉台もありました。
八間矢倉台からは二の丸の西側に出る事が出来ました。
撮影: 2017年7月
公園として整備されているようで、
緑豊かな空間が広がっていました。
公園も思った以上に広く、萩城の
規模の大きさを実感しました。
ここから再び本丸に戻りました。
本丸の天守台の北側には茶屋がいくつか建っています。
撮影: 2017年7月
こちらは花江茶亭です。
この茶亭は、萩藩第13代藩主・毛利敬親公が、
安政の始め(1854年)頃、花江御殿に建てた茶亭です。
幕末の時期、長州藩は何度も危機に陥っていますが、
難局をどう乗り切るか、毛利敬親は、家臣と
この茶停で話込んだ事もあったでしょうか。
そしてこちらは梨羽家茶室です。
撮影: 2017年7月
梨羽家は3,300石の高級藩士です。
当時は萩の東の中津江という所に
この屋敷がありました。
二つの茶亭から東に向かうと、
神社の参道が見えて来ました。
撮影: 2017年7月
志都岐山神社です。
撮影: 2017年7月
志都岐山神社は、明治になって創建された神社です。
毛利元就、隆元、輝元の初期の3代と、幕末から
明治にかけての敬親、元徳公の萩藩主が祭神です。
撮影: 2017年7月
志都岐山神社の本殿は一段高い位置にありました。
若い女性グループが丁度、訪れていました。
志都岐山神社から東に向かうと、
南北に石垣が続いていました。
撮影: 2017年7月
この石垣は本丸と二の丸を隔てる石垣で、
すぐ近くに御台所門跡がありました。
御台所門を出た先には、二の丸の
潮入門や紙矢倉などがあります。
撮影: 2017年7月
その石垣に続いて緑豊かな本丸の景色が続いていました。
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