松山城
Matsuyama Castle, Japan


登城日:
2005. 5. 3 & 2009. 7. 27, 7. 28







【松山城 概要】


松山城は、賤ヶ岳七本槍で知られる加藤嘉明が
関ヶ原の戦いの戦功で、20万石に加増され、
1602年(慶長7年)に築城に着手したお城です。

加藤嘉明はその翌年には松山城に移っていますが、
築城が完成したのは、1627年(嘉永4年)の事でした。

この年、加藤嘉明は会津に移封となり、
蒲生氏郷の孫・蒲生忠知が城主となります。

その後、松平定行が1635年(寛永12年)に15万石で
城主となり、以降幕末まで松平氏の居城となります。





松山城は標高132mの城山の上に本丸が築かれ、
その北隅の本壇に小天守や南北の隅櫓と
連立した天守が聳えています。

この城山は市内の至る所から眺める事が出来、
松山城は松山のシンボルになっています。

築城当初の天守は五重だったそうですが、
1642年(寛永19年)に三層に改築されています。



城山の西側の麓には二之丸と三の丸が築かれ、
連郭式平山城と呼ばれる城郭構造になっています。


この松山城の天守は、1784年(天明3年)に落雷で
焼失したのですが、1854年(安政元年)に再建され、
江戸時代から現存する天守閣としては
最も新しいものだそうです。

本丸には天守以外にも多くの現存櫓や門が残り、
21棟もの建造物が国の重要文化財に指定されています。



さらに第二次大戦や放火で失った櫓等を、
1966年(昭和41年)から木造で復元しており、
当時の城郭を今に残す全国でも貴重な城郭です。


松山城の公式サイトはこちらです。

松山の散策記はこちらです。



【松山城へのアクセス】


JR松山駅から伊予鉄道市内線の路面電車で、
大街道または警察署前下車、東雲神社脇の登城口から。
または松山ロープウェー乗車。

また伊予鉄道市内線、市役所前または県庁前下車。
二之丸史跡庭園脇の黒門口または県庁口から徒歩。


伊予鉄道市内線の乗車記はこちらです。





【松山城登城記】




東雲登城口から太鼓門
Jan. 19, '13

太鼓門から一ノ門
Jan. 23, '13

本檀 (連立式天守)
Jan. 27, '13

連立天守内部
Feb. 02, '13

乾門と登り石垣
Feb. 11, '13

二之丸
Feb. 14, '13

三之丸 (堀ノ内)
NEW ! Feb. 17, '13



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東雲登城口から太鼓門




2009年7月27日、この日は大洲城を訪れた後、
内子の町を散策した後に、松山に向かいました。

当初は、湯築城を訪れる予定にしていたのですが、
湯築城の資料館が休館だったので、急遽、
翌日に訪れる予定だった松山城に向かいました。

大洲城の登城記は
こちらです。
内子の散策記はこちらです。

松山に向かった際に乗車した
特急「宇和海」の乗車記はこちらです。


松山駅から伊予鉄道の路面電車に乗って、
まずは市役所前で下車しました。



ここからはお堀越しに城山に聳える
連立天守群を眺める事が出来ます。


2009年7月27日も東雲口から
城山の上の本丸を目指しました。

東雲口からは江戸時代から残る
登城路が整備されていますが、
夕暮れの時間が近づいていた為、
リフトで城山を目指しました。



夏休み期間中ですが、月曜という事もあって
リフトには空席が目立っていました。

リフトに乗っていると、
松山城天守も見えてきました。



リフトを降りるとそこは長者ヶ原です。

ここから緩やかな坂道を上っていくと、
榎戸門跡に至り、ここからは本丸の
高石垣が目の前に迫っていました。



高石垣の上に聳えているのは隠門の櫓です。

本丸の高石垣の下に位置する
榎戸門跡の石垣の様子です。



この高石垣に沿って進むと、複雑に入り組んだ
本丸への入り口へと繋がる石垣で囲まれた通路と
その向こうに聳える太鼓櫓と、その手前に、
二之丸からの登城路に聳えていた
大手門跡の石垣が見えてきました。



ロープウェーを下りてから、すぐにこの石垣や
高石垣の上に載った櫓の様子に圧倒されます。


大手門からは、太鼓櫓の右側に筒井門の櫓と
その手前に戸無門の屋根も見えていました。



これから戸無門、筒井門を抜けて
太鼓櫓に向かいます。

大手門から左に折れ、緩やかな坂道を上ると
太鼓櫓が間近に見えるようになってきました。



大手門から進入した外敵は、
太鼓櫓からの攻撃に晒されます。
松山城の堅牢な構が判ります。

大手門から続く登城路は、太鼓櫓の
石垣の下で折り返しとなります。



太鼓櫓からの攻撃を背中に受けながら
折り返しの坂道を上り、戸無門へと向かいます。

戸無門を抜けて振り返って眺めた様子です。
戸無門の右隣は筒井門西続櫓、
遠くに見えるのが太鼓櫓です。



戸無門は慶長年間(江戸時代初期)に建てられた
松山城築城当初からの門で、
国の重要文化財に指定されています。

戸無門は、高麗門形式の門ですが、
その名の通り、門扉がありません。
これは、敵をわざとこちらに
誘き寄せる為とも言われています。


戸無門を抜けたところから
見下ろす大手門の様子です。



当時は、ここには土塀が築かれていたようですが、
大手門を抜けて本丸に迫る敵を、ここで
殲滅出来るような配置になっています。

戸無門から続く、筒井門(手前)と隠門(その奥)です。



筒井門は、加藤嘉明が松山城以前に居城と
していた正木城から移築したとも伝わっています。

戦後まで現存していましたが、
1949年(昭和24年)に焼失し、
1971年(昭和46年)に復元されています。

その奥の隠門は慶長時代からの現存で
重要文化財に指定されています。

この隠門は、戸無門を抜けて本丸へと
突入する敵兵にはその存在は判り難く、
本丸へと突入する敵の背後を
襲う門だったと思います。

筒井門を抜けて、振り返って眺めた様子です。



右手から筒井門西続櫓、筒井門、
そして隠門と続く眺めはとて壮観です。

松山城本丸正面の守りの
堅牢さが伝わってきました。



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太鼓門から一ノ門




筒井門を抜けると、その前に僅かな空き地があり、
その向こうに石垣に載った櫓が行く手を塞いでいます。



写真左手から太鼓櫓、そして多聞櫓の先には
太鼓門の門櫓、そして右端の巽櫓です。

一見、櫓が連続していて、この先には
進めそうにもありませんが、
木々の茂った辺りが太鼓門です。



左手に折れると、太鼓門の入り口です。
太鼓門を抜けると、緩やかな坂道を上ります。

振り返って眺めた太鼓門の様子です。



太鼓門は明治以降も残っていましたが、
1945年(昭和20年)の戦災で焼失し、
1972年(昭和47年)に元の通りに復元されています。

筒井門といい、この太鼓門といい、
城郭が文化財との認識が希薄だった
昭和40年代に、古い資料を参考に、木造で
元通りに復元しているのは素晴らしい事です。

復元されて40年の年月が経ち、
いまこうして眺めると、現存の門と
変わらない佇まいになっています。



こちらは、大手門から仰ぎ見た太鼓櫓です。
この太鼓櫓も1945年(昭和20年)の戦災で焼失し、
1973年(昭和48年)に復元されています。

一番東側に位置している巽櫓です。



この巽櫓も1945年(昭和20年)の戦災で焼失し、
1985年(昭和60年)に復元されています。

太鼓門の近くには、井戸がありました。



この井戸は深さ44mもあるそうです。

当時の技術では、44mもの深さの井戸を
掘る事は出来なかったそうで、
城山山頂にある松山城本丸は、
城山の2つの峰の間の谷を埋めて
作ったと推定されているそうです。


太鼓門を抜けると、連立式天守のある
本檀まで、細長い曲輪が続いています。



その途中にある馬具櫓の向こうに、
連立式の天守が見えてきました。

左手には、松山の町の向こうに
瀬戸内海の眺めが広がっていました。


馬具櫓辺りで、振り返って眺めた本丸の様子です。



築城当時、この広い空間は
どんな目的で使う予定だったのでしょうか。
武者溜まりだったのかも知れません。


小さく見えていた連立式の天守も
すぐ近くに見えてきました。



加藤嘉明が松山城を築城した際には五層の天守でしたが、
松平定行が、1642年(寛永19年)に三層に改築しています。

その理由は、幕府の意向を恐れたためとも、
本丸の地盤が悪く、建て直さざるを
得なかったとも言われています。

松山城の天守は、1784年(天明4年)に
落雷の為に焼失してしまいますが、
幕末の1854年(安政元年)に再建されています。

日本には12の現存天守がありますが、
この松山城の天守が、最も新しいものだそうです。

この天守の高さは、鯱も含め21.3mです。
天守の建つ本檀は、本丸よりも10m高い位置にあり、
本丸の標高132mを含めると、松山城の天守の高さは
海面から161mの高さとなるそうです。


いよいよ天守に向かいます。

天守の手前に建つ小天守や
一ノ門南櫓などが迫ってきます。



ここを通れば、周囲の櫓から、
簡単に攻撃される事が実感出来ます。


小天守と一ノ門南櫓との間に、
天守への通路があります。



小天守と一ノ門南櫓との間の、
切り立った石垣の間の通路に辿り着くと、
正面に天守が聳えていました。

この天守が陥される事があるのか、
と思える程の堅い守りです。



この通路もすぐに天守の石垣で行く手を遮られ、
右手にある一ノ門を通って、本檀の内部へと進みます。



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本檀 (連立式天守)




一ノ門を抜け、いよいよ松山城の天守に向かいます。
松山城の天守は、本壇と呼ばれる四角い区画の
東北隅に建ち、残りの三隅を小天守や南北の
隅櫓で取り囲んだ連立式天守となっています。

このような連立式天守の例は、
この他には
姫路城和歌山城があります。

姫路城の登城記はこちらです。
和歌山城の登城記はこちらです。

一ノ門を抜けると、一ノ門南櫓や二ノ門南櫓そして
三ノ門南櫓に囲われた小広場へと続く石段を登ります。



櫓や塀、そして石垣で囲われた
この辺りの光景は江戸時代と同じです。

一ノ門脇の石垣の上に登って眺めた様子です。



一ノ門の両脇を一ノ門南櫓と三ノ門南櫓が囲み、
その向こうに天守が聳え、壮観な眺めです。

一ノ門は、天守とともに1784年(天明4年)の雷で
焼失しましたが、1767年(天明6年)に再建されています。



ここからは、更に石段を上り、二ノ門をくぐりました。

二ノ門は薬医門形式になっています。
1784年(天明4年)に焼失しましたが、
1767年(天明6年)に再建されています。



二ノ門を抜けると、一旦天守群の
東に抜け出てしまいます。

この一画は塀で囲われていますが、
その東北隅に天神櫓が建っていました。



天神櫓には菅原道真公が祀られているので
この名が付いているそうです。
戦災で焼失し、1979年(昭和54年)の再建です。

本檀の下にある艮櫓や艮門を
防御する役割があるそうです。

その艮櫓や艮門は見逃してしまいました。


天神櫓のある一画からは天守が
目前に迫り、仰ぎ見るようです。



しかし、ここから連立天守群へはまだ
複雑な経路を辿らなければなりません。

まずは、二ノ門から折り返す様に、
三ノ門へと向かいます。



この辺りの構造はとても複雑で、
進入する敵は、ここまで入る事は
とても不可能な様に思えてきます。

高麗門形式の三ノ門は、
1784年(天明4年)の雷で焼失し、
1854年(安政元年)に再建された現存の門です。



三ノ門を抜けたところも、天守と三ノ門南櫓に
囲まれた小さな区画になっていました。
三ノ門南櫓も1784年(天明4年)の火災で焼失し、
1854年(安政元年)に再建された、現存の櫓です。

一ノ門を抜けたところから、枡形が
3つ連続している様になっています。

この先、天守と小天守の間の筋鉄門を抜け
いよいよ天守へと向かいました。



筋鉄門は、その名の通り、門の柱に鉄板が張ってあります。
天守へと至る最後の門なので、特に堅い守りになっています。

この筋鉄門を抜けると、天守や小天守、
そして南北2つの隅櫓から成る松山城の
連立天守群に囲まれた中庭に出ました。



上の写真は、中庭から仰ぎ見る天守と
北隅櫓との間の櫓門の様子です。

下の写真は、北隅櫓とその左手に続く
多聞櫓は十間廊下というそうです。



十間廊下の左手には南隅櫓が建ち、
そして小天守へと続いています。



この惚れ惚れとするような天守群を眺め、
いよいよ天守へと向かいました。



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連立天守内部




いよいよ松山城の連立天守群に入ります。



天守台の石垣に設けられた
入り口から城内に入りました。

入り口から入った内部の様子です。



内部は5m四方程度の空間が広がり
天井には太い梁が何本も渡っています。

ここから隅にある階段で、
天守の一階に向かいました。



急な勾配の階段を上り、天守の一階部分に上がります。
ここから北隅櫓に向かって廊下を歩いて行きました。



この下が櫓門になっています。

北隅櫓からの天守そして小天守の眺めです。



連立天守群の建物に囲われた
中庭の様子が手に取るように判ります。

これでは、この中庭に侵入した敵は、
容易に攻撃されてしまいます。



上の写真は、南隅櫓から眺める十間廊下です。

南隅櫓から小天守に移動し、
小天守の2階に上がりました。



小天守の1階の天井はかなり
高くなっている事が判ります。

小天守の2階から眺めた一ノ門と天守です。



天守への最初のアプローチとなる一ノ門。
通ってきた際にも堅牢な造りと思いましたが
こうして小天守から見下ろしてみると、
その印象が一層強まります。

天守も目の前に迫り、迫力ある眺めでした。
松山城の天守の鬼瓦には、葵の御紋が
刻印されているそうですが、見逃してしまいました。



小天守からは、城山の麓に広がる二之丸や
三の丸を眺める事も出来ました。


小天守からはいよいよ天守へと向かいます。



間取りが広く、窓が少なく小さな天守の内部は
昼間でも暗く、重々しい雰囲気になっていました。


そして、こちらは天守最上階からの眺めです。
下左の写真は、天守の南に繋がる本丸の様子、
右の写真は、西側に広がる松山市内の様子です。



本丸や本壇の櫓がいくつも聳え、
その向こうに松山の市街が広がっています。
更にその向こうには瀬戸内海も広がっていました。



江戸時代には城下の家並みの向こうに
一面の田圃が広がっていた事でしょう。

天守から、自分の領土を一望出来るのは、
藩主の冥利に尽きた事と思います。



目を下に落とすと、連立天守群を構成している
小天守、南北の隅櫓そしてこれらの櫓を繋ぐ
多聞櫓で囲まれた中庭が一望出来ました。

夏の夕暮れ、暑かった一日でしたが、
天守を吹きぬける風は爽やかでした。



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乾門と登り石垣




天守に登った後、本壇の入り口の紫竹門に向かいました。
この紫竹門は、本檀と搦め手口とを遮る要衝の門です。



1784年(天明4年)の雷で焼失し、
1850年頃の嘉永期に復元されています。
背後に小天守が聳え、門を守っています。

紫竹門を抜け、本檀の石垣に沿って
西にある搦め手口を目指しました。



高石垣の上に聳える南隅櫓と
その向こうの小天守です。

下の写真は、南北の隅櫓と
それを結ぶ十間廊下です。



高石垣の上に隙間なく建てられている
本檀の連立天守群はとても見事です。

この本檀の西北側に野原櫓がありました。



この野原櫓は、松山城が築城された慶長時代からの
現存で、重要文化財に指定されています。

二層の櫓ですが、一層部の中央に
望楼の様な二階部が立ち上がっている様式は
現存の櫓としては極めて珍しいそうです。

戦国期の、このような櫓が、後の天守に
繋がったと考えられているようです。


野原櫓の先に、本丸の西を守る乾門がありました。

乾門の左右を乾門東続櫓や乾櫓が挟み
ここも堅牢な構になっていました。



この乾門は、元々は加藤嘉明が、
松山城築城以前に居城としていた
正木城から移築したと伝わるそうです。

乾門をくぐり抜けて見上げる乾門東続櫓、
南隅櫓、そして小天守へと繋がる眺めです。



左手に聳えるのは乾櫓です。

このように、いくつもの櫓が
折り重なっている光景は見事です。
このような光景は、なかなか見られません。


松山城本丸の一番西端にある乾門を訪れた後は、
本丸東端の長者ヶ平に戻り、ここから
県庁裏登城路を通り、二之丸へと向かいました。



この登城路は江戸時代のものではありませんが
松山城のもう一つの見所、登り石垣が間近に見られます。

登り石垣は、万里の長城の様に、
山の斜面に石垣の城壁を巡らし、
城の守りを固めたものです。

松山城では本丸の西端の乾門と東端の大手門から、
本丸と二之丸の間を南北二つの
登り石垣が築かれていました。

北側の登り石垣は、明治に入って壊されて
しまたようですが、南側は完全に残されています。



登城路を下っていくと木々の間に
登り石垣が見えてきました。

間近に眺める登り石垣です。



山の斜面に沿って上下に繋がる石垣。
長く伸びた姿は、山の斜面を這う大蛇の様です。



登り石垣の脇を、登城路が続いていました。

この先で、視界が開け、三の丸跡を一望出来ました。



三の丸には美術館や市民会館が建っています。
以前はそれ以外にも多くの建物が建っていたようですが
今は、立ち退きが進んでいます。

当時の様子を再現する計画でもあるのでしょうか。


この先で、二之丸の石垣が現れました。



二之丸は江戸時代に入り、藩主の居所だった曲輪で、
こちらも本丸に劣らず堅い守りになっていました。



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二之丸




本丸のある城山の麓、一段高く石垣で
囲まれた一角が松山城の二之丸です。



右手が、県庁裏登城口から続く道で、
左手の多聞櫓が続く西側が、
二之丸の正面にあたります。

二之丸は1627年(嘉永4年)に、松山城に
移封となった蒲生忠知が築いた曲輪です。

二之丸が築かれた当初は、ここが藩主の居所と
松山藩の政治を司る政庁が置かれましたが、
1687年(貞享4年)に三之丸が造営されると、
二之丸は嫡子の邸となったようです。


多聞櫓の下にある門から二之丸へと入りました。



正面の石段が途中で左右に分かれ、
右手の南側の石段を上っていきます。



石段を上ったところの門を抜けると、
そこは多聞櫓と白壁の塀とで囲まれた
通路の様になっていました。



城山の山頂の本丸のような武骨さこそなく
優雅な佇まいの二之丸ですが、
それでもさすがに堅い守りになったいます。

南端で左手に折れ曲がり、さらに
土塀と板塀との間の通路を進みました。



どういう構造になったいるのか、
判らないままに歩いて行きましたが、
通路の外れに小さな枡形状に
門が配置されていました。



門を抜けて、更に先に進みます。
遠くに、登石垣の末端の石垣が見えていました。



この石垣のすぐ横を上って行くことが出来ます。



この先に進むと、二之丸を一望できる
山懐に茶室がありました。



城山の別名「勝山」の名を付けた勝山亭です。
多分、この建物は当時は無かったと思います。

桂離宮を模して建てられたこの茶室からは、
二之丸御殿の様子が一望出来ました。



勝山亭から向かって左手、南側には
水を張った区画がなされている奥御殿跡、
右手(北側)は表御殿跡で、草花で
当時の建物の間取りを表しています。
暫しこの様子を眺めた後に、
二之丸に向かいました。



この門から中に入ります。

二之丸から見上げる小天守などの
連立式天守の様子です。



麓からでも当時の威風堂々とした
天守の様子が伝わってきました。


二之丸は、明治に入り三之丸の御殿が焼失したため、
当時の藩庁をここに移しますが、その後は
陸軍がこの地を使用し、戦後は国立病院が置かれ
当時の建物は壊されてしまったようです。



しかし、1984年(昭和59年)から発掘調査が進められ、
1992年(平成4年)に史跡公園として開園しています。

その中程に大井戸の遺構がありました。



この大井戸は発掘調査によって
その存在が確認されたものですが、
消火用の設備であったらしく、
建物の下を通る通路が確認されたそうです。

二之丸の北の端に位置する北門と番所、
そして奥に見えるのは米蔵です。



上の写真右は、奥門の様子です。


二之丸御殿跡を一通り見回った後に、
大手口にあたる黒門登城路に向かってみました。

二之丸北西隅の槻門の石垣を見ながら
二之丸の北側に回り込みます。



先程、二之丸の内側から眺めた北門や
番所を外側から眺めた様子です。



内側からの眺めよりも威圧的な
雰囲気が漂っていました。


この小路はここから城山へと繋がっています。
その入り口に弓櫓台石垣がありました。



この山道を歩くと、大手門に出ますが、
この時は、ここで引き換えしました。



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三之丸 (堀ノ内)




二之丸の下には、かつて広大な
敷地の三之丸がありました。

二之丸から眺めた三之丸跡の様子です。



ここには美術館や市民会館、放送局があり
かつては野球場や競輪場などもありましたが、
いまでは更地となり公園として整備が進んでいました。

二之丸を訪れた後に、二重枡形になっている
槻門を抜け三之丸に向かいました。



三之丸から眺める二之丸の石垣と多聞櫓です。
石垣の手前の道路は、当時の堀跡です。



この道路を通り、お堀の端から
三之丸跡へと向かいます。



三之丸を取り囲む堀は、この東側の一部と
南側そして西側が残されています。

東側に残された堀の一番端の所に
東御門があり、その櫓台の石垣の
一部が残っていました。



東御門は通用門にあたるそうですが、
ここには二層の櫓門が渡されていました。

東御門跡を抜けて眺める三之丸跡の様子です。



広大な空き地が広がり、遠く城山の麓の
二之丸御殿跡の多聞櫓と、城山の上の
天守群が小さく見えていました。

2009年7月に訪れた際には、整備工事中でしたが、
この工事は2010年春には完成している筈なので、
今では見違えるように整備されている事と思います。


再び、東御門跡へ戻り、門から南へと続く
堀に沿った土塁を歩いて見る事にしました。



堀に沿って遊歩道があり、
その右手に土塁が続いています。



土塁へ登る事が出来るように階段がありました。

土塁の上から遊歩道越しに眺めた堀の様子です。



堀と土塁の間に、人が歩けるスペースが
あるのは防御上は不利になると思うので、
堀が部分的に埋められたのでしょうか。

三之丸の東南隅の堀の外側から
城山の上の天守群を眺めた様子です。



ここから三之丸南端の
土塁の上を西に向かいました。



広々とした土塁の上の遊歩道です。
ここを歩いて行くと、土塁が途切れ
美術館やNHKへの通路が設けられていました。

当時は、三の丸の南側は、
全面に渡って堀と土塁が続いており、
ここの入り口は後世のものです。



三の丸跡に建つNHKの様子です。

再び、三之丸跡に入り、二之丸御殿跡と
その向こうに聳える天守群の様子を眺めました。






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