和歌山駅前からバスに乗り、5分ちょっとの
公園前で下車すると、すぐ近くに
和歌山城址のお堀があります。
お堀に架かる一の橋が見えてきました。
この一の橋を渡ったところに
和歌山城の大手門が建っていました。
いつもながら、城郭建築が建っていると
街中でもその周囲の雰囲気が一変し、
昔の面影が伝わってきます。
大手門は高麗門形式で、櫓門ではありません。
御三家のお城の大手門としては、簡素な形式です。
元々は一之橋門と呼ばれていたようですが、
1796年(寛政8年)に大手御門と改称されたそうです。
現在の大手門は一の橋とともに1983年
(昭和58年)に再建されたそうです。
大手門の東側には大きな堀が残っています。
まずはその堀に沿って和歌山城を
外から眺める事にしました。
お堀の対岸に石垣が続き、その石垣の
奥に小高い丘が見えています。
堀に沿って南に進むと、その丘の向こうから
和歌山城の天守閣が姿を現してきました。
堀の幅も広く、石垣の規模や、丘の向こうの
天守閣といい規模の大きな眺めです。
さすが、御三家のお城と思いました。
お堀の南端に、城門が見えてきました。
岡口門です。
この岡口門は、和歌山城の搦手門として
1621年(元和7年)に徳川家が建てたものです。
この岡口門は現存の櫓門で、
国の重要文化財に指定されています。
岡口門の南側には、空堀が続き、
その空堀に躑躅が綺麗に咲いていました。
天守閣もその向こうに聳えていました。
岡口門をくぐり、城郭内に入って行くと、
岡口門の先には、高い石垣で築かれた
櫓台がありました。
松の丸隅櫓跡です。
この先には、石垣が壁のように
折れ曲がった枡形がありました。
岡中門跡です。
岡口門と、この岡中門の間はちょっとした
空き地になっているのですが、敵が侵入した際には
二つの門で前後を囲まれ、上からは
松の丸隅櫓からの攻撃を受ける
設計になっていたのでしょうか。
岡中門跡を過ぎ、東側の堀に沿って続く
石垣に上ることが出来ました。
広々とした堀を眺める事が出来ます。
この堀を眺めながら、のんびりと時を過ごす人もいました。
こののどかなお堀を眺め、北に進むと、
一中門跡に出ました。
大手門を入り、50m程進んだところにある門跡で、
ここも石垣がかぎ状に曲がり、
敵の侵入を防ぐようになっています。
石垣は切り石積みという、ブロック状に
切り出した大きな石を積み重ねたものです。
新しい様式なので、徳川時代に造られた
石垣ではないかと思います。
一中門跡を過ぎると、前方に大手門が見えています。
大手門への途中、左手の石垣の上に大きな
樟樹(くすのき)が生い茂っていました。
樹齢450年もある大樟で、樹高35mもあるそうです。
大樟を過ぎ、一旦大手門まで向かった後に、
岡中門跡に近い、表坂上り口から本丸と
天守閣を目指しました。
城址内に案内板があり、天守閣への
道が示されているのですが、いつもながら
初めて本丸へと向かう時は、どこをどのように
辿って天守に向かうのかとてもワクワクします。
表坂を登り、松の丸角櫓跡から眺めた
岡中門です。
岡中門から進入した敵の姿は
城兵に手に取るようにわかった事でしょう。
表坂を上り、一段高くなったところは
小高い丘の上にある本丸や天守閣に
細長く取り巻いた曲輪になっています。
丘の斜面に沿って、石垣が築かれています。
不揃いの石を積み上げた野面積みです。
この石垣の積み方は戦国時代後期の様式なので
秀長が最初に和歌山城を築いた頃の遺構でしょうか。
本丸御殿の庭園の石組みが移築された
七福の庭を過ぎ、丘の上の天守閣を
見上げながら行くと、本丸表門跡です。
ここから右手の丘へと続く階段があり、
いよいよ天守です。
野面積みの石垣の天守一の門跡を過ぎるました。
左に折れると天守閣なのですが、
右手に階段が続いていて、この階段を
上ったところが本丸御殿跡です。
今は上水道貯水池となり、立ち入り禁止ですが、
この本丸御殿跡から振り返ると、和歌山城の
天守閣がとても綺麗に見えました。
ここからの天守閣が一番綺麗でした。
和歌山城の天守閣は標高48.9mの
虎伏山の山頂に築かれています。
虎伏山の名は海上からこの山を眺めると
虎が伏している姿に見えることから名付けられたそうです。
この虎伏山の山頂に大天守、小天守そして
乾櫓や二の御門櫓が聳え、これらの櫓が
多門櫓で繋がれ、いかにも要塞となっています。
天守閣とそれに続く多門櫓の眺めです。
この和歌山城の天守は、1846年(弘化3年)に
落雷によって焼失したのですが、
4年後の1850年(嘉永3年)に再建されています。
1945年の太平洋戦争で焼失してしまいましたが、
1958年(昭和33年)に外観復元されています。
三層の天守ですが、天守前の曲輪からは
威圧感を感じるほどです。
多門櫓に楠門があり、ここが
要塞のような天守閣への入り口です。
楠門を入ると大天守の陰に
小天守がありました。
小天守の入り口の唐破風が
格式の高さを伝えています。
天守閣に入る、最上階から
和歌山の街を眺めました。
上の写真左が、天守から西の眺めです。
楠門の左手に乾櫓があり、その向こうに
和歌山市の中心部が広がっています。
遠く、紀ノ川の流れも見えました。
右の写真は天守の北側、二の丸跡の様子です。
天守閣の後、和歌山城の西半分を見て回りました。
まずは、不明門跡に向かいました。
不明門は元和年間(1620年頃)に建てられた門で、
緊急時の脱出用として、常時閉じられていた門です。
この門は現存していませんが、
この門跡に高石垣が残っています。
高さ23mにも及ぶ立派な石垣で、
1635年(寛永2年)に築かれたそうです。
この当時、和歌山藩初代藩主徳川頼宣公が
南丸から西堀までの築城工事をしていたようで、
その工事が大規模な為、幕府から嫌疑を受けたそうです。
家老の訴えによりその疑いは晴れたそうですが、
江戸への道中にあった普請奉行・久野宗成は
嫌疑が晴れたことを知らぬまま、工事完成の報を受け、
江戸への道中で、責任を帯び切腹したようです。
この不明門のすぐ近くには
本丸表門跡の枡形が残っていました。
本丸表門跡から、虎伏山の麓を西に向かいます。
山の麓に、なだらかな傾斜の石垣が続き、
左手は護国神社の境内になっていました。
なだらかな傾斜の石垣は、築かれた
年代が古い野面積みの石垣です。
そして広い空き地となっている
砂の丸跡の広場に辿り着きました。
その手前を左に折れると追廻門です。
石垣の間に渡された高麗門形式の門です。
この門の城外に騎射稽古の為の馬場があったので
追廻門と呼ばれていたようです。
朱塗りの門は、いかにも風格がありました。
追廻門から一旦城外に出て、西堀に沿って歩きました。
4月の終わりですが、あまりの陽気に汗ばむほどです。
堀に作られた噴水が涼しさを感じさせてくれました。
西堀が尽き、和歌山城の西北の入り口、
鶴の門跡から再び城内に入りました。
古い石垣に沿って歩き、石垣が
途絶えると左手に窪地が見えてきます。
ここは「鶴の渓」と呼ばれ、浅野長政公が
この渓谷で鶴を飼育していたことから
名付けられたそうです。
浅野長政が城主だったのは、1600年以降の事。
豊臣家は以前存続していたとは言え
関が原の戦いで雌雄の決着が尽き、
戦いに明け暮れた戦国の世が
終わった事を感じていたのでしょうか。
この「鶴の渓」の奥(東側)に西の丸庭園があります。
紀州藩藩祖・徳川頼宣公が築いた庭園で、
虎伏山と鶴が渓の地形を生かし、北堀から
引き入れた池が織り成しています。
池の畔に鳶魚閣(えんぎょかく)
という建物が建っています。
黄色い水仙のような花が綺麗な花が咲き、
見事な景観でした。
この奥には池をまたぐ御橋廊下が復元されています。
斜めに架けられた橋を上っていくのですが、
床が滑り、おっかなびっくりで歩いて行きました。
この御橋廊下を渡ると二の丸跡です。
大きな岩が配置された庭園になっていて、
五月の陽気の中、のんびりと時を
過ごしている人達がいました。
和歌山城は予想以上に見所が多く
お城を訪れた充実感を感じていました。