姫路城
Himeji Castle, Japan


登城日:
1990s & 2006. 02. 25







姫路城は言うまでもなく、
日本が世界に誇る名城です。

5層7階の大天守を初め、櫓や門をはじめとする
多くの遺構が残り、世界遺産にも指定されています。





この姫路城は1333年に播磨の守護職赤松則村が
砦を築いたのが始まりということです。
その後、1580年(天正8年)、黒田官兵衛孝高の折り
羽柴秀吉が西国攻略の拠点として入城し、
翌年3層の天守閣を完成させたそうです。

その後、1600年(慶長5年)に三河・吉田城から
入封した池田輝政による大改修が行われ、
姫路城が今見られるような大城郭へと変貌しました。

吉田城の様子はこちらです。


この時、姫路の街を堀ですべて囲む総構と呼ばれる
城壁都市に生まれ変わったそうです。
「総構」の南端はJR姫路駅、
東は京口駅あたりまで広がっていたようです。


この姫路城をいくつかの
区域に分けて紹介します。



大手門 - 菱の門 (三の丸)
Sep. 12, '06

菱の門 - ほの門 (二の丸)
Sep. 15, '06

西の丸
Sep. 17, '06

ほの門 - 備前丸 (本丸)
Sep. 20, '06

天守
Sep. 23, '06

天守 - 二の丸
NEW! Sep. 27, '06





姫路市のHPの地図を拝借しています。




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大手門 - 菱の門
(三の丸)


JR姫路駅で電車を降り、駅前の大通りを
北に向かうと姫路城の姿が見えています。

白鷺城と名付けられた白亜の城郭。
お城に辿りつく間にも期待でワクワクとしてきます。

姫路駅からはかなり遠くに見えるのですが、
当時は、JR姫路駅辺りまでが城郭だったとは驚きです。

姫路駅から1km程で、姫路城の内堀に着きました。
水を湛えた堀の向こうに立派な石垣が続いています。



そして、石垣の向こうには、
白亜の天守が見えていました。




水の張った内堀に張り出した土橋を渡り、
桜門をくぐります。



当時は、石垣の上にも土塀や櫓門が
並び厳重な警固を固めていたのですが、
今は木の門が石垣の間にポツンと立っています。

この桜門を抜けると、目の前に
姫路城の全景が広がりました。



小高い姫山に築かれた天守と小天守
その脇には、いくつもの櫓や多聞櫓が並んでいます。

手前の平地は旧三の丸です。
往時にはここには藩政の中心となる
御居城や向御屋敷が建ち並んでいました。

広々とした三の丸跡を眺めながら
二の丸を目指しました。

青空に天守が聳え、とても絵になる景色です。



左手には、鷺山の上に造られた
西の丸の高石垣が築かれていました。



この写真の櫓は、西の丸の
東南の角に建てられた「カ」の櫓です。

見上げるような高石垣の上に築かれた櫓を見ていると
ここを攻めるのは、不可能なように思えてきます。

入場料を払い、城内に入ると立派な2重の櫓門が現れました。



菱の門です。
この菱の門をくぐると二の丸です。


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菱の門 - ほの門 (二の丸)


菱の門をくぐると、いよいよ多くの
遺構が残る姫路城の城郭に入ります。

まずは、目の前に四方形の三国堀の
向こうに白亜の天守が聳えています。



姫路城の天守を東西南北のすべての
方向から眺めたわけではないのですが、
ここからの天守が一番綺麗なように感じます。


撮影: 2015年10月

大天守だけでなく西小天守と
乾小天守も青空に映えています。

菱の門の右手には石垣の上に
多聞櫓群が見えています。



天守以外にもこうした多くの
城郭建築が残っているのが
姫路城のいいところだと思います。

ややクリーム色がかった石垣も姫路城の
美しさを引き立てているように思います。


三国堀から続く石垣に連なる「い」の門を抜け、
狭い曲輪が現れました。

ここが二の丸の中心部の筈ですが、
直ぐまた石垣と門で区切られています。
広大な三の丸跡に比べ、二の丸は
幾つかの曲輪に分かれています。



この門は「ろ」の門。

菱の門から天守に辿りつくまでに
幾つもの門を通り過ぎるのですが、
門の名前が「い」「ろ」「は」の
順番になっているようです。

「ろ」の門を抜けると、また狭い曲輪となりました。



この写真の左手に進むと西の丸、
右手は天守への最短コースです。
西の丸を訪れた後、天守を目指して進みました。

西の丸の様子は
こちらです。

ここからは土塀と石垣に囲まれた
狭い石段の路地を登っていきます。



大勢の敵が押し寄せた時、
この狭い路地では、一人ずつの縦列にならざるを得ず、
石垣の上から敵を迎え撃つには適しているようです。

この路地の先にある門が「は」の門です。



青空に白壁の門と樟でしょうか、
緑の木が映えていました。

この「は」の門をくぐると、乾曲輪です。
ここも狭い曲輪で、再び狭い路地となり
「に」の門に至ります。



この「に」の門は、路地の突き当たりの様な位置にあり、
門の高さは低く、また門の内部で折れ曲がっていて
この門に入った敵にとっては難関だと思います。

狭い曲輪が連続する縄張りや、連続する狭い路地から、
優雅な姫路城が戦闘の為のお城というのが実感できます。

「に」の門を抜けると、いよいよ天守が目の前に迫ってきました。
左に乾小天守、右に西天守を従え、威圧感さえ感じます。



この天守群に向かう手前に「ほ」の門があります。



身を屈ませないと頭がつかえてしまう、
この小さな門が本丸への入り口。

天守への最後の関門です。



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西の丸


菱の門をくぐるり左手に折れると西の丸です。
鷺山の上に築かれた西の丸は
池田氏が鳥取城に移封された後、1617年に
姫路城主となった本多忠政が増築したものです。

姫路城の西の端にある曲輪で、防御を固める為、
西の端には、多聞櫓という長屋のような建物が続いています。

江戸城や名古屋城、大阪城等の大きなお城は、
本丸や二の丸の周囲は多聞櫓で囲われ、
防御性を高めていたそうですが、
その殆どが失われています。

現在、石垣にそって多聞櫓が連続している様子が眺められるのは
この姫路城と熊本城だけと思います。


姫路城に残されたこの長く続く多聞櫓の中に入ってみました。
ちなみに姫路城では多聞櫓を渡櫓と呼んでいます。



現存の重要文化財なので、靴を脱いで中に入ります。




多聞櫓の内部は五間(約10m)毎に
壁で仕切られています。
当時は、土蔵として使われていたようです。

以前、桜の季節に来た時には、
もの凄い観光客で押すな押すなの大混雑でしたが、
この日は殆ど人がいなくてひっそりとしていました。

折れ曲がる石垣に沿って、
櫓がいくつも連続しています。

多聞櫓から望む姫路城天守。



本当に端正な姿です。

天守の反対方向には、お堀と船場川の向こうに
住宅が広がり、その先に男山が見えました。




長い渡櫓の先には、化粧櫓と呼ばれる二重櫓があります。
化粧櫓は、本多忠政の息子、忠刻の正室・千代姫の
化粧代で建てられたといわれています。

二代将軍・徳川秀忠の娘で、豊臣秀頼に嫁いでいた千代は
大阪夏の陣で命からがらに逃げ出し、
その後、本多忠政に一目ぼれし、
再婚したと伝えられています。




櫓の内部には、貝合わせをしている
千代の人形が展示されていました。

先ほどの男山には、夭逝した長男・幸千代を祭り、
毎日朝晩にこの渡櫓から拝んでいたそうです。

化粧櫓は生憎、修理中でした。
西の丸に残る渡櫓。



当時の様子が伝わって来るようでした。



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ほの門 - 備前丸 (本丸)


身を屈めながら「ほ」の門をくぐり、
いよいよ姫路城本丸に入ります。

「ほ」の門を抜けて直ぐ右手に
古びた土壁が現れました。



油壁と呼ばれるこの壁は、一説には
秀吉時代から残る唯一の遺構ということです。

壁の奥の門は水の一門。
天守入り口の備前丸への近道ですが、
天守をぐるっと廻って備前曲輪に出ようと思います。

目の前には、天守の石垣が迫り、
平櫓の間の狭い路地になっています。



平櫓は籠城の為の米や塩を
貯めていた倉庫として使われていたようです。

それにしても、このあたりの区画も狭く、
他の観光客の人がいないと、このまま
歩いて行っても良いのかと迷う程です。

「イ」から「ヘ」と続く平櫓を過ぎると
白漆喰の土塀で区画が仕切られています。
その土塀を「へ」の門で抜けます。



門の裏側に控え柱を立て、
門と控え柱を屋根で覆った構造で、
高麗門と呼ばれています。

天守の裏側にあたる北側から門を抜けるので、
門の裏側の控え柱が見えています。

門を抜けると一段低くなった狭い曲輪です。
「へ」の門の正面からの様子。



「へ」の門を抜けた曲輪には
搦め手口への出入り口となる
「と」の門がありました。



天守の周りにも門が幾つも重なり、
どの門を抜ければ天守に近づくのか、
判らなくなってしまいそうです。

もう一つ「ち」の門を抜けると、
いよいよ天守を仰ぎ見る
備前丸(本丸)への入り口となる
備前門を抜けます。



本丸への最後の関門となる備前門は
厳重な櫓門となっています。

備前門を抜けると、均整の取れた
白亜の大天守が目の前に聳えていました。



備前丸からは城下の様子も眺められます。

池田輝政の築城当時は
この備前丸に御殿が建ち、
城主が住んでいた事と思います。

備前丸を抜けると、
いよいよ天守に向かいます。



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天守


姫路城天守は東西、そして乾の3つの
小天守を従えた連立式の天守で、
5層6階地下1階建てです。



2層の入り母屋造りの建物の上に、
3層の望楼を載せた構造になっていて、
望楼型と呼ばれる形式です。

現存する天守では最も大きく、
高さは約31.5mあるそうです。


備前丸の西の端に天守への登城口があります。
珍しい二重の櫓門になっている水の五門から
天守内に入った筈なのですが、
気がせいていたのか、覚えがありません。

薄暗い城内に入ると、ます目に付いたのが
東西、二つの大柱です。



太い木が、この大きな天守を支えています。

この姫路城天守は、昭和の初めに
解体修理が行われたそうです。
その時、この西大柱は腐っていた為に
取り替えられたようです。

東大柱は当時のものが今でも使われているようです。

姫路城の天守の構造はお城の中央の部屋の周りを
2間の幅の廊下の様な武者走りが囲っています。

その武者走りから城外を眺める事が出来ます。



この写真は、お城の南側。
姫路駅方面の様子です。

そして下の写真は備前門の様子です。



城内のいたるところに、武具掛けがあり、
鉄砲や槍が掛けられています。

当時は、天守が戦の拠点という事がよく判ります。



この写真は天守内の武者走りの様子です。
格子窓から淡く光が入っていますが、
内側の部屋にはあまり届いていません。

急な階段を幾つも上り、ついに
天守の最上階に着きました。

天守最上階からの眺めです。



右の写真は、天守から望む西の丸。
左の写真は西小天守です。

そして、下の写真は東南の方向を眺めたものです。




写真を撮るのは憚られたのですが、
姫路城の天守最上階には、神社が祭られています。

後で調べてみると、この神社は刑部神社で、
刑部姫と呼ばれる「もののけ」がこの天守に住み、
この刑部姫を祀り加護を得ていたそうです。

若き日の宮本武蔵が、刑部姫にとりついた
「もののけ」を退治したという逸話も残っているようです。



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天守 - 二の丸


姫路城天守の登城を終え、桜門まで戻るのですが、
天守に来た時とは違うルートで戻ろうと思います。

まず、天守を出て水三の門を抜け、
西小天守と乾小天守へと繋がる石垣と、
土塀で囲まれた狭い通路を抜けてみました。



この一角は観光客も少なく当時の様子もそのままなので
武者が現れても不思議では無いほどの雰囲気です。

途中の水二の門を抜けると、天守に登る前に
通り過ぎた油壁の所に出ました。


ここで折り返し備前丸を抜けて戻る事にしました。
備前門を抜けると、目の前が井戸櫓です。



これは内部に井戸のある櫓で、
井戸を持つ櫓は珍しいのだそうです。

ちなみに、姫路城内には全部で33もの井戸があったそうです。
何千人もの兵士が籠城できるように
水の確保は最重要課題だったようです。

ここを右に折れると、井戸曲輪です。



この井戸曲輪も細長い曲輪で、大群が押し寄せても
容易に撃退できるような構造になっています。


やや古びた木造の「り」の門をくぐりました。



この写真が、「り」の門です。
「り」の門をくぐったところが上山里曲輪です。
広場のようになっている曲輪の
中央に古びた井戸があります。

この井戸も写真に撮るのがちょっと怖かったのですが、
この井戸は播州皿屋敷のお菊さんが
投げこまれた井戸という話です。

この上山里曲輪と二の丸の境界に
聳えるのが「ぬ」の門です。



この「ぬ」の門は上に二重の櫓が
載った厳重な構えになっています。

「ぬ」の門を抜け、ゆるやかな坂道を下ると二の丸です。



これで、広い姫路城を一巡りしました。
当時の建物が多く残る姫路城、
タイムトリップしたような散策でした。



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