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但馬は、戦国時代に日本の六分の一を治めた
山名氏は応仁の乱以降、勢力を落とし、1569年
その山城が有子山城です。
しかし、その有子山城も1580年(天正8年)の
小出吉政は関ケ原の合戦の際に西軍に加担しますが、
有子山城は、主郭が有子山の山頂部にあり、
山頂部の主郭には麓の出石城から登れますが、
この有子山城には、2012年5月に登城しています。
JR豊岡駅、八鹿駅、江原駅からバスの便があります。
バスの時刻表は下記です:
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有子山の麓に築かれた出石城の稲荷坂を
暫くは、普通の山城を上るときのような山道
登山道の両脇は谷になっていて、山の稜線を
所々、岩肌が露出している箇所もあり、上りも大変ですが
登山道の入口から5分ほど登ったところで、
暫く登ると、土橋のような隘路に差し掛かりました。
登山道が細くなっている箇所の両側は竪堀のような
再び、急勾配の稜線を上るようになります。
上の写真右側の坂道を上り詰めると、
先ほどの850mの標識から、30分も1時間も登って
残り500mの標識を見て、その登った距離以上も
なだらかな上り坂を歩いていると、
石垣と言っても、痕跡が残っているといった
この先で、登城道の左手に平削地が見えてきました。
案内表示はありませんでしたが、
この曲輪跡から、九十九折の道となり、
九十九折の道を上っていくと、斜面に石垣が見えてきました。
何段にも石垣の跡が残っています。
山名裕豊が有子山城を築いたのは1574年(天正2年)の事
石垣の上には、広い曲輪がありました。
縄張図と照らし合わせると第五曲輪と思います。
それまで木々が生い茂る中を歩いていましたが、
木々を抜け、青空が広がる第四曲輪にやってきました。
この石垣は第三曲輪を囲うものです。
展望が開け、有子山の南の山々が見えてきました。
第三曲輪の石垣の脇の細い道を進んでいきます。
ここを抜けると、北側の展望が開け、
目の前の土塁を越えると、第二曲輪に出ました。
急な斜面を登っている時には思いも
辛い山道を登ったご褒美にこの素晴らしい
そして、第二曲輪の東側にも石垣がありました。
算木積みが行われるようになったのは、1605年
いよいよ一段高い本丸に辿り着きました。
本丸は木々が映えておらず、広々としています。
本丸の東側は木々が生い茂っています。
規模の大きな堀切の東側には千畳敷の切岸が続きます。
千畳敷は木が生い茂り展望は効きませんでしたが、
千畳敷から眺める本丸との間の堀きりです。
有子山城は、険しい登城道そして何段も
Izushi Castle, Japan
登城日:
2012.5.1
山名氏の本拠地で、守護を務めていた所です。
(永禄12年)には織田軍の木下秀吉の但馬侵攻で
居城の此隅山城が落城した為、山名裕豊が
1574年(天正2年)に築いた山城を築きました。
羽柴秀吉の第二次但馬征伐で落城し、その後、
1585年(天正13年)に前野長康、1595年(文禄4年)
からは小出吉政が城主を務めます。
領土は安堵され、江戸時代に入った1604年(慶長9年)に
麓に出石城を築き、城下町も整備されました。
http://shanehashi.html.xdomain.jp/Oshiromeguri/Kansai/IzushiJyo.html
http://shanehsmt.html.xdomain.jp/Travel/Japan/Kansai/Izushi.html
西に段階的に曲輪が続いているようです。
主郭の東側には、広い千畳敷もあります。
その登山道は険しいのですが、山頂部からの
出石の町並みの素晴らしい眺めを愉しめます。
その時の様子を紹介します。
出石のバス停から徒歩5分程で、出石城址に着きます。
有子山城の主郭へは、稲荷坂を上り40分程の山道です。
豊岡駅 - 出石間
八鹿駅 - 出石間
江原駅 - 出石間
稲荷坂から主郭へ
上った先には、背後の有子山の山頂に築かれた
有子山城の登城口の案内がありました。
撮影: 2012年5月
でしたが、その後は険しい登山道になりました。
上るのですが、その勾配がとても険しく、
道の脇に垂らされたロープを伝って上ります。
撮影: 2012年5月
下山の際にも足を滑らせてしまいそうな登山道でした。
今まで、いくつもの山城に行っていますが、有子山城の
登山道が一番険しかったと思います、
撮影: 2012年5月
本丸まで850mとの表示がありました。
ここも険しい上りです。
撮影: 2012年5月
窪みが麓に向かって続いていました。
道の脇のロープが無ければ、登れない程の
急斜面が続きました。
撮影: 2012年5月
山頂まで500mの標識がありました。
撮影: 2012年5月
いたように思うのですが、写真が撮影された
時刻で確認すると、15分程で登っています。
残っているのか、と思いましたが、山頂部が
近づいたのか、ここからは平坦な道が続きました。
登城道の谷側に石垣が見えてきました。
撮影: 2012年5月
程度ですが、この辺りは、後で調べてみると
井戸曲輪と呼ばれているようです。
撮影: 2012年5月
これは曲輪跡に違いありません。
再び勾配を上るようになりました。
撮影: 2012年5月
撮影: 2012年5月
石垣の石の表面は削られているように平らになっており、
野面積みではなく、打ち込みハギ形式の石垣のように思います。
撮影: 2012年5月
ですから、打込接ぎの技術で築かれたとは考えにくく、
1595年(文禄4年)に城主となった小出吉政が城郭を
整備された際に築かれたものでしょうか。
撮影: 2012年5月
ここから緩やかな坂道を上ると第四曲輪です。
撮影: 2012年5月
ようやく空が広がってきました。
第四曲輪には、見事な石垣が続いています。
撮影: 2012年5月
南側から回り込んで第二曲輪を目指します。
撮影: 2012年5月
撮影: 2012年5月
出石の街並みが見えてきました。
撮影: 2012年5月
ここからは、出石の街並みが手に取るように見渡せました。
撮影: 2012年5月
よらなかった見事な景色です。
眺めが見られた様な気がします。
角部はしっかりとした算木積みになっていて、
江戸時代に入ってから築かれたと思われます。
撮影: 2012年5月
(慶長10年)前後からとされているようです。
一方で、江戸初期の有子山城主だった小出吉政は
1604年(慶長9年)に麓に出石城を築いています。
ここから眺める出石の街はまさに
息を飲むような眺めでした。
撮影: 2012年5月
撮影: 2012年5月
本丸の東側にある千畳敷との間は深く
切れ込んだ堀切になっていました。
撮影: 2012年5月
千畳敷は周囲から10m程も高低差がありました。
撮影: 2012年5月
この千畳敷は有子山城で最も広い曲輪です。
撮影: 2012年5月
規模の大きな堀切でした。
撮影: 2012年5月
折重なるっている曲輪と曲輪を支える石垣、
そして本丸や第二曲輪から眺める出石の街の
景色と、素晴らしい山城でした。