, 有子山城


有子山城
Izushi Castle, Japan

登城日:
2012.5.1

【有子山城 概要】

但馬は、戦国時代に日本の六分の一を治めた
山名氏の本拠地で、守護を務めていた所です。

山名氏は応仁の乱以降、勢力を落とし、1569年
(永禄12年)には織田軍の木下秀吉の但馬侵攻で
居城の此隅山城が落城した為、山名裕豊が
1574年(天正2年)に築いた山城を築きました。

その山城が有子山城です。

しかし、その有子山城も1580年(天正8年)の
羽柴秀吉の第二次但馬征伐で落城し、その後、
1585年(天正13年)に前野長康、1595年(文禄4年)
からは小出吉政が城主を務めます。

小出吉政は関ケ原の合戦の際に西軍に加担しますが、
領土は安堵され、江戸時代に入った1604年(慶長9年)に
麓に出石城を築き、城下町も整備されました。

出石城の登城記は こちらです:
http://shanehashi.html.xdomain.jp/Oshiromeguri/Kansai/IzushiJyo.html

出石の散策記は こちらです:
http://shanehsmt.html.xdomain.jp/Travel/Japan/Kansai/Izushi.html

有子山城は、主郭が有子山の山頂部にあり、
西に段階的に曲輪が続いているようです。
主郭の東側には、広い千畳敷もあります。


山頂部の主郭には麓の出石城から登れますが、
その登山道は険しいのですが、山頂部からの
出石の町並みの素晴らしい眺めを愉しめます。

この有子山城には、2012年5月に登城しています。
その時の様子を紹介します。

【有子山城へのアクセス】

JR豊岡駅、八鹿駅、江原駅からバスの便があります。
出石のバス停から徒歩5分程で、出石城址に着きます。
有子山城の主郭へは、稲荷坂を上り40分程の山道です。

バスの時刻表は下記です:
豊岡駅 - 出石間
八鹿駅 - 出石間
江原駅 - 出石間

【有子山城登城記】

主郭と千畳敷
NEW ! Feb. 16, '20

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稲荷坂から主郭へ

有子山の麓に築かれた出石城の稲荷坂を
上った先には、背後の有子山の山頂に築かれた
有子山城の登城口の案内がありました。


撮影: 2012年5月

暫くは、普通の山城を上るときのような山道
でしたが、その後は険しい登山道になりました。

登山道の両脇は谷になっていて、山の稜線を
上るのですが、その勾配がとても険しく、
道の脇に垂らされたロープを伝って上ります。


撮影: 2012年5月

所々、岩肌が露出している箇所もあり、上りも大変ですが
下山の際にも足を滑らせてしまいそうな登山道でした。
今まで、いくつもの山城に行っていますが、有子山城の
登山道が一番険しかったと思います、


撮影: 2012年5月

登山道の入口から5分ほど登ったところで、
本丸まで850mとの表示がありました。
ここも険しい上りです。

暫く登ると、土橋のような隘路に差し掛かりました。


撮影: 2012年5月

登山道が細くなっている箇所の両側は竪堀のような
窪みが麓に向かって続いていました。

再び、急勾配の稜線を上るようになります。
道の脇のロープが無ければ、登れない程の
急斜面が続きました。


撮影: 2012年5月

上の写真右側の坂道を上り詰めると、
山頂まで500mの標識がありました。


撮影: 2012年5月

先ほどの850mの標識から、30分も1時間も登って
いたように思うのですが、写真が撮影された
時刻で確認すると、15分程で登っています。

残り500mの標識を見て、その登った距離以上も
残っているのか、と思いましたが、山頂部が
近づいたのか、ここからは平坦な道が続きました。

なだらかな上り坂を歩いていると、
登城道の谷側に石垣が見えてきました。


撮影: 2012年5月

石垣と言っても、痕跡が残っているといった
程度ですが、この辺りは、後で調べてみると
井戸曲輪と呼ばれているようです。

この先で、登城道の左手に平削地が見えてきました。


撮影: 2012年5月

案内表示はありませんでしたが、
これは曲輪跡に違いありません。

この曲輪跡から、九十九折の道となり、
再び勾配を上るようになりました。


撮影: 2012年5月

九十九折の道を上っていくと、斜面に石垣が見えてきました。


撮影: 2012年5月

何段にも石垣の跡が残っています。
石垣の石の表面は削られているように平らになっており、
野面積みではなく、打ち込みハギ形式の石垣のように思います。


撮影: 2012年5月

山名裕豊が有子山城を築いたのは1574年(天正2年)の事
ですから、打込接ぎの技術で築かれたとは考えにくく、
1595年(文禄4年)に城主となった小出吉政が城郭を
整備された際に築かれたものでしょうか。

石垣の上には、広い曲輪がありました。


撮影: 2012年5月

縄張図と照らし合わせると第五曲輪と思います。
ここから緩やかな坂道を上ると第四曲輪です。


撮影: 2012年5月

それまで木々が生い茂る中を歩いていましたが、
ようやく空が広がってきました。

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主郭と千畳敷

木々を抜け、青空が広がる第四曲輪にやってきました。
第四曲輪には、見事な石垣が続いています。


撮影: 2012年5月

この石垣は第三曲輪を囲うものです。
南側から回り込んで第二曲輪を目指します。

展望が開け、有子山の南の山々が見えてきました。


撮影: 2012年5月

第三曲輪の石垣の脇の細い道を進んでいきます。


撮影: 2012年5月

ここを抜けると、北側の展望が開け、
出石の街並みが見えてきました。


撮影: 2012年5月

目の前の土塁を越えると、第二曲輪に出ました。
ここからは、出石の街並みが手に取るように見渡せました。


撮影: 2012年5月

急な斜面を登っている時には思いも
よらなかった見事な景色です。

辛い山道を登ったご褒美にこの素晴らしい
眺めが見られた様な気がします。

そして、第二曲輪の東側にも石垣がありました。
角部はしっかりとした算木積みになっていて、
江戸時代に入ってから築かれたと思われます。


撮影: 2012年5月

算木積みが行われるようになったのは、1605年
(慶長10年)前後からとされているようです。
一方で、江戸初期の有子山城主だった小出吉政は
1604年(慶長9年)に麓に出石城を築いています。

いよいよ一段高い本丸に辿り着きました。
ここから眺める出石の街はまさに
息を飲むような眺めでした。


撮影: 2012年5月

本丸は木々が映えておらず、広々としています。


撮影: 2012年5月

本丸の東側は木々が生い茂っています。
本丸の東側にある千畳敷との間は深く
切れ込んだ堀切になっていました。


撮影: 2012年5月

規模の大きな堀切の東側には千畳敷の切岸が続きます。
千畳敷は周囲から10m程も高低差がありました。