出石の地には有子山に1574年(天正2年)に
その後、1585年(天正13年)に前野長康、1595年
小出吉政は関ケ原の合戦の際に西軍に加担しますが、
一国一城令が出されると、出石城は但馬で
出石藩では、1696年(元禄9年)に小出英及が三歳で
更には1706年(宝永3年)に仙石政明が上田藩から
江戸時代末期には出石騒動が起き、それまでの
この出石城には、2012年5月に登城しています。
JR豊岡駅、八鹿駅、江原駅からバスの便があり、
バスの時刻表は下記です:
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豊岡からのバスを降り、出石城址に向かう途中、
この石垣の東側には、家老屋敷がありました。
この家老屋敷は、藩主・仙石氏の一族で
仙石左京は、江戸時代の末期に近い1835年(天保6年)に
家老屋敷から更に東に進むと、出石城の
登城橋が架かる谷山川は二ノ丸と三ノ丸の間を流れ、
登城橋から北側に三ノ丸跡が広がっています。
出石は2005年に豊岡市と合併し、豊岡市の出石支所が
ここから南を眺めると、出石城の東西の櫓の向こうに
この公園の北西隅に、古風な塔が建っています。
江戸時代から建っている風情ですが、
辰鼓楼には太鼓が置かれ、時を告げていたので、
この三ノ丸跡の北の端には堀も残っていました。
詳しく散策すると、土塁跡や櫓台も残って
登城橋から谷山川に沿って更に東に遡ると、
祇王寺は、戦国時代末期の永禄年間
出石城三ノ丸跡から登城橋まで戻り、
登城橋を渡った所にある登城門です。
石垣に囲われた登城門を抜けると下の曲輪です。
出石城は中世山城が築かれた有子山の
登城門を出た辺りからは西隅櫓が形よく見え、
二ノ丸の石垣の下には躑躅が綺麗に咲いていました。
その向こうには、朱色の鳥居が
石段を登りながら幾つもの鳥居をくぐり、
二ノ丸から眺める東隅櫓です。
江戸時代、この東隅櫓は単層だったそうです。
その奥に二ノ丸の曲輪が広がっていました。
そして、二ノ丸から眺めた西隅櫓です。
当時の出石城の様子を今に留めるような姿です。
二の丸から下の曲輪を一望できます。
二の丸の西の端の南側に西隅櫓が建っています。
この後、本丸へと向かいました。
二の丸の西隅櫓から本丸を目指しました。
山里曲輪は、鳥居の続く石段の更に東側にあります。
山里曲輪に立寄った後、朱塗りの鳥居の続く
この石段の道は稲荷坂と呼ばれているようです。
東隅櫓の建物を過ぎると本丸への入り口があります。
右手手前に建つ本丸東隅櫓です。
下から見上げる姿とは異なり、本丸で眺める
本丸から眺める出石の町並みです。
本丸には感応殿が建っていました。
感応殿は、1706年(宝永3年)から出石藩主となった
仙石秀久は、豊臣秀吉の武将で洲本や高松城主となり、
本丸からは稲荷曲輪の石垣が見えていました。
西の端の西隅櫓を出たところの景色です。
この後、三度目の稲荷坂を通り、稲荷曲輪に向かいます。
稲荷曲輪の石垣が間近に眺められました。
稲荷曲輪には有子山稲荷神社が建っています。
城内にある神社ですが、江戸時代も
出石城で最も高い位置にある稲荷曲輪からは
出石城の散策は以上となりますが、稲荷坂を
Izushi Castle, Japan
登城日:
2012.5.1
山名祐豊が有子山城を築きます。
その有子山城は1580年(天正8年)に
羽柴秀吉の第二次但馬征伐で落城します。
http://shanehashi.html.xdomain.jp/Oshiromeguri/Kansai/ArikoyamaJyo.html
(文禄4年)からは小出吉政が城主を務めます。
領土は安堵され、江戸時代に入った1604年(慶長9年)に
麓に出石城を築き、城下町も整備されました。
http://shanehsmt.html.xdomain.jp/Travel/Japan/Kansai/Izushi.html
唯一のお城として残ったそうです。
亡くなると小出氏は無嗣改易となり、松平忠周が
武蔵岩槻から入城します。
http://shanehashi.html.xdomain.jp/Oshiromeguri/Kanto/IwatsukiJyo.html
入城し、明治維新まで仙石氏が出石藩を治めます。
5万6千石から3万石へと減封になりました。
その時の様子を紹介します。
出石のバス停から徒歩5分程です。
豊岡駅 - 出石間
八鹿駅 - 出石間
江原駅 - 出石間
西の門から三ノ丸
通りの脇に立派な石垣が見えてきました。
これは、出石城西門の石垣です。
撮影: 2012年5月
撮影: 2012年5月
出石藩の筆頭家老だった仙石左京の屋敷跡です。
勃発した仙石騒動の首謀者とされる人物です。
出石の散策記は
こちらです:
http://shanehsmt.html.xdomain.jp/Travel/Japan/Kansai/Izushi.html
登城門の手前に登城橋が架かっていました。
撮影: 2012年5月
さも出石城の堀の役割を果たしていたと思えますが、
この川は、明治以降に開削されたものだそうです。
撮影: 2012年5月
三の丸跡に置かれていますが、その北に広がる
公園が江戸時代の対面所だったようです。
有子山城址のある有子山が見えていました。
撮影: 2012年5月
出石の町のシンボルになっている辰鼓楼です。
撮影: 2012年5月
1871年(明治4年)に建てられています。
当初は太鼓櫓とも呼ばれていたそうです。
撮影: 2012年5月
いるようですが、見逃してしまいました。
櫓のような建物のある経王寺がありました。
撮影: 2012年5月
(1558-1570) に建立されたお寺で、出石藩
第四代藩主・仙石久行のお墓もあるそうです。
二ノ丸へと向かいました。
撮影: 2012年5月
今では屋根のある門になっていますが、
当時は埋門型式の門だったそうです。
撮影: 2012年5月
麓に階段状に曲輪が配置されていて、
下の曲輪は最も低い位置にあります。
撮影: 2012年5月
その下に二ノ丸の石垣が聳えています。
撮影: 2012年5月
下の曲輪の東側には稲荷神社があります。
撮影: 2012年5月
石段に沿って続いていました。
撮影: 2012年5月
二ノ丸へと向かいました。
撮影: 2012年5月
ここには下の曲輪から二ノ丸へと通じる
桝形虎口がありました。
撮影: 2012年5月
撮影: 2012年5月
撮影: 2012年5月
東隅櫓、西隅櫓とも1968年(昭和43年)の復元です。
撮影: 2012年5月
綺麗に咲いた躑躅の向こうに出石の町並みが見えていました。
この更に西側には西曲輪が広がっていました。
撮影: 2012年5月
一旦、東側に戻って山里曲輪に立寄りました。
撮影: 2012年5月
山里という名前から、当時は城主のプライベートな
建物が建っていたのではないかと思います。
撮影: 2012年5月
石段を登って向かいました。
撮影: 2012年5月
江戸時代には石段は無く、坂道が続いていました。
本丸を入った左側に庭園跡が残っています。
撮影: 2012年5月
撮影: 2012年5月
東隅櫓は、こじんまりとして見えました。
二ノ丸からよりも広い範囲が見渡せました。
撮影: 2012年5月
撮影: 2012年5月
仙石氏の祖・仙石秀久を祀ったお堂です。
その後一時、秀吉の勘気を受け浪人しますが、
小諸城主として復活した人です。
出石城では本丸より一段高いところに
稲荷曲輪があります。
撮影: 2012年5月
丁度カップルが手を繋ぎながら坂道を歩いていました。
絵になる光景でした。
撮影: 2012年5月
撮影: 2012年5月
撮影: 2012年5月
この有子山稲荷神社は、出石城の築城と同じく
1604年(慶長9年)に創建されています。
撮影: 2012年5月
身分を問わずに参拝する事が出来たそうです。
撮影: 2012年5月
出石の町並みを良く見渡す事が出来ました。
出石のシンボル・辰鼓楼も見えています。
上った先には、背後の有子山の山頂に築かれた
有子山城の登城口の案内がありました。
撮影: 2012年5月
http://shanehashi.html.xdomain.jp/Oshiromeguri/
Kansai/ArikoyamaJyo.html
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