岩槻城
Iwatsuki Castle, Japan


登城日:
2007. 06. 23







岩槻城は江戸時代に岩槻藩の藩庁が置かれたお城です。
川越から15km程東の元荒川の畔に位置し、
戦国時代には、扇谷・山内の両上杉氏、そして北条氏を
交えての争奪戦が行われた要衝のお城だったようです。

東武野田線の岩槻市の東、
約1kmちょっとのところにあります。


地図はこちらです→ Mapion


岩槻城の歴史は中世に遡り、1478年に古河公方方の
成田自耕斎正等が築城したそうです。

この頃、今の北関東地方は扇谷上杉氏と山内上杉氏の
間の紛争があり、情勢は混沌としていたようです。

その後、1522年(大永5年)に太田道灌の養子の太田資家の
支配するお城となり、扇谷上杉氏の重要な拠点になります。
北条早雲を祖とする後北条氏の力が関東中部にも及んでくると
岩槻城は北条氏との争奪戦の舞台になります。

1525年(大永5年)に北条氏の手に渡り、その6年後の
1531年(享禄4年)には太田氏が岩槻城を奪回したそうです。

1546年(天文15年)の河越夜戦で北条氏康が
山内上杉氏と古河公方の連合軍に大勝した後も
岩槻城は上杉方の支配化だったのですが、
1580年(天正8年)には太田氏が北条氏の軍門に下り
岩槻城も北条氏の支配下に入ったそうです。

その岩槻城も1590年(天正18年)の秀吉の小田原攻めの際に
2万もの豊臣軍に攻められ落城し、以降は関東に移封された
徳川家康の支配下に置かれました。

江戸時代に入って岩槻藩が置かれると、初期の頃は、
青山忠俊阿部重次、板倉重種、戸田忠昌そして
小笠原長重と時の老中が藩主となり、幕閣の
要職を占める大名の封地となっていたようです。

川越の様子はこちらです。
川越城の様子はこちらです。


この岩槻城の城郭図を見ると、
広い沼地に浮かぶ水城だったようです。



城の東側を流れる元荒川も天然の
防御の役目を果たしていたと思われ、
難攻不落のお城だったように思います。

江戸時代に入ると、沼に囲まれた本丸や
二の丸は放棄されていたようで、
さらに現在では、上図の右下にある新曲輪と
鍛冶曲輪の一部が僅かに残っている程度です。


岩槻城を訪れた日は真夏の太陽が照りつける暑い日でした。
吉見百穴と武州松山城に立ち寄って、汗を掻いたので
行きは岩槻の駅からタクシーで向かいました。

吉見百穴の様子はこちらです。
武州松山城の様子はこちらです。

タクシーを降りると岩槻城址の公園管理事務所の前です。
ここは当時、新曲輪だったところです。
まずは、ここでパンフレットを
もらって城址の散策です。

まずは管理事務所のすぐ近くの
岩槻城黒門に行きました。



この門は現存ですが、移築されていて
城内のどこにあったかは不明のようです。

黒門のすぐ先に土塁があり、これが
新曲輪と鍛冶曲輪を隔てる土塁です。



この土塁を過ぎると鍛冶曲輪に入り、
目の前に池が広がっていました。



当時は、岩槻城の周囲を取り囲んでいた
沼の一部が残されているものです。
池の中央に架かる赤い八橋が印象的です。

この公園は、岩槻の人達の憩いの場になっているのか
三々五々、この池の周囲を散策している人がいました。

池の反対側、茂みの中に土塁に沿って通路がありました。



当時の空堀の跡で、発掘の結果では、
現在よりも3mも掘り下げられていたそうで、
堀の底には障子状の畝があったそうです。

曲がりくねったこの空堀の通路を通っていくと
開けた鍛冶曲輪跡に出ました。



岩槻城の別名「白鶴城址」と書かれた
大きな碑も建っていました。



そしてこの広場から太田道灌所縁の
道かん橋を渡り、城郭外に出ました。

道路の向こうに、緩やかに元荒川が流れていました。



水は澄んでいるのかどうか判りませんが、
夏の青空を写した青い川面が綺麗でした。

元荒川から戻り、鍛冶曲輪の外側の堀跡を歩きました。



こちらの堀跡も何度も折れ曲がり、
どこをどう歩いているのか判らなくなります。
馬出の跡があったようですが、
気がつきませんでした・・・

やっとの事で、鍛冶曲輪に出て、
黒門まで戻ってきました。

黒門の先に、もう一つの遺構の
岩槻城裏門があるので、
そちらにも行ってきました。



黒門に比べると一回り小ぶりな城門です。

この城門もどこに置かれていたのか
判っていないようですが、1770年(明和7年)に
修造され、1823年(文政6年)に修理された
記録が残っているそうです。

裏門を眺め、一通りから岩槻駅に戻ることにしました。
岩槻名産の岩槻人形の塚を通り、
正面に見えた黒門です。



木々の間からの黒門は威厳がありました。

城址公園内を駅へと向かう道を歩いていると
なだらかな下り坂になっていて、
芝生広場が見えてきました。



ここは当時、新曲輪に接していた
沼地だったところだと思います。


城址公園を離れ、東西に走る広い通りの角にある
消防派出所のところに三の丸の碑が建っていました。



ここから岩槻駅までは1km弱です。

広い通りの南側に「時の鐘」や
岩槻藩の藩校だった遷喬館
(せんきょうかん)があるというので
裏道を歩いて行きました。

時の鐘は消防派出所から程近いところにありました。



岩槻城下の時の鐘は1671年(寛文11年)に当時の
城主・阿部正春によって鋳造されたそうです。
ひびが入ったので、50年後の1720年(享保5年)に
改鋳されたものが、この時の鐘だそうです。
鐘楼は1853年(嘉永6年)に改造されたものということです。

静かな裏通りを歩くうちに、遷喬館が見えてきました。



遷喬館の茅葺屋根が、近代的な住宅街を
当時の雰囲気に近づけているようでした。

この遷喬館は元々は岩槻藩に仕えていた
儒者・児玉南柯の私塾だったそうですが、
それが後に藩校になったそうです。

建物の内部は畳敷きに、質素な白い
襖が並び、凛とした雰囲気でした。



この雰囲気は、水戸城址にある
弘道館で感じたものと一緒でした。

水戸城の様子はこちらです。



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