松山城の城郭は丘陵地に本丸、二の丸
春日丸そして三の丸が西から東に並ぶ
連郭式のような配置になっていますが、
小さな曲輪がいくつも主要な曲輪の周囲にあり
複雑な形状になっています。
真夏を思わせる照りつけるような日差しの中
東松山駅から15分程歩くと市野川にたどり着きました。
市野川の堤防に立つと、武州松山城のある
丘陵地が手に取るように見えました。
この丘陵地の左手に、国史跡の吉見百穴があり、
そこを訪れた後に、武州松山城の探索を始めました。
東松山から鴻巣へと向かう主要街道の脇に
武州松山城の入り口がありました。
上り口に入ってすぐに古いお墓があり、
その脇を上って行きます。
樹木が生い茂り深い森に入っていくようですが、
深く切れ込んだ堀切が城址である事を知らせてくれます。
この堀切はとても深く、立派なものでした。
この堀切を上ると平坦な土地が開け
武州松山城の本丸跡に辿り着きました。
深く生い茂った木々の影と、
木漏れ日の強い夏の日差しとで、
陰影が強く、眩しいほどです。
木陰の城址碑も、半分以上が木陰に
なっていて上手く写真には写せませんでした。
城址碑の近くには、コンクリート製の
建物の土台が残っていました。
以前には、神社が建っていたようですが、
いつしか朽ち果て、今はその
土台だけが残っているようです。
本丸の奥には深さ3m程の空堀を
隔てて二の丸がありました。
二の丸との間には土橋もなく、移動する
にはこの堀を越えなければなりません。
転びそうになりながら、堀の底に下り、
堀の反対側を駆け上って、二の丸に移りました。
二の丸に小さな祠がありました。
あたり一面木が生い茂り、複雑な形の曲輪の間に
空堀が縦横に走っている武州松山城では、
自分の居る位置がなかなか掴めないのですが、
この祠はいい目印になり、お陰で
迷子にならずに済みました。
二の丸の様子です。
写真では判り辛いですが、平坦な
土地の奥に祠が建っています。
この二の丸の奥に再び深い空堀があります。
ここの空堀は本丸と二の丸の空堀よりも
少し幅が広く、傾斜も若干緩いようです。
お城好きの人達が散策したと思われる、
僅かばかりに下草が倒れた跡を頼りに
空堀を越えて春日丸に辿りつきました。
曲輪の中央には木が生い茂っておらず、
春日丸には日が差し込んでいました。
春日丸の曲輪の周囲には空堀が
複雑な形で取り巻いていていました。
堀に沿って歩いていくと、空堀越しに
二の丸にあった祠を見上げる位置に達していました。
二の丸の南に舌のように延びている
春日丸の南端に達したようです。
この先は藪が深くなり、前に進む事が出来ず、
二の丸から空堀を駆け上ったところまで引き返します。
案内板もないので、手元にある城郭図と
記憶を頼りの行動です。
ちょっとでも油断すると、道に迷ってしまいそうです。
細長い春日丸を突っ切り、三の丸を目指しました。
三の丸は、本丸や二の丸よりも広く、
木々が生い茂っていないので、
とても広々としたとした曲輪です。
木々に覆われて見えなかった
青空をやっと望んだ気がしました。
三の丸は武州松山城の城郭の東の外れに
位置していて、曲輪をとりまく木々の間から、
住宅やゴルフ練習場が見えていました。
ずっと深い雑木林の中を歩いていたので、
人家が近くに見えてホッとした気持ちになりました。
三の丸からは空堀を乗り越えて本丸に戻り、
本丸の北側にある兵糧倉跡に向かいました。
兵糧倉跡も今ではすっかり木が生い茂り、
ここに建物が建っていた事を想像するのは
なかなか出来ませんでした。
この兵糧倉跡で引き返してしまったのですが、
この曲輪から更に北に向かうと、
岩室観音堂に出たようです。
この岩室観音堂は丘陵地の丘と丘の間に
門のように建っているのですが、
その奥の谷は湿ったぬかるんで居ました。
後で調べてみると、この谷のような地形が
武州松山城の竪堀だったようです。
武田信玄がこの武州松山城を攻めた際
お城の下に坑道を掘って攻め込んだそうです。
上杉謙信、北条氏康そして武田信玄と、
戦国の有名武将がせめぎ合った武州松山城ですが、
廃城になって400年近い年月の後、半ば
自然に還っていて、野趣に富んだ山城でした。