丹波亀山城
Tamba Kameyama Castle, Japan


登城日:
2007. 07. 22






丹波亀山城は、織田信長に丹波平定を命じられた
明智光秀が1577年(天正5年)に築いたお城です。

明智光秀が琵琶湖の畔に坂本城を
築いてから5年後に築かれたお城です。

坂本城の様子はこちらです。


この丹波亀山城は、明智光秀が本能寺の変に
出陣したお城として知られています。

丹波亀山城を築いた2年後、光秀は丹波を平定し、
丹波を治めることになりました。
そして、1582年(天正10年)5月、備中で毛利氏と
戦っていた秀吉から織田信長に援軍要請があり、
光秀は備中攻めの応援を命じられます。

5月17日に坂本城を出た光秀は、5月26日に亀山城に到着。
数日、留まった後、6月1日夜半、この亀山城を出陣。
途中、老ノ坂で軍を急遽、京都に向け
本能寺に滞在していた信長を討ったのでした。

本能寺の変に際し、光秀が出陣した丹波亀山城も
秀吉の世になると、羽柴秀勝、小早川秀秋、
石田光成や前田玄以らが城代となっています。

丹波亀山城は家康が江戸幕府を開くと、
大阪城の秀頼の包囲網の拠点の一つとして
天下普請でお城の修復が行われています。



城郭図を見ると、内堀の内部に天守のある
本丸の周囲にいくつかの曲輪が取り囲み、
内堀と外堀の間に侍屋敷が立ち並んでします。
天守は伊予今治城の五層の天守が移築されたそうです。

今治城の登城記はこちらです。

江戸幕府以後は譜代の大名が城主となったそうです。


明治以降は廃城となり、お城も荒れ果て、
地名も三重県の亀山と紛らわしいという事で、
亀岡という地名に変わっています。

地図はこちらです→ Mapion

JR山陰本線の亀岡駅から南に300m程歩いていくと
丹波亀山城の内堀だった南郷池が見えてきました。



ここは南郷公園として、堀の周囲が整備されています。
鯱を載せたモニュメントも建っていました。



モニュメントには天守の様子を描いた
銅版が嵌め込まれていました。



これが今治城から移築された層塔式の天守です。

お堀には蓮の花が咲いていました。




堀の東側に向かい、亀山城の城郭内を目指しました。
丹波亀山城は、廃城後荒れ果てていたそうですが、
亀岡市には買い取る資金がなく、とある宗教団体が
内堀の内部を買い取ったそうです。

城郭内への入り口の宗教団体の門です。



ここからは玉砂利が敷かれ、参道の両側も
整備されて厳かな雰囲気になりました。



左手の受付で、お城を見に来た事を告げ記帳し、
本丸の天守台までの行き方の説明を受けます。

神聖な場所となっているので、お祓いを受けたり、
立ち入り禁止になっているところもあったりするので
少々気を遣います。

内堀の名残の万祥池の畔を行きます。



この先に、石垣と石垣の間の
通路の上に橋が架かっていました。



この石垣は当時も有ったものか
どうかは定かではありません。

橋を渡ったところにある建物でお祓いを受け、
裏にある本丸跡に向かいました。

石垣の脇に建つ木の門を
二つほどくぐって行きます。



門をくぐると、本丸を取り巻く石垣が見えてきました。



この石垣は、廃城になって荒れ果てていたのを
この宗教団体が積み直したものだそうです。

本丸への階段が続いています。



この階段を上って行きたいところですが、
ここから先は残念ながら聖域ということで
立ち入り禁止になっていました。

階段の横には光秀お手植えと伝わる
大銀杏が石垣の上にありました。



この本丸から、明智光秀本能寺に向かったのか、
という感慨もあったのですが、宗教団体の
聖域となっているという事で普段とは勝手が違い
なんとなく落ち着かないお城巡りになってしまいました。

これ以外にも多少は見る事が出来たようですが、
これで引き返す事にしました。


丹波亀山城址の東に文化資料館があったので
そちらに立ち寄ってみました。



小さな博物館だったのですが、
丹波亀山城の御殿の模型が飾ってありました。

天守の古写真も残っていて、復元しようと
思えば出来るのでしょうが、今の状態では
それも難しそうです・・・

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