箕輪小学校から木俣
高崎駅西口から伊香保温泉に向かうバスに乗り、
40分程乗車すると小学校前のバス停に着きます。
このバス停が箕輪城の攻略の起点になります。
バス停の近くの集落は、古い長屋門などを
構えた屋敷などもあり、城下町の佇まいです。
撮影: 2011年12月
バス停のすぐ前にあった箕輪小学校です。
箕輪小学校の脇の道を北に向かいました。
撮影: 2011年12月
この辺りは、箕輪城の水手曲輪だったところです。
この先に法峰寺があります。
撮影: 2011年12月
法峰寺は平安時代に創建された天台宗のお寺です。
箕輪城が築城されると、法峰寺の境内も
城域となった為、移転していたようです。
1598年(慶長3年)に箕輪城が廃城となると
現在地に戻ってきたそうです。
撮影: 2011年12月
お寺の手前には菖蒲田のような庭園や
綺麗に紅葉した木々もあり、かつて
戦が繰り広げられた城址とは、思えない
のどかで心落ち着く光景でした。
撮影: 2011年12月
法峰寺の脇から箕輪城址に分け入りました。
雑木林の中、小路が続いています。
当時から城内道路として使われて
いた道なのでしょうか。
撮影: 2011年12月
雑木林を抜けると、土橋が見えました。
撮影: 2011年12月
この土橋を渡ったところが木俣と呼ばれる曲輪です。
木俣は、井伊氏の家臣の名前から付いたそうです。
発掘調査で掘立柱の建物が確認されたそうです。
撮影: 2011年12月
当時はここに足軽建ちの住居が
立ち並んでいたのでしょうか。
木俣曲輪の北側には、深く広い空堀がありました。
これだけ見事な空堀はなかなかお目に掛かれません。
撮影: 2011年12月
空堀に沿って西に進むと、箕輪城の西の端に出ました。
丘陵の上にある箕輪城から、麓の山里の
向こうに赤城山が聳えていました。
撮影: 2011年12月
木俣曲輪は、三の丸の外側にありますが、
それでも、広々としていました。
撮影: 2011年12月
箕輪城は井伊氏が城主となってから
近世城郭として整備されたそうなので、
木俣曲輪もその際に築かれたものなのでしょうか。
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搦手口・郭馬出
木俣曲輪の北には深い空堀が東西に延びています。
この堀底に行くことが出来ました。
撮影: 2011年12月
目測ですが幅は5m以上、深さも3m以上はあるでしょうか。
この空堀を東に向かうと、箕輪城の城外に出る事が出来ました。
少し離れた所に墓地があり、旗指物がたなびいていました。
撮影: 2011年12月
ここは北条氏が箕輪城を治めていた時まで
大手門があったところです。
井伊氏が近世城郭に造り替えた際に、
大手門を南側に移し、ここは
搦手口になったようです。
撮影: 2011年12月
当時は、搦手口には馬出があったそうです。
搦手口から再び木俣曲輪と
郭馬出の間の空堀に戻りました。
撮影: 2011年12月
上の写真は郭馬出から空堀越しに
木俣曲輪を眺めた様子です。
撮影: 2011年12月
郭馬出は周囲に土塁を築き、出撃用の兵を
待機させる目的で築いたようです。
2016年に郭馬出西虎口門が復元されています。
登城した際には、西虎口のあった辺りの
写真を撮っておらず、少々悔いが残ります。
下の写真は、郭馬出と二の丸との間の空堀です。
この空堀も規模が大きく、圧倒されるほどでした。
撮影: 2011年12月
そして、郭馬出から二の丸へと向かう
土橋を渡り、二の丸に向かいます。
その土橋から西側の空堀を眺めました。
撮影: 2011年12月
これは大堀切と呼ばれる箕輪城を
南北に分ける規模の大きな空堀です。
二の丸へと向かう手前で、郭馬出との
間の土橋を振り返ってみました。
撮影: 2011年12月
規模の大きな箕輪城を攻めるには多くの兵力が必要ですが、
南北を大堀切で分断され、箕輪城の中核部に迫るには
この土橋を渡らなければなりません。
この狭い土橋は敵の進入を拒んで来たことでしょう。
撮影: 2011年12月
こうして二の丸に向かいました。
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二の丸から虎韜門
郭馬出から二の丸に入りました。
城内の案内表示によると、この二の丸は
出陣の拠点だったそうです。
撮影: 2011年12月
二の丸はざっと100m四方ほどの広さがあるでしょうか。
二の丸は、ほぼその周囲を空堀で囲われています。
下の写真は三の丸との間の空堀です。
撮影: 2011年12月
三の丸との間の空堀は、他の空堀と比べると
浅く規模の小さな空堀ですが、それでも
幅は優に5mはあると思います。
そして、その空堀の南側を通り、二の丸の
西側にある三の丸にやってきました。
撮影: 2011年12月
三の丸は二の丸よりも一回り小さな曲輪でした。
三の丸の南には、東西に走る通路があったようです。
撮影: 2011年12月
通路に沿って土塁跡も残っています。
幅は5.7mあったようで、この通路を西に向かいました。
撮影: 2011年12月
この通路は三の丸南通路と呼ばれているそうです。
三の丸を囲う石垣が見えてきました。
撮影: 2011年12月
関東のお城では珍しい石垣です。
三の丸の石垣が高さが4mもある立派な石垣です。
撮影: 2011年12月
この三の丸南通路の南側には大堀切が続いています。
箕輪城を東西に分ける規模の大きな堀切ですが、
訪れた時には藪が生い茂っていて、
その全容を観ることは出来ませんでした。
この先で道は階段で坂道を下るようになりました。
石垣のすぐ脇を歩くようになりました。
撮影: 2011年12月
鍛冶曲輪の案内板もありましたが、雑草が
生い茂り曲輪の様子は良く判りませんでした。
山道の階段を下ると箕輪城の麓の平地へと出ました。
抜け出た所に虎韜
(ことう)
門跡がありました。
撮影: 2011年12月
かつて箕輪城の東側にあった大手門を
井伊直政が西に移したそうで、虎韜門が
その大手門かと<思っていましたが、
大手門跡はここから南に300m程の所でした。
虎韜門のすぐ南側には重機が停まり、
箕輪城の丘陵地の木を伐採していました。
撮影: 2011年12月
伐採された場所は、大堀切だった箇所でしょうか。
丘陵地に切れ込んだ窪地が奥へと続いていました。
南に少し歩いていくと白川口埋門跡の碑がありました。
撮影: 2011年12月
箕輪城の西に鷹留城という箕輪城の支城があったようで、
その支城との連絡にこの埋門が用いられていたようです。
当時は、石垣に囲まれた門ですが、今はその跡を生い茂った
木の枝が覆いかぶさって、丁度埋門の様になっていました。
撮影: 2011年12月
埋門跡を抜けると田圃の景色が広がっていました。
450年ほど前、武田や北条、上杉らの軍が
ここを取り囲んでいた事が全く想像出来ない
のどかな景色でした。
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本丸と御前曲輪
虎韜門跡から三の丸南通路を通り、
二の丸に戻ってきました。
二の丸から北に向かい、本丸を目指します。
二の丸の北側には、本丸との間にある、
深く幅の広い内堀が見えていました。
撮影: 2011年12月
この堀を見ても、箕輪城の護りの固さがわかります。
本丸との間には、本丸馬出がありました。
撮影: 2011年12月
本丸馬出の南側には、搦手門へと
繋がる通路も見えています。
馬出で出撃体制を整えた城兵がその道を
下り、敵を跳ね返していた事でしょう。
本丸馬出と本丸との間の土橋を渡り、
本丸南虎口から本丸に入りました。
撮影: 2011年12月
門へと続く石畳も確認されているそうです。
本丸に入ってすぐに、城址碑がありました。
撮影: 2011年12月
本丸から振り返って眺めた内堀の様子です。
二の丸と三の丸を分ける堀へと続いています。
撮影: 2011年12月
南虎口の左手には西虎口跡があります。
撮影: 2011年12月
訪れた時には藪に覆われていましたが、
本丸西側の堀を越えて、西側にあった
蔵屋敷へ至る橋が架かっていたようです。
その先、北側には広い本丸が広がっていました。
本丸の周囲は土塁で囲まれていました。
撮影: 2011年12月
ここは城主の居住地域です。
「かわらけ」が発掘調査で出土していて、
本丸では、宴会が行われていたそうです。
本丸の北には、更に土橋を越え、
御前曲輪がありました。
撮影: 2011年12月
御前曲輪は、本丸の北を護る曲輪で、
持仏堂があったそうです。
築城城主・長野業正の子、長野業盛は、
1566年(永禄9年)に武田信玄軍に包囲され、
この持仏堂で父・長野業正の位牌を
抱きながら自刃したそうです。
御前曲輪の北側には、井戸があります。
1927年(昭和2年)の豪雨の際に土砂が崩れ
この井戸が出土したそうです。
撮影: 2011年12月
この近くには、芭蕉の句碑もありました。
御前曲輪の西側には、本丸の西側から
延びる堀が足元に見えていました。
撮影: 2011年12月
幅は10m以上もあるでしょうか。
かなり切れ込んだ堀です。
御前曲輪の北側は、崖になっています。
撮影: 2011年12月
急な階段を下って堀へと降りていきました。
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御前曲輪北堀、稲荷曲輪、新曲輪
御前曲輪の北側の切岸を階段で下っていくと
深く広い堀底に出ました。
撮影: 2011年12月
ここには、東西に二本づつ、そして北へ向かう
計5つの堀が集まっていたようです。
このうち、御前曲輪の西側の堀に入っていきました。
撮影: 2011年12月
左手が御前曲輪、右手が通仲曲輪でしょうか。
堀は左手に緩やかにカーブしています。
堀幅が広く、迷うことはありませんが
引き込まれてしまうような感覚です。
御前曲輪の切岸には石垣が残っていました。
撮影: 2011年12月
当時、御前曲輪から通仲曲輪へと橋が架けられ、
この石垣は、その橋の橋台だったそうです。
この幅の広い堀に橋を架けたとなると、
当時と言っても、井伊氏が城主だった時に
架けられたものでしょうか。
撮影: 2011年12月
堀はこの先も続きます。
堀の東側は、御前曲輪から本丸へと変わり、
西側は通仲曲輪から蔵屋敷へと移っています。
撮影: 2011年12月
丁度、上右の写真の辺りで、本丸と
蔵屋敷の間に橋が架かっていたそうです。
この辺りで引き返し、再び御前曲輪の
北側の堀まで戻って来ました。
撮影: 2011年12月
北に向かうと新曲輪から城外に出るのですが、
その前に、御前曲輪の東側の堀にも行ってみました。
撮影: 2011年12月
御前曲輪の東側の堀は、西側程深くはありません
でしたが、それでも、立派な堀が続いていました。
御前曲輪の北側の堀底まで戻り、
北に向かって、新曲輪に至りました。
撮影: 2011年12月
新曲輪の南側には堀跡があり、そこには
今でも堀底に水が残っていました。
撮影: 2011年12月
新曲輪はこの北側の一段高くなっている所です。
新曲輪は、その名の通り、箕輪城の歴史の
終わりに築かれ、兵士らの宿舎があったと
考えられています。
撮影: 2011年12月
築かれた時代は戦国時代の末期だったのか、
井伊直政の入城後なのか、どちらでしょうか。
北を眺めると、榛名山の山々が見えています。
撮影: 2011年12月
箕輪城からは東に赤城山、北に榛名山と
群馬の名峰を眺められる風光明媚な地にあり、
戦が続く世の中でなければ、領主の長野氏は
長閑な暮らしを続けられたことでしょう。
新曲輪の北端辺りから箕輪城の主郭を眺めた様子です。
撮影: 2011年12月
雑木林の生えている丘に箕輪城の主郭がありました。
当時は、きっと木々は切られ、兵士の屯所や
城主の御殿などが見えていたものと思います。
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