箕輪城
Minowa Castle, Japan

登城日:
2011. 12. 04

【箕輪城 概要】

箕輪城は、群馬県の中央部、高崎市の
北に位置する中世の古城です。

箕輪城が築城されたのは1512年(永正9年)の事で、
この地を治めていた長野業尚が築いています。

上野の地は、関東管領山内上杉家が権勢を落とし、
1558年(永禄元年)に上杉憲政が越後に亡命した後は
北条氏康、武田信玄そして上杉正虎が侵攻を
繰り返す騒乱の地となりました。

長野氏はそのような状況下でも勢力を伸ばし、
長野業尚の孫・長野業正の代には最も
版図を広げたそうです。

長野業正が死去すると、1566年(永禄9年)に
武田信玄が箕輪城を落城させています。

その後は信玄の家臣が城代を務めています。
1570年(元亀元年)頃に内藤昌豊が城代となり、
長篠・設楽原の戦いで内藤昌豊が戦死すると
その子・内藤昌月が城代となります。

設楽原古戦場の内藤昌豊の墓の様子はこちらです。

武田氏が滅びると北条氏が箕輪城を支配しますが、
1590年(天正18年)、秀吉の小田原征伐で北条氏が
滅びた後は、江戸に入った徳川家康の家臣・
井伊直政の居城となりました。

その井伊直政が、1598年(慶長3年)に高崎城に移封されると
箕輪城は80余年の歴史に終止符を打ち、廃城となりました。

高崎城の登城記はこちらです。

箕輪城は規模の大きな中世の古城です。
箕輪城の縄張りは南北に長く約1.1km、
東西は0.5kmもの広さがあります。

城域のほぼ中央に、東西方向に大堀切があり、その
北側の三の丸、二の丸更に本丸の守りを固めています。
本丸の東西にも大きな堀切が取り囲んでいます。

箕輪城は日本100名城にも選ばれています。

【箕輪城へのアクセス】

高崎駅西口から伊香保温泉行の群馬バスに乗車し、
小学校前または東明屋下車。徒歩5分程です。

バスは、所要時間が約40分、
料金は580円です。

バスの時刻表は こちら を参照願います:
https://gunbus.co.jp/routebus/pdf/takasakiikahosen.pdf

【箕輪城登城記】

箕輪小学校から木俣
Nov. 11, '22

搦手口・郭馬出
Nov. 20, '22

二の丸から虎韜門
Nov. 23, '22

本丸と御前曲輪
Dec. 04, '22

御前曲輪北堀、稲荷曲輪、新曲輪
NEW ! Dec. 11, '22

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箕輪小学校から木俣

高崎駅西口から伊香保温泉に向かうバスに乗り、
40分程乗車すると小学校前のバス停に着きます。
このバス停が箕輪城の攻略の起点になります。

バス停の近くの集落は、古い長屋門などを
構えた屋敷などもあり、城下町の佇まいです。


撮影: 2011年12月

バス停のすぐ前にあった箕輪小学校です。
箕輪小学校の脇の道を北に向かいました。


撮影: 2011年12月

この辺りは、箕輪城の水手曲輪だったところです。
この先に法峰寺があります。


撮影: 2011年12月

法峰寺は平安時代に創建された天台宗のお寺です。
箕輪城が築城されると、法峰寺の境内も
城域となった為、移転していたようです。
1598年(慶長3年)に箕輪城が廃城となると
現在地に戻ってきたそうです。


撮影: 2011年12月

お寺の手前には菖蒲田のような庭園や
綺麗に紅葉した木々もあり、かつて
戦が繰り広げられた城址とは、思えない
のどかで心落ち着く光景でした。


撮影: 2011年12月

法峰寺の脇から箕輪城址に分け入りました。
雑木林の中、小路が続いています。
当時から城内道路として使われて
いた道なのでしょうか。


撮影: 2011年12月

雑木林を抜けると、土橋が見えました。


撮影: 2011年12月

この土橋を渡ったところが木俣と呼ばれる曲輪です。
木俣は、井伊氏の家臣の名前から付いたそうです。
発掘調査で掘立柱の建物が確認されたそうです。


撮影: 2011年12月

当時はここに足軽建ちの住居が
立ち並んでいたのでしょうか。

木俣曲輪の北側には、深く広い空堀がありました。
これだけ見事な空堀はなかなかお目に掛かれません。


撮影: 2011年12月

空堀に沿って西に進むと、箕輪城の西の端に出ました。
丘陵の上にある箕輪城から、麓の山里の
向こうに赤城山が聳えていました。


撮影: 2011年12月

木俣曲輪は、三の丸の外側にありますが、
それでも、広々としていました。


撮影: 2011年12月

箕輪城は井伊氏が城主となってから
近世城郭として整備されたそうなので、
木俣曲輪もその際に築かれたものなのでしょうか。

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搦手口・郭馬出

木俣曲輪の北には深い空堀が東西に延びています。
この堀底に行くことが出来ました。


撮影: 2011年12月

目測ですが幅は5m以上、深さも3m以上はあるでしょうか。
この空堀を東に向かうと、箕輪城の城外に出る事が出来ました。
少し離れた所に墓地があり、旗指物がたなびいていました。


撮影: 2011年12月

ここは北条氏が箕輪城を治めていた時まで
大手門があったところです。

井伊氏が近世城郭に造り替えた際に、
大手門を南側に移し、ここは
搦手口になったようです。


撮影: 2011年12月

当時は、搦手口には馬出があったそうです。

搦手口から再び木俣曲輪と
郭馬出の間の空堀に戻りました。


撮影: 2011年12月

上の写真は郭馬出から空堀越しに
木俣曲輪を眺めた様子です。


撮影: 2011年12月

郭馬出は周囲に土塁を築き、出撃用の兵を
待機させる目的で築いたようです。

2016年に郭馬出西虎口門が復元されています。
登城した際には、西虎口のあった辺りの
写真を撮っておらず、少々悔いが残ります。

下の写真は、郭馬出と二の丸との間の空堀です。
この空堀も規模が大きく、圧倒されるほどでした。


撮影: 2011年12月

そして、郭馬出から二の丸へと向かう
土橋を渡り、二の丸に向かいます。
その土橋から西側の空堀を眺めました。


撮影: 2011年12月

これは大堀切と呼ばれる箕輪城を
南北に分ける規模の大きな空堀です。

二の丸へと向かう手前で、郭馬出との
間の土橋を振り返ってみました。


撮影: 2011年12月

規模の大きな箕輪城を攻めるには多くの兵力が必要ですが、
南北を大堀切で分断され、箕輪城の中核部に迫るには
この土橋を渡らなければなりません。
この狭い土橋は敵の進入を拒んで来たことでしょう。


撮影: 2011年12月

こうして二の丸に向かいました。

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二の丸から虎韜門

郭馬出から二の丸に入りました。
城内の案内表示によると、この二の丸は
出陣の拠点だったそうです。


撮影: 2011年12月

二の丸はざっと100m四方ほどの広さがあるでしょうか。
二の丸は、ほぼその周囲を空堀で囲われています。
下の写真は三の丸との間の空堀です。


撮影: 2011年12月

三の丸との間の空堀は、他の空堀と比べると
浅く規模の小さな空堀ですが、それでも
幅は優に5mはあると思います。

そして、その空堀の南側を通り、二の丸の
西側にある三の丸にやってきました。


撮影: 2011年12月

三の丸は二の丸よりも一回り小さな曲輪でした。
三の丸の南には、東西に走る通路があったようです。


撮影: 2011年12月

通路に沿って土塁跡も残っています。
幅は5.7mあったようで、この通路を西に向かいました。


撮影: 2011年12月

この通路は三の丸南通路と呼ばれているそうです。
三の丸を囲う石垣が見えてきました。


撮影: 2011年12月

関東のお城では珍しい石垣です。
三の丸の石垣が高さが4mもある立派な石垣です。


撮影: 2011年12月

この三の丸南通路の南側には大堀切が続いています。
箕輪城を東西に分ける規模の大きな堀切ですが、
訪れた時には藪が生い茂っていて、
その全容を観ることは出来ませんでした。

この先で道は階段で坂道を下るようになりました。
石垣のすぐ脇を歩くようになりました。


撮影: 2011年12月

鍛冶曲輪の案内板もありましたが、雑草が
生い茂り曲輪の様子は良く判りませんでした。

山道の階段を下ると箕輪城の麓の平地へと出ました。
抜け出た所に虎韜
(ことう) 門跡がありました。


撮影: 2011年12月

かつて箕輪城の東側にあった大手門を
井伊直政が西に移したそうで、虎韜門が
その大手門かと<思っていましたが、
大手門跡はここから南に300m程の所でした。

虎韜門のすぐ南側には重機が停まり、
箕輪城の丘陵地の木を伐採していました。


撮影: 2011年12月

伐採された場所は、大堀切だった箇所でしょうか。
丘陵地に切れ込んだ窪地が奥へと続いていました。

南に少し歩いていくと白川口埋門跡の碑がありました。


撮影: 2011年12月

箕輪城の西に鷹留城という箕輪城の支城があったようで、
その支城との連絡にこの埋門が用いられていたようです。
当時は、石垣に囲まれた門ですが、今はその跡を生い茂った
木の枝が覆いかぶさって、丁度埋門の様になっていました。


撮影: 2011年12月

埋門跡を抜けると田圃の景色が広がっていました。

450年ほど前、武田や北条、上杉らの軍が
ここを取り囲んでいた事が全く想像出来ない
のどかな景色でした。

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本丸と御前曲輪

虎韜門跡から三の丸南通路を通り、
二の丸に戻ってきました。

二の丸から北に向かい、本丸を目指します。
二の丸の北側には、本丸との間にある、
深く幅の広い内堀が見えていました。


撮影: 2011年12月

この堀を見ても、箕輪城の護りの固さがわかります。
本丸との間には、本丸馬出がありました。


撮影: 2011年12月

本丸馬出の南側には、搦手門へと
繋がる通路も見えています。

馬出で出撃体制を整えた城兵がその道を
下り、敵を跳ね返していた事でしょう。

本丸馬出と本丸との間の土橋を渡り、
本丸南虎口から本丸に入りました。


撮影: 2011年12月

門へと続く石畳も確認されているそうです。
本丸に入ってすぐに、城址碑がありました。


撮影: 2011年12月

本丸から振り返って眺めた内堀の様子です。
二の丸と三の丸を分ける堀へと続いています。


撮影: 2011年12月

南虎口の左手には西虎口跡があります。


撮影: 2011年12月

訪れた時には藪に覆われていましたが、
本丸西側の堀を越えて、西側にあった
蔵屋敷へ至る橋が架かっていたようです。

その先、北側には広い本丸が広がっていました。
本丸の周囲は土塁で囲まれていました。


撮影: 2011年12月

ここは城主の居住地域です。
「かわらけ」が発掘調査で出土していて、
本丸では、宴会が行われていたそうです。

本丸の北には、更に土橋を越え、
御前曲輪がありました。


撮影: 2011年12月

御前曲輪は、本丸の北を護る曲輪で、
持仏堂があったそうです。

築城城主・長野業正の子、長野業盛は、
1566年(永禄9年)に武田信玄軍に包囲され、
この持仏堂で父・長野業正の位牌を
抱きながら自刃したそうです。

御前曲輪の北側には、井戸があります。
1927年(昭和2年)の豪雨の際に土砂が崩れ
この井戸が出土したそうです。


撮影: 2011年12月

この近くには、芭蕉の句碑もありました。

御前曲輪の西側には、本丸の西側から
延びる堀が足元に見えていました。


撮影: 2011年12月

幅は10m以上もあるでしょうか。
かなり切れ込んだ堀です。

御前曲輪の北側は、崖になっています。


撮影: 2011年12月

急な階段を下って堀へと降りていきました。

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御前曲輪北堀、稲荷曲輪、新曲輪

御前曲輪の北側の切岸を階段で下っていくと
深く広い堀底に出ました。


撮影: 2011年12月

ここには、東西に二本づつ、そして北へ向かう
計5つの堀が集まっていたようです。

このうち、御前曲輪の西側の堀に入っていきました。


撮影: 2011年12月

左手が御前曲輪、右手が通仲曲輪でしょうか。
堀は左手に緩やかにカーブしています。
堀幅が広く、迷うことはありませんが
引き込まれてしまうような感覚です。

御前曲輪の切岸には石垣が残っていました。


撮影: 2011年12月

当時、御前曲輪から通仲曲輪へと橋が架けられ、
この石垣は、その橋の橋台だったそうです。
この幅の広い堀に橋を架けたとなると、
当時と言っても、井伊氏が城主だった時に
架けられたものでしょうか。


撮影: 2011年12月

堀はこの先も続きます。
堀の東側は、御前曲輪から本丸へと変わり、
西側は通仲曲輪から蔵屋敷へと移っています。


撮影: 2011年12月

丁度、上右の写真の辺りで、本丸と
蔵屋敷の間に橋が架かっていたそうです。

この辺りで引き返し、再び御前曲輪の
北側の堀まで戻って来ました。


撮影: 2011年12月

北に向かうと新曲輪から城外に出るのですが、
その前に、御前曲輪の東側の堀にも行ってみました。


撮影: 2011年12月

御前曲輪の東側の堀は、西側程深くはありません
でしたが、それでも、立派な堀が続いていました。

御前曲輪の北側の堀底まで戻り、
北に向かって、新曲輪に至りました。


撮影: 2011年12月

新曲輪の南側には堀跡があり、そこには
今でも堀底に水が残っていました。


撮影: 2011年12月

新曲輪はこの北側の一段高くなっている所です。
新曲輪は、その名の通り、箕輪城の歴史の
終わりに築かれ、兵士らの宿舎があったと
考えられています。


撮影: 2011年12月

築かれた時代は戦国時代の末期だったのか、
井伊直政の入城後なのか、どちらでしょうか。

北を眺めると、榛名山の山々が見えています。


撮影: 2011年12月

箕輪城からは東に赤城山、北に榛名山と
群馬の名峰を眺められる風光明媚な地にあり、
戦が続く世の中でなければ、領主の長野氏は
長閑な暮らしを続けられたことでしょう。

新曲輪の北端辺りから箕輪城の主郭を眺めた様子です。


撮影: 2011年12月

雑木林の生えている丘に箕輪城の主郭がありました。
当時は、きっと木々は切られ、兵士の屯所や
城主の御殿などが見えていたものと思います。

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