大聖寺城は、大聖寺にある標高67mの錦城山に
南北朝に築かれた山城です。
戦国時代には、加賀の一向一揆の
拠点にもなっていたそうです。
現在残る遺構は、豊臣秀吉の家臣・溝口秀勝が
1583年(天正11年)に、大聖寺の領主となり
移封された際に、修築したものです。
1598年(慶長3年)に溝口秀勝が新発田に移ると、
小早川秀秋の重臣・山口宗永が7万石で入城します。
新発田城の登城記はこちらです。
しかし、2年後の1600年(慶長5年)には、西軍に付いた
山口氏に対し、金沢の前田利長が2万の兵を率いて
大聖寺城を攻め、8月3日に大聖寺城は落城しています。
縄張りは山頂部に本丸を配し、東西の麓近くに
東丸、西丸を置き、この他に鐘ヶ丸や
二ノ丸、麓に戸次丸があります。
大聖寺城は、江戸時代になると前田氏の支城となりますが、
一国一城令によって、1615年(元和元年)に廃城となります。
JR大聖寺駅から約1.3km。
徒歩約20分弱の距離です。
大聖寺城は、大聖寺の町の北西に位置しています。
JR大聖寺駅から、大聖寺山ノ下寺院群と大聖寺藩の
歴代藩主のお墓などを訪ね歩いた後、
大聖寺城に向かいました。
大聖寺の散策記はこちらです。
大聖寺から福井県の あわら市方面へ向かう
国道305号線を渡った辺りから、
江戸時代の城下町に入ります。
町中を流れるこの小川が、
堀の役割を果たしていたと思います。
北に向かうと、この小川に面して加賀聖城高校と
錦城小学校の校庭が並びますが、その二つの学校の
間を錦城山を目指し西に向かう道を進みます。
この先、錦城山の麓には、ちょっとした空き地があり、
駐車場や大きな忠霊塔などがありました。
江戸時代には、この場所に大聖寺藩の
藩庁である陣屋が置かれていたそうです。
立派な忠霊塔を写真に収めてから、
大聖寺城の登城道を上りました。
駐車場の脇に登城道があります。
この日は生憎の天気で、大聖寺の町では溶けていた雪も、
この錦城山ではしっかり積もっています。
身体も冷え、足元も冷たくなっていましたが
ここから本丸を目指しました。
上り始めてすぐに"贋金造りの洞穴"がありました。
明治元年に大聖寺藩がここで贋金を作っていたそうです。
越後戦争への弾薬供給を明治政府から命じられ、
その資金集めの為だったようですが、すぐに露見し、
責任者の市橋波江は切腹したそうです。
この先に東丸がありました。
東丸は長さ50m、幅30m程の広さでしょうか。
細長い曲輪を通り抜けると、視界が開け、
加賀聖城高校の校庭が広がっていました。
東丸から更に上を目指しました。
鐘ヶ丸
東丸から坂道を登っていきます。
下に円形の平地が見えていましたが、
これも小さいながら曲輪の一つでしょうか。
東丸からの登り道は二つの道があるようです。
大聖寺城は、公園として整備されているので
残念ながら当時の登城道は改変されているようです。
しばらく登っていくと四阿が見えてきました。
ここが鐘ヶ丸と呼ばれる曲輪です。
鐘ヶ丸は大聖寺城の南の端に位置しています。
曲輪跡には遊具が置かれています。
鐘ヶ丸は大聖寺城で最も広い曲輪です。
周囲には高さ1mを超える土塁も残っていました。
1600年(慶長5年)、前田利長が大聖寺城を攻めた際、
この鐘ヶ丸で激しい戦闘が行われたそうです。
鐘ヶ丸から本丸へ向かいました。
雪の積もる山城を歩いているので、
足元は濡れ、身体は冷え切っっています。
本丸へは行ったん坂道を下り、その後、
本丸への登城道を上っていきます。
降り続く雪交じりの雨で、カメラも曇ってきました。
途中で、土橋のような所を通っていきます。
この先で、東側の視界が開け、麓の
錦城小学校がよく見えるようになりました。
錦城小学校の遥か向こうには白山も見えるようです。
この辺りも本丸下の帯曲輪と思いますが、
雪も深く素通りして、本丸を目指しました。
斜面にせりだした四阿が見えると、
そこが本丸です。
雪に覆われた本丸の様子です。
本丸内の南側には土塁が続いています。
本丸の西の端には櫓台があります。
この櫓台が標高67mの錦城山の頂上になっています。
櫓台の前には大きな碑が立っていました。
戦国時代末期の城主・山口玄蕃頭宗永の石碑です。
この後、二の丸、三の丸そして西の丸を訪れようと
思っていましたが、カメラが曇ってしまい、
身体も冷え切っていたので、本丸を最後に
下山する事にしました。
またの機会に大聖寺城を訪れ、
他の曲輪も散策出来れば、と思います。