三の丸
新発田城の本丸と二の丸は輪郭式で、
二の丸が本丸を取り囲んだ形になっていたようですが、
三の丸は、二の丸の南側に張り出した形になっていました。
撮影: 2010年10月
三の丸の南の端は、今の新発田警察署の位置にあり、
三の丸の北の端に面していた大手中ノ門は
文化会館の北側にあったようです。
新発田城へはJR新発田駅から歩いて20分程の所にあります。
2010年10月、駅からお城に向かって歩き出しました。
歩き出して10分程、NTTのある
中央町の交差点に緑地帯がありました。
撮影: 2010年10月
この緑地帯が江戸時代の札の辻があったようです。
この交差点で左に折れ、しばらく歩くと
検察庁や裁判所、警察署があります。
通りの左側にまず検察庁の建物が見えてきました。
撮影: 2010年10月
江戸時代、検察庁の前の道は外堀になっていて
その奥の建物の辺りに大手櫓があったようです。
大手櫓は二重櫓で、大手門を守る役割だったそうです。
そして、通りの向かいの警察署の場所に
その大手門が建っていたそうです。
撮影: 2010年10月
今の警察署の南側は外堀で、警察署の建物から
北側が当時の三の丸の曲輪でした。
再び道路を渡り、警察署の斜め向かいにある
裁判所には、「布団掛けの松」がありました。
撮影: 2010年10月
当時、裁判所のあったところは三の丸の中で、
溝口藩の家老屋敷が建ち、この松は枝ぶりが
いい事で知られていたそうです。
1719年(享保4年)に、新発田で大火があった際、
この松が燃えるのが忍びないと、この松に布団を掛けて
類焼するのを防いだ事から、その名が付いたそうです。
裁判所の先の角を曲がり、新発田城を目指します。
道路の右手に新発田市民文化会館の
瀟洒な建物が見えて来ました。
蕗谷虹児(ふきや こうじ)記念館です。
撮影: 2010年10月
この辺りには三の丸土塁があったようです。
今では、僅かな痕跡しか残っていませんでした。
新発田市民文化会館の建物です。
撮影: 2010年10月
当時は家老の溝口伊織の屋敷があり、
その正門がこの辺りに建っていたそうです。
今、その正門は清水園に移築されています。
新発田の街の散策記はこちらです。
新発田市民文化会館から通りを隔てた
向かいには郵便局がありました。
撮影: 2010年10月
ここには知政庁の正門がありました。
この正門も清水園に移築されています。
この郵便局の角の交差点が、江戸時代には
二の丸と三の丸を隔てる堀がありました。
その角を右に曲がると、新発田病院の建物がありました。
撮影: 2010年10月
この新発田病院は今は移転し、
ここは空き地になっているようです。
当時はこの辺りに、大手中ノ門がありました。
大手中ノ門は、新発田城に当時5つあった枡形門の一つです。
現地にあった大手中ノ門の古写真です。
三の丸側から、大手中ノ門の高麗門を撮ったものです。
1644年(正保元年)の絵図に記されていて、
1688年(寛文8年)の大火で焼失したものの
1700年(元禄13年)までには再建されたようです。
大手中ノ門を過ぎて、少し東側に行くと
大手中ノ門櫓跡の案内板がありました。
撮影: 2010年10月
案内板のある位置には木が植えられ
石碑も立っていました。
撮影: 2010年10月
その石碑によると、ここは赤穂浪士の一人で、
高田馬場の決闘でも知られる堀部安兵衛の生家跡の様です。
この碑のある場所は、堀の北側の二の丸の中と思いますが
堀部安兵衛の生家は、堀の南側の三の丸にあったようです。
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二の丸
新発田城の二の丸は三の丸の北側に位置し、
本丸を取り囲む縄張になっています。
現在、本丸の北側の部分は自衛隊の駐屯地に
なっていて立ち入りが出来ません。
本丸の南西側が公園になり、本丸の櫓群を眺める
事が出来、当時の様子に浸ることができます。
堀部安兵衛の生家跡から、西に向かいました。
新発田病院の前の大手中ノ門跡を通り過ぎると
西櫓跡の案内板がありました。
撮影: 2010年10月
西櫓は大手中ノ門を守る櫓群の一つで、
二階建ての櫓だったそうです。
この西櫓も大手中ノ門と同じく、
1644年(正保元年)の絵図に記載があり、
1668年(寛文8年)の大火で焼失し、
その後再建されました。
西櫓は上の写真を撮った場所辺りにあったようで
写っている空き地は、西櫓前の堀の跡の様です。
この先には菅原門跡の案内板がありました。
撮影: 2010年10月
当時、西櫓の西側は三の丸が北に延び、
二の丸を囲む堀と三の丸を囲む堀が
合流する地形になっていました。
菅原門はその合流部に設けられた門でした。
この先、住宅地を抜けると広い空間の
広がる城址公園に行き当たりました。
撮影: 2010年10月
当時この辺りは重臣たちの屋敷が並び、藩校や
藩士が武芸を民がいた稽古所もあったそうです。
撮影: 2010年10月
城址公園の南側には白壁の土塀が設けられていました。
城址公園の一番奥まで進むと2004年(平成16年)に
復元された御三階櫓が聳えていました。
撮影: 2007年12月
新発田城は1668年(寛文8年)に大火災が発生し、
この御三階櫓は1679年(延宝7年)に建てられたそうです。
大火災の教訓からか、御三階櫓の壁は
火災に強い海鼠壁になっています。
撮影: 2010年10月
また新発田城の御三階櫓の特徴は
最上階の屋根がT字状になっていて、
屋根の3つの端に鯱が載っていることです。
3つの鯱を持つ櫓は他に類を見ないそうです。
内堀越しに本丸を眺めた様子です。
撮影: 2010年10月
内堀の左手の二の丸跡の様子です。
撮影: 2010年10月
内堀に沿って南西に下がると、鉄砲櫓跡に
移築された旧二の丸隅櫓が見えてきました。
撮影: 2010年10月
二の丸隅櫓は今は立ち入りが出来ない
二の丸北側に建っていました。
広い堀に面し、本丸へのアプローチとなる
土橋門跡の帯曲輪との眺めがとてもいい雰囲気でした。
2007年12月に訪れた際は、どんよりとした天気もあってか、
いきなり周囲の雰囲気が数百年も逆戻りしたようになりました。
撮影: 2007年12月
お城巡りをしていて、天守や櫓をみると
何度かこういう雰囲気に浸れる時があります。
このタイムトラベルしたような感覚に痺れます。
撮影: 2007年12月
この内堀の奥には表門と辰巳櫓があります。
二の丸跡の城址公園から本丸の櫓を眺めた後に、
その表門から辰巳櫓に向かいました。
表門に向かう手前にある土橋門跡です。
撮影: 2007年12月
道路の両脇に土塁が残っていて
微かに門があった事を偲ばせています。
土橋門跡から眺めた表門と辰巳櫓の様子です。
撮影: 2007年12月
当時の新発田城の様子をそのまま残す眺めです。
苔むした土橋門跡周辺の土塁の雰囲気もとても良く、
しばらくこの辺りに佇んでいました。
撮影: 2007年12月
表門の前には堀部安兵衛の
銅像が建っていました。
撮影: 2007年12月
堀部安兵衛は、新発田藩士・中山弥次右衛門の
息子でしたが、13歳の時にお家断絶となった為に
江戸に出、有名な高田馬場の仇討ちがきっかけとなり
赤穂藩士・堀部弥兵衛と養子縁組となったそうです。
そして、表門です。
旧二の丸隅櫓と共に
重要文化財に指定されています。
撮影: 2007年12月
2007年12月に訪れた際には冬期間の休業中で、
門は固く閉じられていました。
この門の内側は自衛隊の新発田駐屯地になっていて
ただでさえ立ち入りが憚られるような雰囲気です。
表門の東側には、辰巳櫓が聳えていました。
この辰巳櫓は2004年(平成16年)に復元されています。
撮影: 2007年12月
新発田城は明治の廃城令で多くの櫓や城門が
取り壊されていますが、古写真が残っており、
今後も更に復元して欲しいものです。
2010年に再訪した際には、新発田城表門は開け放たれ、
前回果たせなかった本丸への登城を果たすことが出来ました。
撮影: 2010年10月
好天にも恵まれ辰巳櫓の白壁は輝くようでした。
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本丸
新発田城の本丸は、周囲をぐるりと
内堀に囲まれています。
撮影: 2010年10月
江戸時代は、本丸と二の丸を結ぶ土橋が
表門と裏門の2か所設けられていたようですが、
今は表門の土橋が残っています。
その土橋を渡り、表門の前に立ちました。
撮影: 2010年10月
2007年12月には、固く閉ざされた表門ですが、
2010年10月に再訪した際には開け放たれ、
本丸に入る事が出来ました。
表門を抜けると初代藩主・
溝口秀勝の像がありました。
撮影: 2010年10月
1598年(慶長3年)に、秀吉によって加賀の
大聖寺から移封され、新発田城を築城しています。
振り返って眺める表門の様子です。
撮影: 2010年10月
現存の風格が伝わってきます。
この表門の東に延びる土塁に登ってみました。
撮影: 2010年10月
北側遠くに御三階櫓が見えています。
その手前には自衛隊の駐屯地が広がっていました。
撮影: 2010年10月
立ち入りが出来ない駐屯地との境には塀が
巡らされていますが、当時のものでは無いと思います。
本丸の東南の角に建っている辰巳櫓です。
2004年(平成16年)に復元されています。
撮影: 2010年10月
江戸時代、堀部安兵衛の父・中山弥次右衛門が
この櫓の管理者だったそうですが、この櫓を
焼失させた責任を問われ浪人の身となった為に
安兵衛は赤穂藩士の堀部家に入る事になりました。
撮影: 2010年10月
辰巳櫓の内部では礎石を見る事が出来ました。
今度は表門に向かいました。
撮影: 2010年10月
表門は1732年(享保17年)に再建された現存の櫓門です。
表門の内部はさすがに歴史を感じさせるものでした。
撮影: 2010年10月
表門からは二の丸の帯曲輪から延びる
土橋を見下ろすことが出来ました。
内堀とその先の帯曲輪を眺めながら
表門の西に続く土塁を歩きました。
撮影: 2010年10月
その先に建つ旧二の丸隅櫓です。
撮影: 2010年10月
1668年(寛文8年)の大火の後に再建されたものです。
二の丸の北にあったものを1960年(昭和35年)に
本丸鉄砲櫓の位置に移築しています。
旧二の丸隅櫓から、内堀と帯曲輪の様子が
手に取るように眺める事が出来ました。
撮影: 2010年10月
この櫓からは内堀の対岸の土橋門に殺到する
敵の様子が手に取るように判った事でしょう。
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