新発田城
Shibata Castle, Japan


登城日:
2006. 12. 20, 2010. 10. 17








【新発田城 概要】


新発田城は、新潟市の東30km程の
新発田市にあるお城です。

この新発田城は、上杉景勝と敵対していた新発田重家が
滅ぼされた後、秀吉によって1598年(慶長3年)に加賀の
大聖寺から移封された溝口秀勝によって築かれています。





新発田城が完成したのは、築城開始から
56年後の1654年(承応3年)の事です。

新発田城は、新発田川の洪積平野に築かれた平城で、
本丸の周りを二の丸が取り囲み、
その南側に三の丸が配されています。


撮影: 2010年10月

本丸が船の形をしているので「船形城」
という別名があるそうです。
天守代用の御三階櫓を初めとして
11の櫓、主な門が5つあったそうです。


この新発田城には、2006年12月と
2010年10月に訪れました。
その時の様子を紹介します。



【新発田城へのアクセス】


JR新発田駅から北西に新発田市役所を目指します。
大手門のあった新発田警察署まで0.9km、徒歩で約10分。
本丸まで1.7km、徒歩約20分です。




【新発田城登城記】



2006年12月に新発田城を訪問した際は、
只見線に乗車し、普通電車を乗り継ぎ、
長岡城に立ち寄った後に訪れました。

只見の旅行記はこちら
只見線の旅行乗車記はこちら
長岡城の様子はこちらです。


この際は、到着した際は冬の陽も傾きかけており、
しかも新発田城の本丸は冬季閉鎖中で
入る事が出来ませんでした。

そこで2010年10月に再訪しています。



三の丸
May 31, '16

二の丸
June 04, '16

本丸
New ! June 08, '16



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三の丸







新発田城の本丸と二の丸は輪郭式で、
二の丸が本丸を取り囲んだ形になっていたようですが、
三の丸は、二の丸の南側に張り出した形になっていました。


撮影: 2010年10月

三の丸の南の端は、今の新発田警察署の位置にあり、
三の丸の北の端に面していた大手中ノ門は
文化会館の北側にあったようです。


新発田城へはJR新発田駅から歩いて20分程の所にあります。
2010年10月、駅からお城に向かって歩き出しました。





歩き出して10分程、NTTのある
中央町の交差点に緑地帯がありました。


撮影: 2010年10月

この緑地帯が江戸時代の札の辻があったようです。
この交差点で左に折れ、しばらく歩くと
検察庁や裁判所、警察署があります。

通りの左側にまず検察庁の建物が見えてきました。


撮影: 2010年10月

江戸時代、検察庁の前の道は外堀になっていて
その奥の建物の辺りに大手櫓があったようです。
大手櫓は二重櫓で、大手門を守る役割だったそうです。

そして、通りの向かいの警察署の場所に
その大手門が建っていたそうです。


撮影: 2010年10月

今の警察署の南側は外堀で、警察署の建物から
北側が当時の三の丸の曲輪でした。

再び道路を渡り、警察署の斜め向かいにある
裁判所には、「布団掛けの松」がありました。


撮影: 2010年10月

当時、裁判所のあったところは三の丸の中で、
溝口藩の家老屋敷が建ち、この松は枝ぶりが
いい事で知られていたそうです。

1719年(享保4年)に、新発田で大火があった際、
この松が燃えるのが忍びないと、この松に布団を掛けて
類焼するのを防いだ事から、その名が付いたそうです。


裁判所の先の角を曲がり、新発田城を目指します。
道路の右手に新発田市民文化会館の
瀟洒な建物が見えて来ました。

蕗谷虹児(ふきや こうじ)記念館です。


撮影: 2010年10月

この辺りには三の丸土塁があったようです。
今では、僅かな痕跡しか残っていませんでした。

新発田市民文化会館の建物です。


撮影: 2010年10月

当時は家老の溝口伊織の屋敷があり、
その正門がこの辺りに建っていたそうです。

今、その正門は清水園に移築されています。

新発田の街の散策記は
こちらです。

新発田市民文化会館から通りを隔てた
向かいには郵便局がありました。


撮影: 2010年10月

ここには知政庁の正門がありました。
この正門も清水園に移築されています。


この郵便局の角の交差点が、江戸時代には
二の丸と三の丸を隔てる堀がありました。

その角を右に曲がると、新発田病院の建物がありました。


撮影: 2010年10月

この新発田病院は今は移転し、
ここは空き地になっているようです。

当時はこの辺りに、大手中ノ門がありました。
大手中ノ門は、新発田城に当時5つあった枡形門の一つです。



現地にあった大手中ノ門の古写真です。
三の丸側から、大手中ノ門の高麗門を撮ったものです。

1644年(正保元年)の絵図に記されていて、
1688年(寛文8年)の大火で焼失したものの
1700年(元禄13年)までには再建されたようです。


大手中ノ門を過ぎて、少し東側に行くと
大手中ノ門櫓跡の案内板がありました。


撮影: 2010年10月

案内板のある位置には木が植えられ
石碑も立っていました。


撮影: 2010年10月

その石碑によると、ここは赤穂浪士の一人で、
高田馬場の決闘でも知られる堀部安兵衛の生家跡の様です。

この碑のある場所は、堀の北側の二の丸の中と思いますが
堀部安兵衛の生家は、堀の南側の三の丸にあったようです。



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二の丸







新発田城の二の丸は三の丸の北側に位置し、
本丸を取り囲む縄張になっています。



現在、本丸の北側の部分は自衛隊の駐屯地に
なっていて立ち入りが出来ません。

本丸の南西側が公園になり、本丸の櫓群を眺める
事が出来、当時の様子に浸ることができます。


堀部安兵衛の生家跡から、西に向かいました。
新発田病院の前の大手中ノ門跡を通り過ぎると
西櫓跡の案内板がありました。


撮影: 2010年10月

西櫓は大手中ノ門を守る櫓群の一つで、
二階建ての櫓だったそうです。

この西櫓も大手中ノ門と同じく、
1644年(正保元年)の絵図に記載があり、
1668年(寛文8年)の大火で焼失し、
その後再建されました。

西櫓は上の写真を撮った場所辺りにあったようで
写っている空き地は、西櫓前の堀の跡の様です。

この先には菅原門跡の案内板がありました。


撮影: 2010年10月

当時、西櫓の西側は三の丸が北に延び、
二の丸を囲む堀と三の丸を囲む堀が
合流する地形になっていました。

菅原門はその合流部に設けられた門でした。


この先、住宅地を抜けると広い空間の
広がる城址公園に行き当たりました。


撮影: 2010年10月

当時この辺りは重臣たちの屋敷が並び、藩校や
藩士が武芸を民がいた稽古所もあったそうです。


撮影: 2010年10月

城址公園の南側には白壁の土塀が設けられていました。


城址公園の一番奥まで進むと2004年(平成16年)に
復元された御三階櫓が聳えていました。


撮影: 2007年12月

新発田城は1668年(寛文8年)に大火災が発生し、
この御三階櫓は1679年(延宝7年)に建てられたそうです。

大火災の教訓からか、御三階櫓の壁は
火災に強い海鼠壁になっています。


撮影: 2010年10月

また新発田城の御三階櫓の特徴は
最上階の屋根がT字状になっていて、
屋根の3つの端に鯱が載っていることです。

3つの鯱を持つ櫓は他に類を見ないそうです。


内堀越しに本丸を眺めた様子です。


撮影: 2010年10月

内堀の左手の二の丸跡の様子です。


撮影: 2010年10月


内堀に沿って南西に下がると、鉄砲櫓跡に
移築された旧二の丸隅櫓が見えてきました。


撮影: 2010年10月

二の丸隅櫓は今は立ち入りが出来ない
二の丸北側に建っていました。

広い堀に面し、本丸へのアプローチとなる
土橋門跡の帯曲輪との眺めがとてもいい雰囲気でした。

2007年12月に訪れた際は、どんよりとした天気もあってか、
いきなり周囲の雰囲気が数百年も逆戻りしたようになりました。


撮影: 2007年12月

お城巡りをしていて、天守や櫓をみると
何度かこういう雰囲気に浸れる時があります。
このタイムトラベルしたような感覚に痺れます。


撮影: 2007年12月

この内堀の奥には表門と辰巳櫓があります。

二の丸跡の城址公園から本丸の櫓を眺めた後に、
その表門から辰巳櫓に向かいました。

表門に向かう手前にある土橋門跡です。


撮影: 2007年12月

道路の両脇に土塁が残っていて
微かに門があった事を偲ばせています。

土橋門跡から眺めた表門と辰巳櫓の様子です。


撮影: 2007年12月

当時の新発田城の様子をそのまま残す眺めです。

苔むした土橋門跡周辺の土塁の雰囲気もとても良く、
しばらくこの辺りに佇んでいました。


撮影: 2007年12月

表門の前には堀部安兵衛の
銅像が建っていました。


撮影: 2007年12月


堀部安兵衛は、新発田藩士・中山弥次右衛門の
息子でしたが、13歳の時にお家断絶となった為に
江戸に出、有名な高田馬場の仇討ちがきっかけとなり
赤穂藩士・堀部弥兵衛と養子縁組となったそうです。


そして、表門です。
旧二の丸隅櫓と共に
重要文化財に指定されています。


撮影: 2007年12月

2007年12月に訪れた際には冬期間の休業中で、
門は固く閉じられていました。

この門の内側は自衛隊の新発田駐屯地になっていて
ただでさえ立ち入りが憚られるような雰囲気です。

表門の東側には、辰巳櫓が聳えていました。
この辰巳櫓は2004年(平成16年)に復元されています。


撮影: 2007年12月

新発田城は明治の廃城令で多くの櫓や城門が
取り壊されていますが、古写真が残っており、
今後も更に復元して欲しいものです。


2010年に再訪した際には、新発田城表門は開け放たれ、
前回果たせなかった本丸への登城を果たすことが出来ました。


撮影: 2010年10月

好天にも恵まれ辰巳櫓の白壁は輝くようでした。



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本丸







新発田城の本丸は、周囲をぐるりと
内堀に囲まれています。


撮影: 2010年10月

江戸時代は、本丸と二の丸を結ぶ土橋が
表門と裏門の2か所設けられていたようですが、
今は表門の土橋が残っています。


その土橋を渡り、表門の前に立ちました。


撮影: 2010年10月

2007年12月には、固く閉ざされた表門ですが、
2010年10月に再訪した際には開け放たれ、
本丸に入る事が出来ました。

表門を抜けると初代藩主・
溝口秀勝の像がありました。


撮影: 2010年10月

1598年(慶長3年)に、秀吉によって加賀の
大聖寺から移封され、新発田城を築城しています。

振り返って眺める表門の様子です。


撮影: 2010年10月

現存の風格が伝わってきます。
この表門の東に延びる土塁に登ってみました。


撮影: 2010年10月

北側遠くに御三階櫓が見えています。
その手前には自衛隊の駐屯地が広がっていました。


撮影: 2010年10月

立ち入りが出来ない駐屯地との境には塀が
巡らされていますが、当時のものでは無いと思います。

本丸の東南の角に建っている辰巳櫓です。
2004年(平成16年)に復元されています。


撮影: 2010年10月

江戸時代、堀部安兵衛の父・中山弥次右衛門が
この櫓の管理者だったそうですが、この櫓を
焼失させた責任を問われ浪人の身となった為に
安兵衛は赤穂藩士の堀部家に入る事になりました。


撮影: 2010年10月

辰巳櫓の内部では礎石を見る事が出来ました。

今度は表門に向かいました。


撮影: 2010年10月

表門は1732年(享保17年)に再建された現存の櫓門です。
表門の内部はさすがに歴史を感じさせるものでした。


撮影: 2010年10月

表門からは二の丸の帯曲輪から延びる
土橋を見下ろすことが出来ました。


内堀とその先の帯曲輪を眺めながら
表門の西に続く土塁を歩きました。


撮影: 2010年10月

その先に建つ旧二の丸隅櫓です。


撮影: 2010年10月

1668年(寛文8年)の大火の後に再建されたものです。
二の丸の北にあったものを1960年(昭和35年)に
本丸鉄砲櫓の位置に移築しています。

旧二の丸隅櫓から、内堀と帯曲輪の様子が
手に取るように眺める事が出来ました。


撮影: 2010年10月

この櫓からは内堀の対岸の土橋門に殺到する
敵の様子が手に取るように判った事でしょう。



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