新府駅から本丸へ
上諏訪からの普通電車を新府で下車し、
新府城に向かいました。
10月の甲斐路。
新府城に向かう道の脇には
コスモスの花が咲いていました。
そして朝顔のような花も見かけました。
新府駅の近くの集落を抜け、
丘陵地を回り込むように歩いていきます。
新府城への道がわからなくなり、
不安に思い始めた頃、道の脇に
石の鳥居がありました。
この鳥居をくぐっていくと
新府城の本丸に行くことが出来ます。
後で気がついたのですが、
この鳥居の先が一段低くなっていて、
この辺りが首洗池と呼ばれているそうです。
首洗池の窪地の先に旧甲州街道が走り
その先に丘陵地が迫っていました。
ここが新府城址です。
新府城の本丸跡に祀られている
新府藤武神社の参道の階段が
急な丘陵地の斜面に続いています。
斜面中ほどの二の鳥居。
そして階段を上りきったところにある
新府藤武神社の社殿です。
社殿の裏には、古びた石碑や
五輪の塔がありました。
どんな謂れがあるのかは判りませんが
あまり人目につかないところに
ひっそりと佇んでいました。
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本丸
ひっそりとした新府城址ですが、
藤岳神社には地元の人と思われるおじさんが
一人で暇を持て余しているような感じでした。
神社の南には新府城の
本丸跡が広がっていました。
東西90m、南北120mの広さだそうです。
本丸跡に立てられた新府城の碑です。
本丸の北側には石の柵で
囲われた碑がありました。
江戸時代の初期の1684年頃、
この付近の住民が武田勝頼の心霊を
祀る為に建立した武田勝頼公霊社です。
どんよりとした天気のせいか、
どことなく翳った雰囲気がしています。
武田勝頼は穴山信君の進言を受けて
この新府城の築城を始めたのですが、
穴山信君は、その頃、徳川方に通じていて
勝頼に散在をさせるのが目的だったという
話も伝わっています。
穴山信君の裏切りは、武田家の存続が
条件だったそうですが、彼の思惑通り、
新府城築城に伴う散財で武田家の財政は傾き、
家臣に多大な出費を強いた為に信玄の娘婿の
木曾義昌が織田信長に寝返ってしまいます。
武田勝頼公霊社の両脇には、
長篠・設楽が原の合戦で命を落とした
武田方武将の名前を記した
長篠陣没者慰霊の碑が
並んでいました。
長篠・設楽が原古戦場の様子はこちらです。
この碑は比較的新しいものだそうですが、
立ち並んだ碑の端には、大塚
小塚の石碑もありました。
武田氏にとって大きな転機となった
長篠・設楽が原の戦い。
この木の碑を眺めているといかに
多くの武将がその命を落としたのか、
その数の多さに唖然とする思いです。
武田勝頼公霊社に祀られている勝頼には、
いつまでも重くのしかかっていた
戦だったことでしょう。
本丸の片隅にあった、白樺の林
薄暗い新府城の雰囲気を
いくらか和らげていてくれました。
本丸の南の端には「蔀の構え」
という遺構がありました。
ここは本丸の虎口になっていたところです。
本丸に突入しようとする敵に、
城内を見通させないように
植え込みや蔀土居、蔀塀で
囲ったものだそうです。
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二の丸から三の丸
蔀の構えから西側に一段低い所に
二の丸が広がっていました。
雑草が生い茂り、二の丸の中へ入る事は困難です。
周囲の土塁に沿って歩いて行きます。
二の丸の土塁を歩いていると
西側の視界が開け、遠く下を流れる
釜無川を望むことが出来ました。
この眺めは新府城が七里岩が天然の
要塞になっている事を実感出来ます。
新府城は築城が開始されて9ヵ月後に
勝頼が新府城に入城した当時は
まだ普請の最中だったとも
言われているそうです。
しかし、わずかその3ヵ月後、
木曾義昌が織田信長に寝返った後、
信長が甲斐侵攻を始めた為、勝頼は
この新府城に自ら火を放ち、
岩殿城を目指し落ち延びて行きます。
勝頼はこの釜無川の眺めを、
どんな思いで見つめていたのでしょうか。
黄色い花をつけたセイタカアワダチ草に
トンボが止まっていました。
秋の気配を感じます。
二の丸の下には馬出の遺構があるようです。
草が生い茂っていて、
その様子はよくわかりませんでした。
本丸から、城址内を通る道に従って、
西ノ三の丸、東ノ三の丸へと下りて行きました。
西ノ三の丸も東の三の丸も
馬出と同じように草に覆われていました。
この写真は、東西の三の丸の
間にある土塁の様子です。
三の丸の下には帯曲輪と思われる
細長い曲輪がありました。
更に下っていくと南大手門にさしかかります。
このあたりにも武田のお城に特徴的な
三日月堀や、大手馬出それに大手望楼台の
遺構が残っているようです。
残念ながら、それらの遺構を
確認することは出来ず、わずかに
大手虎口の土塁を見つけました。
新府城を落ち延びた武田勝頼は
大月にある岩殿城を目指したのですが、
その途中、小山田信茂の寝返りに遭い、
天目山でその生涯を終えています。
武田勝頼、ひいては甲斐武田家、
最後の居城となった新府城。
そこは悲しい雰囲気に包まれていました。
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