魚津城は魚津市の市街地にあった古城です。
魚津は上杉謙信が治めるところとなり、1582年(天正10年)には
この戦いでは、織田軍が魚津城を攻め落としますが、その前日に
富山城が焼失した後の1609年(慶長14年)3月から9月に高岡城に
魚津城は、方形の本丸の周囲を
本丸の広さは一辺が100m程だったようです。
魚津城には2012年5月に登城しています。
富山地方鉄道本線の新魚津駅から徒歩約5分です。
魚津城址は富山地方鉄道の新魚津駅から
訪問した当時、魚津城の本丸跡は、
城跡が学校の敷地になっている例は多くありますが、
当時の魚津城の模型もありました。
校庭には魚津城の城址碑と上杉謙信の歌碑がありました。
上杉謙信の歌碑は、1573年(元亀4年)に、魚津城を訪れ
"武士の 鎧の袖を片しきて 枕に近き 初雁の声"
と詠んだそうです。
大町小学校の校庭の隅には、土塁跡と思しき土盛がありました。
魚津城址には櫓台跡があるという話も聞いたので、
魚津城址は、当時の面影は殆ど残っていませんでしたが、
Uozu Castle, Japan
登城日:
2012.05.30
いつ築城されたのかは、分かっていないそうですが、
室町時代には、東南に約8km程のところにある
松倉城の出城として機能していたそうです。
織田軍の柴田勝家、佐々成正、前田利家らが攻め込み、
上杉景勝との間で魚津城を巡る戦いとなっています。
生じた本能寺の変の混乱で、上杉軍が魚津城を取り返します。
しかし、その後佐々成正が魚津城を攻め落とし、1595年(文禄4年)
になると、前田利長が越中を治める事となりました。
移るまでの約半年の間、前田利長が拠点を構えていました。
その後、1615年(慶長20年)の一国一城令で廃城になりました。
高岡城の登城記はこちらです。
二ノ丸が取り囲む輪郭式の縄張りでした。
魚津城は廃城後は加賀藩の米蔵や
武器庫として使われていたそうです。
歩いてすぐのところに位置していました。
撮影: 2012年5月
魚津市立大町小学校の校庭になっていました。
撮影: 2012年5月
昨今、殆どの場合、構内への立ち入りは禁止され、
道路の外から眺めるだけになっていますが、大町小学校は
有難いことに、校庭内に立ち入ることが出来ました。
撮影: 2012年5月
撮影: 2012年5月
露営の陣で、武具をつけたまま寝入っていたのでしょうか。
その耳元で聞く、雁の声。
戦に明け暮れていた謙信も、ふと寂寥の
気持ちが沸き起こったのでしょうか。
撮影: 2012年5月
ひょっとするとこれが、その櫓台跡なのでしょうか。
この地に、上杉謙信や景勝、柴田勝家らが足を
踏み入れていたかと思うと感慨深かったです。