八代城が築城されたのは、元和の一国一城令が
今の熊本県のある肥後では、元和の一国一城令の際、
築城された地名に基づき、松江城とも言われています。
八代城は球磨川の支流・前川の北側に位置しています。
八代城は正方形の本丸の東南に細長い二の丸、
本丸は今もその跡が城址公園や八代宮として残って
この八代城には、2011年5月に登城しています。
JR八代駅前から九州産交バス乗車。
2011年5月3日、朝に人吉を出て、肥薩線に乗って八代に
八代市役所前でバスを降り、西に向かうと
堀の向こうに立派な櫓台が見えています。
南側の堀に沿って進んでいくと、橋が架かり、
八代宮は、1870年(明治3年)に八代城が廃城となった後、
八代の地に、南北朝時代の皇子を祀る神社がある理由が
八代宮の入り口の脇から本丸の周囲に残る
八代宮へ向かう橋の向こうに見えるのは舞台櫓の櫓台、
本丸側を眺めると八代宮の社殿を眺める事が出来ました。
東南隅の月見櫓の櫓台の様子です。
月見櫓跡から西側にも土塁が続き、
西側の堀の幅は広がっています。
八代城は大天守と小天守の連立天守がありました。
小天守へは本丸の北側から登る事が出来ます。
小天守の石垣がとても印象的でした。
小天守台を抜け、いよいよ大天守に向かいました。
大天守は5層6階だったそうです。
大天守は穴蔵構造になっていたようで、
大天守台には「天皇御展望之跡」の碑が建っています。
大天守台からの眺めです。
八代城の西側から北側にかけてが一望です。
大天守台から東に石垣に囲われた土塁が伸びています。
櫓台からは北側の北九櫓台との間の
埋門は八代城の搦手にあたり、
唐人櫓の櫓台から降り、埋門跡を抜けて、八代城の
廊下門から本丸北側の内堀の東側を眺めた様子です。
廊下橋を出て、本丸の西側に回ってみました。
廊下橋を渡り本丸跡に戻り、九間櫓台に上りました。
九間櫓台から眺める本丸北側の内堀の様子です。
そして本丸北東の角は御三階櫓の跡です。
三階櫓の櫓台から東側へと向かいます。
八代城の東側は縄張りが階段状になっています。
この先に、八代城本丸の大手門にあたる
この桝形の外側に架かる橋が欄干橋です。
欄干橋から城内に入ったところの内桝形門の様子です。
欄干橋から城内に入ったところに高麗門、
桝形を囲む内堀側の土塁からは、当時の
桝形を囲む土塁の本丸側は綺麗に整備され、
土塁から降り、桝形門を通って、
往時は高麗門があったところです。
門や桝形の周囲の櫓や土塀は無くなっていますが
欄干橋から南に内堀の外側を歩いてみました。
宝形櫓は方形櫓ともいい、一階は
宝形櫓から本丸の南端の石垣の上を西に向かいました。
本丸の南東部は南に突き出した形になっていて
舞台脇の櫓台からは内堀に突き出た地形が見えます。
当時は、この場所に二の丸と三の丸の間の
宝形櫓と舞台脇の櫓で囲われた
当時からあったかどうかはわかりませんが、
こうして、八代城本丸のぐるりと一周巡りました。
また二の丸、三の丸は市街地化されてしまい、
その様子は、八代のページで紹介します。
Yatsushiro Castle, Japan
登城日:
2011.5.3
出された後の1622年(元和8年)の事です。
熊本城と麦島城の2城を持つことが許されましたが、
1619年(元和5年)の大地震で、球磨川の中州にあった
麦島城が崩壊し、北側に築城されたのが八代城でした。
豊前小倉藩から移封されると、藩主・細川忠利の父・
忠興と忠利の弟・立孝が八代城に入城しています。
南西に三の丸、そして北西に北の丸を配しています。
いますが、それ以外の曲輪は市街地化されています。
その時の様子を紹介します。
八代市役所前または八代宮前下車。
所要時間は約10分。
運賃は150円です(2019年8月現在)
到着し、八代駅前からバスで八代城跡に向かいました。
八代城の本丸の堀が見えて来ました。
撮影: 2011年5月
この櫓台は、八代城の南東隅にあった
宝形櫓があったところです。
本丸跡に建てられた八代宮に行く事が出来ます。
因みに、この橋は明治以降に架けられたものです。
撮影: 2011年5月
本丸に、後醍醐天皇の皇子・懐良親王を祀る為に
1883年(明治16年)に建立された神社です。
知りたくなりましたが、社殿は立派な神社でした。
土塁に上る事が出来ました。
撮影: 2011年5月
上右の写真は、八代城西南隅の月見櫓の方向の眺めです。
当時の御殿の様子を彷彿とさせるような眺めです。
撮影: 2011年5月
撮影: 2011年5月
その上を歩くことが出来ました。
撮影: 2011年5月
土塁の先には天守台が見えて来ました。
撮影: 2011年5月
撮影: 2011年5月
小天守を通って大天守に行く構造に
なっていたようです。
撮影: 2011年5月
大天守の入り口の様子です。
撮影: 2011年5月
1672年(寛文12年)の落雷で焼失してしまい、
以降は再建されることはなかったそうです。
建立されてから僅か50年後の事でした。
撮影: 2011年5月
地下部分は石垣で囲まれていました。
1934年(昭和9年)に昭和天皇が八代城を訪れて
いるそうで、その際の碑でしょうか。
撮影: 2011年5月
撮影: 2011年5月
城址に建つ八代宮の本殿もよく見えていました。
撮影: 2011年5月
唐人櫓があったところです。
撮影: 2011年5月
埋門跡の様子が一望出来ました。
撮影: 2011年5月
護りも堅牢だったようです。
撮影: 2011年5月
北側に架かる廊下橋から内堀の外側に出てみました。
撮影: 2011年5月
北西隅の大天守台から南側に向かって
立派な石垣を眺めました。
撮影: 2011年5月
先ほど唐人櫓台から眺めた土塁の上です。
撮影: 2011年5月
当時は、本丸北側には北の丸がありました。
撮影: 2011年5月
1672年(寛文12年)の落雷で大天守が焼失した後、
この三階櫓が天守代用となったと思います。
内堀の対岸に駐車場が見えますが、これは
往時の二の丸跡になっているようです。
撮影: 2011年5月
高麗門のある大きな桝形がありました。
撮影: 2011年5月
八代城本丸の正門だったところなので、
桝形はとても立派でした。
撮影: 2011年5月
そして桝形の奥に頬当御門の櫓門がありました。
二の丸に建つ市役所がよく見えていました。
撮影: 2011年5月
季節の躑躅が咲いていました。
撮影: 2011年5月
欄干橋に向かいました。
撮影: 2011年5月
撮影: 2011年5月
内堀の外側から眺める様子は、堅牢だった
桝形門の様子がよくわかります。
高麗門の南に隣接する磨櫓から南に石垣が続き、
八代城本丸の南東の角に宝形櫓がありました。
撮影: 2011年5月
4間 x 4間の正方形の櫓だったようです。
当時は宝形櫓との間には多聞櫓が続いていたようです。
その西の角に舞台脇の櫓がありました。
撮影: 2011年5月
撮影: 2011年5月
二の門があり、門の櫓台の跡と思います。
本丸の一角には土俵がありました。
撮影: 2011年5月
九州各地では、土俵を良く見かけます。
本丸には当時の建物は残っていませんが、
高麗門は市内に移築され残っているそうです。
当時の面影は残念ながら残っていませんが、
北の丸の隣に八代城代だった松井直之が
1688年(元禄元年)に築いた庭園が残っています。