二本松駅から二本松城址へ
二本松城攻略のスタートは二本松駅です。
二本松城は駅から北に約1km程のところにあります。
何度か道を曲がるのですが、
比較的道順は判り易そうです。
駅前の道をまっすぐ北に進むと
二本松神社の鳥居が見えてきました。
室町時代の15世紀中ごろ、
畠山氏によって白旗が峰に祀られて以来、
歴代の城主によって崇敬されていた神社です。
1643年(寛永20年)に入府した丹羽光重公は
特に篤く崇敬し、二本松藩の総鎮守とし、
今の地に遷宮したそうです。
1806年再建の社殿や拝殿が残っているそうです。
ここで右に曲がり次の角を左折します。
左に折れた後は、観音丘陵への
登り道となっています。
上り始めてすぐのところに
二本松城大手門の跡がありました。
道の脇に石垣が残っています。
通称「坂下門」といわれる
この門は江戸時代も末に近い
1832年(天保3年)に築かれました。
大手門(坂下門)を過ぎ、
観音丘陵への坂道を登っていきます。
この坂道を久保丁坂というそうで
坂の頂上には、久保丁門があったそうです。
その久保丁門の礎石が、大手門跡に近い
二本松歴史資料館前の庭に展示されていました。
長い坂道を登りきると、目の前に
二本松城の石垣や櫓が見えてきました。
坂の下の大手門から谷を越えた
向こう側の山までが城域だったとは
二本松城は規模の大きなお城だったようです。
本丸のある白旗が峰との間の谷は
江戸時代には武家地だったそうで、
家臣たちの屋敷が建ち並んでいた事でしょう。
観音丘陵の峠を下り始めたところに
旧作事屋の碑が立っていました。
お城用語で「作事」は建築物の事です。
当時は、ここで建物が作られていたのでしょうか。
坂道を下ったところ、二本松城の東側に
戒石銘碑というのがあったので立ち寄ってみました。
5代藩主(丹羽家7代)丹羽高寛公が
藩士の戒めとする為、刻ませた碑文です。
"爾が俸 爾が禄は 民の膏 民の脂なり
下民は虐げ易きも 上天は欺き難し"
二本松城に登城する藩士は
毎日この碑を読みながら、
自らを戒めていた事でしょう。
この戒石銘碑の右手には二本松城三の丸の
立派な石垣が続いています。
石垣の上の土塀が雰囲気を引き締め、
遠くに箕輪門が見え、当時の面影が
伝わってきます。
いよいよ、これから二本松城の城郭内に入ります。
三の丸への入り口に聳える箕輪門の前に
二本松少年隊群像がありました。
戊辰戦争では会津藩の白虎隊が有名ですが、
この二本松藩でも官軍を迎え討つべく
62名の少年達が参戦したそうです。
白虎隊士が自刃した
飯盛山の様子はこちらです。
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三の丸界隈
二本松少年隊群像の目の前に、
高石垣が続き、櫓門が聳えています。
1982年(昭和57年)に復元された箕輪門です。
丹羽光重公が二本松城主となり
城郭を整備した際にこの箕輪門も
築かれたそうです。
この箕輪門の手前の石垣には
「大城代・内藤四郎兵衛 戦死の地」
という碑がありました。
戊辰戦争の際、内藤四郎兵衛は
この箕輪門を開け、敵勢に切り込み、
獅子奮闘の末壮絶な戦士を遂げたそうです。
この碑のすぐ先にある箕輪門です。
堂々とした櫓門です。
二重の続櫓もあり堅牢な構えです。
箕輪門を抜けると、再び
枡形の石垣がありました。
三の丸へと至る塀重門跡です。
箕輪門は二本松城の政庁が置かれていた
三の丸への表玄関だったのですが、
箕輪門、塀重門と枡形門が続き、
厳しく守りを固めていたようです。
東側は視界が開け、遠く
阿武隈の山々が見ました。
この二本松城の東側は、
地形的には弱点になっているので、
いくつかの寺社を配して、
防御の拠点にしていたようです。
先ほどの塀重門跡からまっすぐ西に進むと
三の丸跡の広い空き地が見えてきました。
三の丸の真ん中に低い石垣があり、
上下二段に分かれていました。
何人かの人が整備作業していました。
二本松城三の丸跡は日本最大規模の
菊人形展の会場で11月半ばまで
開かれていたそうなので、その
後片付けが続いていたのでしょうか。
三の丸の真ん中の石垣を抜け、
一段高くなっているところの奥に
風流な庭園風の石組みがありました。
1934年(昭和9年)に作られた相生の滝です。
三の丸の西側には、霞ヶ池とるり池の
二つの池が続いています。
霞ヶ池から眺める洗心亭の様子です。
洗心亭は茅葺、寄棟造りの茶亭です。
一時、城外に移築されていた為、
戊辰戦争の戦火を免れたそうで、
江戸時代から残る唯一の建物です。
丹羽氏初代藩主の光重公が
こよなく愛した茶亭だそうです。
この洗心亭からの霞ヶ池と
るり池の様子です。
るり池は光重公時代の庭園の名残です。
この眺めを楽しみながらのお茶は
さぞ、優雅なひと時だったことと思います。
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三の丸〜乙森跡
三の丸の西にある洗心亭を訪れた後、
霞ヶ池、るり池を巡り、本丸を目指しました。
霞ヶ池に注ぐ七ツ滝です。
るり池から霞ヶ池に注ぐ水の流れが
幾段もの小さな滝をなして注いでいます。
そしてこちらはるり池に注ぐ布袋滝です。
二つの池を巡った後、
三の丸の北側の白旗が峰を
登り本丸を目指しました。
登る途中に山の中腹に
いくつか平地がありました。
城郭図が無いので、よく判らないのですが、
畠山氏が支配していた戦国時代には
曲輪だったところでしょうか。
その中腹の平地の片隅に碑がありました。
「二本松藩士自刃の地」の碑です。
1868年7月の戊辰戦争では、攻める官軍は
薩・長・土の3藩を中心に約7,000名、
一方の二本松藩は応援兵を含めても
約1,000名の兵力だったそうです。
7月29日(新暦9月15日)に戦いが始まりますが、
優勢な官軍の前に二本松城は僅か1日で
落城してしまったそうです。
二本松藩の戦死者337名以上、
他藩の戦死者208名以上という
熾烈な戦いだったそうです。
二本松藩の主戦論者だった家老・丹羽一挙。
城代・服部久左衛兵、小城代・丹羽新十郎の
3名がここで自刃したそうです。
更に山を登っていくと、
山腹に「日影の井戸」がありました。
千葉県印西市の「月影の井戸」、
鎌倉の「星影の井戸」と共に、
"日本の三井"と言われているそうです。
本丸への登り道を振り返った様子です。
冬の短い日は既に傾き、白旗が峰に
もうすぐで沈んでしまいそうです。
「日影の井戸」から更に一段上ると
本丸が見えてきました。
下の写真、上に見える白っぽい石垣が本丸、
その下の斜面にあるのが本丸直下石垣と呼ばれ、
二本松城でもっとも古い石垣です。
琵琶湖の畔、坂本の穴太(あのう)衆が
築いたとされる石垣だそうです。
坂本の様子はこちらです。
信長・秀吉が石垣造りの城を築きだした
初期の石組みの専門集団です。
蒲生氏郷が本丸を修復した際に
築かれたものでしょうか。
本丸石垣の向こうには
夕暮れの青空が広がっていました。
この先に、駐車場となっている平地がありました。
白旗が峰の山頂に近い乙森跡です。
二本松城に会津藩から城代が置かれていた
1601年(慶長6年)から1627年(寛永4年)には
城内の東城と西城に二人の城代が置かれていた
という記録があるそうで、この乙森は
東の城代の居城だったのでしょうか。
乙森跡から眺めた本丸の石垣です。
いよいよ、二本松城の
本丸へと向かいました。
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本丸周辺
乙森跡からいよいよ本丸を目指します。
本丸は不等辺の5角形のような形をしています。
本丸の北の隅に天守台があり、
東西に二基の櫓が建っていたようです。
東櫓下の石垣です。
二本松城の本丸の石垣は1991年に発掘調査され、
1993年から2年間にかけて復元されています。
この東櫓下の石垣もこの復元工事で
積み直されています。
石垣の下の方は古い様式の
穴太(あのう)積みを復元しているそうです。
そして、本丸入り口の枡形虎口です。
石段が続き、その先に折れ曲がった
石垣が続いています。
当時はこの石垣の上に櫓が
建っていたのでしょうか。
枡形虎口を上ると、本丸の
敷地が広がっていました。
それ程広くない本丸跡のほぼ
真ん中に碑が立っていました。
既に夕暮れの様子です。
本丸の北の端にある天守台です。
天守台の手前に碑がありました。
城代・丹羽和左衛門と
勘定奉行・安部井又之丞、自刃の碑です。
この二人も山腹に碑のあった3家臣と同じく
戊辰戦争で二本松城が落城した際に
自刃したということです。
痛ましい戦いの傷跡があちらこちらに
残る二本松城ですが本丸・天守台からは
素晴らしい景色が広がっていました。
上の写真は、東の阿武隈山地の様子、
そして下の写真は、安達太良山です。
西日が当たり、素晴らしい眺めでした。
痛ましい戦争の傷跡を癒してくれるような
広々とした眺めでした。
列車の時間が迫っていましたが、
この景色をいつまでも眺めていたくて
この本丸にしばらく居続けていました。
しばらく佇んでいるうちに日も西に傾き、
そろそろ夕暮れを迎えそうです。
もうしばらく居たかったのですが、
暗くなる前に本丸を後にしました。
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搦手門〜新城館跡
夕暮れ迫る本丸を後に、
搦手門に向かいました。
今では石垣が残るだけですが、
1590年頃(慶長初期)、蒲生氏郷の時代に
ここに門が建てられたそうです。
発掘調査の結果、蒲生氏郷時代には
冠木門だったのを、加藤嘉明が城主となった
寛永初期(1627年頃)には屋根のある
高麗門形式に建て直されたようです。
搦手門から少し離れたところに
ちょっとした平地がありました。
1586年(天正14年)の畠山氏と伊達氏の
攻防戦の際には、ここが本丸の機能を
果たしていた「新城舘」です。
その一角に、二本松少年隊顕彰碑が建っていました。
戊辰戦争に参戦した少年隊は
この辺りで訓練を行ったそうです。
少年隊が訓練をした「新城舘」曲輪に
夕陽が暮れかかっていました。
そして曲輪の端に千恵子抄詩碑がありました。
千恵子抄で知られる高村千恵子は
1886年(明治19年)に二本松で生まれています。
"東京には本当の空がない"と言った千恵子。
安達太良山を毎日眺めて育った彼女にとっては、
ごく普通の感想だったのではないでしょうか。
詩碑には、千恵子抄の一節、
"あれが安達太良山、
あの光るのが阿武隈川"
が刻まれていました。
知恵子抄碑で「新城舘」曲輪は尽き、
急な坂道を下って行きます。
坂道を下ったところに
土井晩翠の歌碑がありました。
(右上の写真です)
土井晩翠は仙台出身の詩人です。
仙台の様子はこちらです。
土井晩翠が「荒城の月」の着想を得た
仙台城、会津若松城の様子はこちらです:
仙台城
会津若松城
晩翠は1949年(昭和24年)に二本松を訪れ、
花吹雪の中、二本松城を散策し、
"花ふぶき 霞が城の しろあとに
仰ぐあだたら 峯のしら雪"
と詠ったそうです。
土井晩翠の歌碑の近くから、
安達太良山を展望出来ました。
夕陽を浴びて、山頂の雪が
仄かに赤みを帯びています。
安達太良山に掛かる雲は残念ながら晴れずに
千恵子が本当の空と言った空は見えなかったのですが、
この景色を眺めることが出来て良かったです。
三の丸へとくだり、箕輪門を抜けて城外に出ました。
まだ青さが残る夕暮れの空に
櫓の甍がシルエットになっていました。
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