北出丸〜西出丸
早朝、会津若松の街を急ぎ足で散策し、
北側から会津若松城にアプローチしました。
会津若松の様子はこちらです。
通りから、一歩入ると広々としたお堀の向こうに
立派な石垣が見えてきました。
お堀には水鳥が羽を安めています。
冬の朝の弱い日差しが斜めに差し込んでいます。
このお堀の向こうの石垣が北出丸です。
東側に土橋がかかり、その向こうに
立派な大手門の虎口が守りを固めています。
虎口の石垣に上ることが出来たので、
そこから大手門の枡形の様子を眺めました。
写真の右手から左が本丸への方向です。
向かいの石垣とその左奥の石垣の間には
往時には立派な櫓門があった筈です。
この北出丸からも、会津若松城の
規模の大きさが判ります。
北出丸に会津若松城の城郭図がありました。
図の下側が北、上が南側になっています。
一番下の北出丸から椿坂を通り、本丸に向かいます。
会津若松城は、本丸、二の丸そして三の丸が
西から東へ一直線に並ぶ連郭式との縄張りです。
蒲生氏郷が築城した際には、東側が大手門でしたが、
加藤嘉明が改築した際に、北出丸、西出丸を築き、
本丸の守りを固め、北出丸を大手門に改めています。
椿坂から本丸に入ると、立派な石垣の枡形が現れます。
太鼓門跡です。
写真の右側に、ちょっとわかり難いですが、
石垣の側面に向かい合った階段が築かれています。
合坂と呼ばれるこの階段は、太鼓門へ
武者が駆け上がる為のものでした。
そして、そのすぐ南には天守閣が聳えています。
この写真は、帯郭から写した写真です。
戊辰戦争で落城した会津若松城は
1874年(明治7年)に取り壊されていましたが、
1965年(昭和40年)に天守閣は外観復元されています。
晴れ渡った空に聳える天守閣は印象的でした、
天守閣に向かう前に、西出丸に向かいました。
西出丸への門が弓門跡で、その枡形の上に
鐘撞堂という鐘撞き堂が残っていました。
戊辰戦争の折、このお堂は時を告げ続け
、
城内の士気は大いに上がったとのことです。
鐘撞堂から眺めた弓門跡の枡形です。
西出丸は今では大きな駐車場となっていました。
西出丸から城外へ通じる土橋から、
先ほど通った北出丸から本丸への
椿坂を眺めました。
当時の建物は残っていませんが、
江戸時代の雰囲気が色濃く残っていました。
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本丸 (その1)
(天守閣、南走長屋、鉄門、干飯櫓)
西出丸の様子を眺めた後、本丸に向かいました。
朝陽を浴びた天守が輝いています。
赤い高欄がとても印象的です。
復元された天守は博物館になっているのですが、
まだ開館前だったので、その間に2000年(平成12年)に
復元された南走長屋、鉄門そして干飯櫓を眺めていました。
南走長屋は上の写真の天守の左に続く建物です。
当時は、武器が収納されていたそうです。
そして、下の写真が鉄門です。
堂々とした櫓門で、当時の建物が復元されると
流石に天守閣も引き締まって見えます。
そして、その南に干飯櫓が建っています。
この干飯櫓は会津城に11基あった
二重櫓で一番大きい櫓だったそうです。
当時は、籠城に備えた干した米などの
食料が保存されていたそうです。
こちらは、干飯櫓の近くにあった馬洗石です。
干飯櫓から東西に走る土塁があり、当時は
この土塁にに沿って馬場があったそうです。
この石で馬の口を洗ったそうです。
開館時間が近づき、天守閣へと向かいます。
天守閣前には、本丸御殿の跡が広がっていました。
芝生に置かれている石は、御殿の礎石一部でしょうか。
そして、開門の時間となり、天守閣に上って見ました。
時間があまり無いので、駆け足の見学です。
折角来たのに、自分でも勿体ない事と思います・・・
展示物をざっと見ながら天守閣の最上階を目指しました。
朝から良く晴れ上がり、うっすらと雪を抱いた
磐梯山がくっきりと眺める事が出来ました。
磐梯山の手前、写真の右端近くの
三角状の小山が飯盛山です。
胸が透くような雄大な景色で、
朝早起きした甲斐があったと思います。
この左手には、雪を被った飯豊山地も見えていました。
いつまでも眺めていたい景色でしたが、
名残惜しい思いで、階段を下り、
南走長屋や干飯櫓の内部を見学しました。
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本丸 (その2)
(荒城の月碑、月見櫓、麟閣)
天守閣の博物館を後にし、次に向かったのは
本丸の東南の土塁の上にある、
「荒城の月」の碑です。
仙台出身の土井晩翠が作詞した「荒城の月」。
仙台城(青葉城)を題材に詩を書いたと思っていたのですが、
戊辰戦争で荒れ果てたこの会津若松城も、
詩の構想を得たそうです。
ちなみに、作曲の滝廉太郎は大分県の竹田城、
そして富山城を元に曲の構想を得たそうです。
この4つのお城はすべて訪れたのですが、
富山城も荒城の月の題材になっているとは
知りませんでした。
仙台城の様子はこちらです。
竹田城の様子はこちらです。
富山城の様子はこちらです。
荒城の月の碑の近くにある月見櫓跡。
月見櫓とは風流な名前です。
櫓にかかる月影の眺めが城内からは
絶景だった為、この名前がついたそうです。
この月見櫓跡のすぐ北側には茶室・麟閣があります。
この茶室は、秀吉から死を賜った千利休の子供、
少庵(しょうあん)を蒲生氏郷が会津に匿い、
この時に氏郷が少庵に立てた茶室ということです。
1990年(平成2年)に市内に残されていた
その建物を元の場所に移築保存したそうです。
千利休の高弟として知られていた
蒲生氏郷の建てた茶室は
とても小さく、ひっそりとした建物でした。
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二の丸〜三の丸
麟閣を見学した後、二の丸から三の丸へと向かいました。
本丸から二の丸へは朱色の欄干の廊下橋を渡ります。
廊下橋の上から南を写した写真です。
内堀に面して本丸側には高石垣と呼ばれる
高さ20mもの扇の勾配の石垣が積まれています。
高石垣の奥には茶壺櫓跡が見えていました。
廊下橋を渡り終え、本丸を振り返って見ました。
廊下橋は、当時は屋根ある廊下のついた構造の
橋だったのでこの名前が付けられたそうです。
この橋は、有事の際には切り落とし
敵の侵入を防ぐ構造だったようです。
築城当時の大手門だった廊下橋門の
枡形虎口の石垣も立派なもので、
堅牢なお城の様子が偲ばれます。
二の丸を横切り、三の丸へと向かいます。
二の丸と三の丸の間の堀の様子です。
二の丸や三の丸は門以外は
土塁で囲まれていたようです。
三の丸から見た二の丸東門の様子です。
少し急ぎ足で訪れた会津若松城は、
予想を上回る規模で、見所が満載でした。
赤い高欄の天守、その天守からの
眺めも素晴らしいお城でした。
戊辰戦争の歴史の舞台にもなり、
日本を代表するお城の一つと思います。
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