米沢城
Yonezawa Castle, Japan


登城日:
2006. 12. 23 & 2014. 4. 27






米沢城は、江戸時代に上杉氏が
城主だったお城として知られています。

越後の守護代だった長尾景虎が関東管領を譲り受け
上杉氏を名乗り、武田信玄との激闘を経て、
越後から能登・加賀に至る地域を平定しました。
その人が戦国の名将と言われた、上杉謙信です。

謙信の後継・上杉景勝は、豊臣秀吉が天下人となると、
120万石の大大名として会津に移封されるのですが、
関ヶ原の戦いで西軍に組した為、30万石に減封され
この米沢城に入城しています。


米沢城の起源は1238年(暦仁元年)に
長井氏が築城したと伝わっています。
その長井氏が1380年(天授6年)に伊達氏に滅ぼされると、
上杉氏が会津に移封される1598年(慶長3年)までの
200年間は伊達氏の居城だったそうです。


地図はこちらです→ Mapion


米沢城は、米沢駅の西約2km程のところにあります。

駅から少々距離があるので、
タクシーで米沢城址に向かいました。

タクシーを下り、お土産物屋の脇を抜けていくと、
上杉鷹山の像と、その鷹山を祀る松岬神社がありました。



上杉鷹山は破産しかけた米沢藩の財政を立て直した
名君の誉れ高い、米沢藩の第9代藩主です。



この写真は、上杉鷹山を祀る松岬神社です。
松岬神社を過ぎると、いよいよ米沢城址が見えてきました。
米沢城址は、お堀こそありますが、
入り口の両側に石灯籠が並び城址らしくない雰囲気です。

 

ちなみに右上の写真のお堀の向こうには
御三階櫓が建っていたそうですが、今は
その櫓台もはっきりしていません。

現地の案内図によると、米沢城は本丸部分が
上杉謙信を祀る上杉神社となっています。



城址らしくない雰囲気はその為でしょうか。

なんとなく上杉謙信の宿敵だった武田信玄の、
お堀に囲まれた館跡の躑躅ヶ崎館が
武田神社となっているのと同じ様な感じがします。

躑躅ヶ崎館の様子はこちらです。


ほぼ正方形の旧本丸の周りにお堀が残っていますが、
当時は、この周囲に更に二の丸が囲み、
二の丸の周囲に外堀があったのですが、
二の丸の一部が上杉記念館になった以外は
今では市街地化されてしまっているようです。


本丸跡を散策する前に、お堀端に沿って
二の丸後の上杉記念館に立ち寄ってみました。



上の写真は、上杉記念館の門です。
門を入ったところには立派なお屋敷がありました。



この上杉記念館は予備知識なく訪れたのですが、
米沢藩の最後の藩主・上杉茂憲公の本宅だったようです。
1896年(明治29年)に建てられたこの邸宅は、大正に入って
焼失したそうですが1925年(大正14年)に再建されたものです。

中に入れるのかな?と思ったのですが、
お品書きが建物の前に出ていて、
高級料理屋さんの様な感じだったので、
建物には入らずに、引き返してしまいました。

本丸跡には、城の南口にあたる
赤い菱門橋から入りました。



冬の夕方、小雨も降るような天気で、
あたりも薄暗くなりかかっていました。
この菱門橋の周囲には多くの桜があり、
春には見事な景色になるということです。

南門から本丸に入ると小さな春日神社の社があり、
その先に上杉神社の本殿が建っていました。



境内は訪れる人も少なく、ひっそりとしています。
この神社に祀られている上杉謙信は
1578年(天正6年) 3月13日に没しています。


上杉神社から東に向かって歩いていくと
上杉鷹山の像がもう一つありました。
これを見ると上杉鷹山公が、この米沢で
どれほど名君として慕われていたのかが良く判ります。




上杉鷹山が藩主となった1767年(明和4年)頃の
米沢藩の窮状はかなり酷かったようです。

何しろ上杉家は、関ヶ原の戦いで、
120万石から30万石に減封されたので
藩の経営は当初から相当に苦しかったのですが、
さらに三代目藩主・上杉綱勝が後継者を定めぬまま
没したので、石高を15万石に半減されてしまいます。

この為、上杉鷹山が藩主になった時には、
米沢藩には20万両に達する借財があったそうです。
一両は一年間の一人分の米の消費額に相当するそうなので
今の金額に治すと、ざっと50〜100万円でしょうか。
となると、当時米沢藩の借金は約1000〜
2000億円にも及ぶ火の車状態だった様です。

鷹山は自ら率先して藩政の徹底した倹約を行い、、
藩内に殖産興業をしてその窮状を救ったのです。

しかし上杉鷹山は上杉家の本流の血筋ではなく、
養子として藩主に納まったため、
鷹山の改革は多くの反対も有ったようです。

"為せば成る 為さねば成らぬ 何事も
成らぬは人の 為さぬなりけり"

多くの反対意見を乗り越え、改革を果たした
鷹山のこの言葉はとても重いものがあります。


上杉鷹山公の銅像の裏側は一段高くなった曲輪です。



ここには戊辰戦争や西南の役で戦士した
米沢藩士を慰霊する招魂碑が建てられています。

そして、その手前には柵で囲われた
上杉謙信祠堂(御堂)跡の紐たっていました。



謙信の遺骸は甲冑を着たまま居城だった
越後・春日山城に埋められたのですが、
上杉景勝が米沢に移封になると共に、
この地に御堂を建てて再び葬られたそうです。

甲冑を着たまま葬られた上杉謙信の遺骸は、
歴代藩主には畏れ多い米沢藩の守り神だった事でしょう。

城内には、その上杉謙信の銅像もありました。



床几に腰を下ろし、遠くを見据える
謙信の像は迫力がありました。


そして伊達政宗生誕の地の碑を見つけました。



1380年(天授6年)から1598年(慶長3年)まで、
米沢城は伊達氏の居城だったので
伊達政宗がこの米沢城で生まれたのは
当然と言えば当然のことなのですが、
伊達政宗と言えば仙台城(青葉城)、
米沢城は上杉氏のお城というイメージが強いので
政宗が米沢城で生まれていたのは新鮮な驚きでした。

仙台城の様子はこちらです。


米沢城を訪れた後、二の丸跡に建てられた
「伝国の杜」・上杉博物館を訪れるうちに
辺りはすっかり夕闇に包まれていました。



上杉神社の明かりが雨に濡れた
参道を寂しく照らしていました。



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