仙台城 (青葉城)
Sendai Castle, Japan


登城日:
1978 & 2006. 12. 23
       2007. 12. 07






仙台城は伊達正宗が1601年に築いたお城です。
関ヶ原の戦いが終わった後、それまでの居城・岩出山から、
所領のほぼ中央に位置するこの地に居城を構えました。


地図はこちらです→ Mapion


仙台城の南側は、断崖が続く深い谷となり、
西は深い青葉山、東も広瀬川への断崖となっており、
天然の要害に建てられたお城です。

正宗が徳川家康に遠慮し、
天守は建てられなかったそうですが、
伊達正宗の築いたこの仙台城は
最も堅固な城郭と言われたそうです。

時が下り、正宗が没した後、本丸の麓に、
二ノ丸・三ノ丸が築かれました。



この仙台城の遺構は、明治維新後の陸軍駐留や
戦災で、すべてが失われてしまっています。
二ノ丸は東北大学の教養部のキャンパスに、
三ノ丸は仙台市博物館になっています。




仙台城址には何度か行った事がありますが、
2006年12月と2007年12月に久しぶり行きました。
その時の様子を紹介しようと思います。



本丸
June. 11, '07

本丸への道
June. 11, '07

曲輪の道
Jan. 03, '09

三の丸
Revised ! Sep. 16, '13

仙台城移築城門
Jan. 02, '09



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仙台城本丸



青葉通りを真っ直ぐ西に向かい
広瀬川を渡ると、仙台城址に辿りつきます。

広瀬川を渡る大橋から20分程で行けるのですが、
時間節約の為、行きはタクシーで仙台城址に向かいました。

大橋を渡り、後ほど紹介する隅櫓の脇の道を登り
本丸の裏の埋門(うずみもん)跡でタクシーを下ります。

「青葉城址」の標識があり、その入り口は
枡形が想像される食い違い型の土塁となっています。




埋門を抜け、搦め手の天然の守りとなっている
辰ノ口渓谷を訪れました。
この渓谷は仙台城の南側を深く抉っている谷です。



今では、お城のある青葉山と
その南の八木山を結ぶ橋が架かっていますが、
江戸時代にこの絶壁の谷越えは不可能だった事でしょう。


埋門跡に戻り、本丸跡へと足を踏み入れました。
まだ朝の8時前で、城内は静まり返っています。
広瀬川の断崖絶壁の高台にある本丸跡からは
仙台の街が一望できます。



ビルの建ち並ぶ仙台の街に
朝焼けの空が残っていました。

江戸時代にはこの断崖に、清水寺のような
舞台を持つ御殿が建てられていたそうです。

本丸跡には島崎藤村の碑や
土井晩翠の銅像がありました。

島崎藤村は、今は岐阜県に編入された
旧中仙道の宿場町、馬篭の出身ですが、
一年程の間、この仙台に大学教師として
赴任した事があったそうです。

馬篭の様子は
こちらです。

そしてこちらが、土井晩翠の銅像です



土井晩翠は仙台出身で「荒城の月」の作詞者です。
仙台城(青葉城)を題材にこの詩を書いたのですが、
戊辰戦争で荒れ果てたこの会津若松城でも、
詩の構想を得たそうです。

ちなみに、作曲の滝廉太郎は大分県の竹田城や
富山城を元に曲の構想を得たそうです。

荒城の月にまつわる他のお城は下のリンクからどうぞ:

会津若松城の様子はこちらです。
竹田城の様子はこちらです。
富山城の様子はこちらです。


そして本丸跡に、伊達政宗の騎乗の像がありました。



この像は、よく旅行パンフレットにも使われているので、
目にする事も多いかと思います。

独眼流と呼ばれ小さい頃患った天然痘で
右目が見えなかったという伊達政宗ですが、
遺言により銅像は両目が描かれています。

颯爽としたこの騎馬像はとても印象に残っています。

下の写真は本丸跡の様子です。



当時はいくつもの御殿が建ち並んでいた筈ですが、
今は空き地が広がっています。
北側半分は1998年から2003年にかけて
石垣整備が行われた際に、整備されています。

その傍らに石垣が展示されていました。



左側の丸い石で積まれたのが「野面積み」
右側の四角い石で積まれたのは
「切り込みハギ」と呼ばれています。

この本丸の東北部には艮(うしとら)櫓があり、
一時期この艮櫓の再建計画が持ち上がったようです。
しかし、石垣は江戸時代末期の状態に整備されたものの
その時期には艮櫓が存在しなかった事や
艮櫓の建設で江戸初期の遺構が破壊されてしまうという
問題が生じ、艮櫓の再建は断念されたそうです。

艮櫓が復元されれば当時の雰囲気は蘇った筈ですが、
歴史的な史実に基づく真摯な検討と決断には
頭が下がる思いです。



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本丸への道


本丸を散策した後に隅櫓まで
下城する事にしました。

下の写真は、仙台城本丸の正門のあった
詰め門跡の様子です。



写真の鳥居は西の丸跡に
建てられた護国神社の鳥居です。

鳥居の右手の石垣が本丸北側の石垣です。



高さは20mはあるでしょうか、見事な高石垣です。
今はこの石垣に沿って道路が通っていますが
当時もこの石垣の下に登城道があったようです。



東を広瀬川に臨む崖、南を辰ノ口渓谷の断崖の谷に
囲まれた仙台城の唯一の攻略口だったと思われますが、
この高石垣からの攻撃に攻め手は耐えられなかったことでしょう。
仙台城が最も堅牢な造りと云われるのもわかる気がします。
途中、中門跡を通りました(下右の写真です)。



石垣が食い違う様に張り出しています。
中門は明治以降も残っていたのですが、残念な事に、
1920年(大正9年)に取り壊されてしまいました。

中門の先には隅櫓が見えてきました。



隅櫓は寄付によって1967年に復元されたものです。

戦前まで、残っていた大手門とその脇の
隅櫓は国宝に指定されていましたが、
太平洋戦争の空襲で惜しくも焼失しています。



上の写真、隅櫓の右手に堂々とした
大手門が建っていたのです。

嬉しい事に大手門は復元される事が
決まっているそうです。
いつの日にか、蘇った大手門を訪ねに
この場所に来てみたいと思います。

上の写真、大手門のあった奥が
当時の二の丸にあたります。

今では、東北大学のキャンパスになっていますが、
この一角に、伊達政宗がスペインに遣わした
支倉常長の像がありました。

その様子は仙台の旅行記でどうぞ。

仙台の様子はこちらです。




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曲輪の道


本丸から大手門へ下る坂道の途中に
右手に降りていく道があります。

入り口はちょっとわかりずらいのですが、
この小道が曲輪の道です。

曲輪の道の入り口にあたる沢の門跡です。



この沢の門の右手に三の丸との間に
沢の曲輪があり、大手門へと向かう道筋には
中の曲輪があったそうです。

小道を下っていくと、石垣が現れました。



この石垣のあたりが、清水門跡です。
清水門のすぐ下には仙台城酒蔵跡があります。




1608年(慶長13年)に伊達政宗公が大和の
榧森(かやのもり)又右衛門を招き、
ここで酒造りを行っていたということです。
江戸時代を通じ、この地に酒蔵があったそうです。

先ほどの清水門の名前は、この酒蔵から
湧く清水から名付けられたそうです。

酒蔵跡の下の石垣です。



丸い石が積み重なっている野面積みでしょうか。

やがて、三の丸への入り口となる
巽門跡が現れました。



この巽門は第二次大戦まで
残っていたそうです。
戦争で焼けてしまったのは
残念なことです。



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三の丸


曲輪の道を通って、本丸を下り、
巽門をすぎると三の丸です。

今ではこの三の丸には
仙台市博物館が建っています。



2007年12月に訪れた際には、
遅めの紅葉が残っていました。



三の丸には魯迅と伊達政宗の像がありました。





魯迅は、1904年9月から仙台医学専門学校
(現在の東北大学医学部)に留学していたそうです。

そして、兜をかぶった伊達政宗の像は
凛々しい正宗の様子を伝えていました。


三の丸にひっそりと佇む残月亭です。



残月亭は初代仙台区長・松倉恂が
建てた茶室で、伊達家の許可を得て、
仙台城ゆかりの茶室である「残月亭」の
名前を受けついだそうです。


三の丸東側に残る土塁の様子です。



低い土塁ですが、この土塁の向こう側には
一段低くなったところに長沼があり、
東の護りとなっています。

三の丸の北側の出入り口に
なっていた子ノ門跡です。



当時は2階建て瓦葺の門が聳えていたそうです。
子ノ門を出て左手にある五色沼です。



この五色沼は、三の丸の北側にあった堀跡です。

三の丸の東側には、長沼があります。
巽門から東に向かう土橋を目指します。



この左手に長沼が見えていました。



この二つの沼が当時の三の丸の堀跡で
当時の様子がしのばれます。
長沼は当時、長さが252m、
深さが4.5mもあったそうです。

この長沼の東側には
片倉小十郎の屋敷があったそうです。
片倉小十郎は、1万8千石の重臣で、
一国一城令でも例外として認められた
白石城の城主でした。

白石城の様子はこちらです。


仙台城の三の丸は、比較的
こじんまりとした感じでした。
長沼や子ノ口門跡に当時の趣を
感じることが出来ました。



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