八戸城は、南北朝時代の1334年(建武元年)に
八戸城は、JR本八戸駅のすぐ南側の
江戸時代に入った1627年(寛永4年)に、南部氏の
1664年(寛文4年)、後継の南部重直が跡取りを定めずに
八戸藩主の南部氏は城主格大名とされていたようで、
2010年12月、冬の八戸城を散策してきました。
JR本八戸駅から徒歩約5分。
根城を訪れた後に、八戸城に向かいました。
八戸市公会堂の入り口に立つと、その右手に
この右手奥に三八城神社があります。
三八城(みやぎ)という地名は、"三"戸郡、
三八城神社の境内には弁慶石がありました。
平泉の高館で命を落とした義経ですが、
この石には大きな足形のような窪みが
三八城神社の奥に三八城公園があります。
この公園の入り口に"八戸城本丸跡"の
三八城公園は縦100m、横50m程の公園です。
中央に築山がありました。
公園の西側は台地の端で、その縁に立つと
台地の高さは20mを越えているでしょうか。
その台地の端の切岸はかなり急な斜面になっていました。
公園から西側の道路に架かる歩道橋から
三八城公園に戻り、公園の中央の築山に向かいました。
この築山には八戸城址碑と南部直房の座像がありました。
南部直房は、41歳で亡くなっていますが、
築山から見下ろす三八城公園の様子です。
三八城公園には八戸城本丸の碑が立っていて
どこが本丸かちょっと自信が無くなってきましたが
八戸市公会堂の南には八戸市役所があり、
南部会館の敷地は江戸時代には角御殿と
この八戸城角御殿表門は1978年(昭和53年)に
八戸城にはもう一つ移築門が現存しています。
根城に移築された八戸城の東門です。
八戸城の散策を終え本八戸駅に向かう
この記事を書くに際し、写真を撮った場所を確認しようと
本八戸駅手前にあった?(おかみ)神社です。
1205年(元中年間)に創建された
Hachinohe Castle, Japan
登城日:
2010. 12. 23
【八戸城 概要】
南部師行が根城を築いていますが、その後に
築いた中館がそれにあたると言われています。
台地の上に築かれています。
当主・南部利直は根城城主・八戸氏を遠野に移し、
八戸城を整備し、直轄地に組み入れたそうです。
没した事から、幕府がその弟・重信に盛岡8万石を、
弟・南部直房に八戸2万石を領地と定め、この後に
八戸城の整備が進んだそうです。
厳密には八戸城は"八戸陣屋"だったと思います。
その際の様子を紹介します。
八戸城の立派な碑が立っていました。
撮影: 2010年12月
江戸時代には、御殿が建っていたそうです。
撮影: 2010年12月
"八"戸町、八戸"城"の3つの地名から
一字づつとったものだそうです。
撮影: 2010年12月
北東北には義経が平泉を落ち延び、
北に向かったという伝説が
数多く残っています。
上面にありますが、この窪みが
弁慶の足の跡と伝わっています。
撮影: 2010年12月
碑が立っていました。
撮影: 2010年12月
撮影: 2010年12月
築山の周辺には芝生が広がり、
市民の憩いの公園といった感じです。
撮影: 2010年12月
八戸西部の市街地が広がっていました。
撮影: 2010年12月
この高さが八戸城の西の護りになっていたと思います。
撮影: 2010年12月
台地の下の宅地を造る際に削られているのでしょうか。
撮影: 2010年12月
八戸城址の三八城公園を眺めた様子です。
撮影: 2010年12月
南部直房は八戸藩の初代藩主になった人です。
撮影: 2010年12月
その死に関しては、南部藩による
暗殺も疑われたそうです。
撮影: 2010年12月
訪れた際にも本丸と疑わずに歩いていましたが、
このページの初めに示した縄張り図では、公園は
本丸から離れたところにあると記されています。
現地の石碑の通り、三八城公園が本丸跡と思って
この記事を書きました。
道を隔てた東側の、南部会館の前に
古い門が建っていました。
呼ばれ、江戸時代中期の寛永年間に、
門と玄関が築かれたそうです。
撮影: 2010年12月
風雪の為倒壊し、1980年(昭和55年)に
創建当時の姿に復元されています。
撮影: 2010年12月
東門の有った位置がよく判っていませんが、
角御殿表門と向き合っていたのでしょうか。
途中の街中の様子です。
当時は二の丸だったところと思います。
撮影: 2010年12月
Google Mapのストリートビューで確認したのですが、
通りの両側に建っている商店の多くが
取り壊されていました。
撮影: 2010年12月
法霊大明神がこの?(おかみ)神社の元のようです。
この?神社にも義経北帰行の伝説が残るそうです。