東善寺
2010年12月23日、東京からの新幹線を八戸で下車。
ここからバスに乗って根城に向かいました。
根城に着いたのは午前11時頃でした。
撮影: 2010年12月
根城は史跡公園になっていて、その脇に建つ八戸市の
博物館の前には南部師行公の騎馬像がありました。
南部師行は根城の築城城主でした。
根城を築いた翌年には、北朝との戦いの為多賀城に入り、
その翌年には京に向かい1337年(延元2年)に和泉の
石津の戦いで命を落としています。
南部師行の騎馬像の前に根城の史跡への入り口があります。
撮影: 2010年12月
根城の史跡公園の入り口には江戸時代に築かれた
八戸城の東門が移築されていました。
撮影: 2010年12月
伝承によれば、元々根城にあった門を
八戸城に移したそうで、里帰りした形です。
八戸城の登城記はこちらです。
八戸城東門を抜けると立派な堀を土橋で渡ります。
12月の八戸は、さすがに雪が積もっています。
雪のおかげで、空堀の様子がよくわかります。
撮影: 2010年12月
この堀は、根城の三の丸にあたる東善寺曲輪の
東の端に位置しています。
敵の侵入を防ぐ一番重要な堀だったと思います。
空堀を渡ると薬草園がありました。
撮影: 2010年12月
右手に東善寺曲輪を眺めながら薬草園を抜けると
目の前に広々とした雪原が広がりました。
撮影: 2010年12月
当時は、この平地にも食料となる木が植えられていたようです。
冬の寒々とした光景ですが、温かい季節には、
のんびりと過ごせそうです。
その右手に東善寺跡がありました。
撮影: 2010年12月
林の中に墓石が並んでいました。
この東善寺跡は、馬淵川の河岸段丘の端の
小高い丘の上にあり、北側の馬淵川に向けて
急な勾配となって落ち込み、景色が開けています。
撮影: 2010年12月
段丘を下り、こちらに向かって歩いてみました。
撮影: 2010年12月
東善寺跡に向かっては、段丘の様子がよくわかります。
西側は、低地が続いていますが、この低地の中に
堀跡があったようです。
この堀は、一段高くなっている東善寺跡と
中館の間の平地にも続いていたようです。
この先の高台には中館の四阿が見えてきました。
撮影: 2010年12月
四阿は多門櫓のようにも見えます。
高台の手前は深く切れ込んだ空堀で、
中館の護りを固めています。
撮影: 2010年12月
上の写真の左手にあった通路を通り
一段高い曲輪に登りました。
通路を上ると、八戸城東門からまっすぐ
西に進んだ通路へと出ました。
撮影: 2010年12月
上の写真左手の杜が東善寺跡です。
この西側に中館の曲輪との間の
堀がありました。
撮影: 2010年12月
この堀も深く、立派なものでした。
根城が軍事的に機能していたのは南北朝時代の
ようですが、その時代に中央から遠く離れた
八戸の地で、これ程まで護りを固めなければ
ならなかったというのは、驚きでした。
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中館
東善寺曲輪の西の堀を土橋で渡り、
中館に向かいました。
中館から眺める空堀の様子です。
撮影: 2010年12月
雪原となっている東善寺曲輪の奥の
東善寺跡の杜がはっきりと見えています。
撮影: 2010年12月
中館には四阿が建てられています。
当時あった厩の復元でしょうか。
撮影: 2010年12月
四阿から眺める中館は、東善寺曲輪よりも一段
高いところにあり、綺麗に整備されています。
訪れたのは12月で雪がうっすらと積もり、
寒々とした光景になっていました。
撮影: 2010年12月
中館の郭の中央には、根城の全体と本丸の
復元建造物群の模型が展示されていました。
撮影: 2010年12月
中館の案内板もありましたが、陽に焼けて
色褪せてしまったか、雪が積もっていたか、
残念ながら読むことが出来ませんでした。
中館は周囲を堀で囲まれています。
西の端に近づくと、本丸とその間の深く
切れ込んだ堀が見えてきました。
撮影: 2010年12月
さすがに本丸側の堀は深く大規模なものでした。
こちらは振り返って眺めた中館の様子です。
撮影: 2010年12月
寒々とした光景ですが、当時は建物が
建ち並んでいたと思います。
ちなみに中館は、城の中央にあった館
という意味では無く、南部氏家臣の
中館氏の屋敷から付いたようです。
撮影: 2010年12月
本丸へは木橋が架かっていました。
当時もこのような木橋が架かり、敵が侵入すると、
その橋を陥して本丸に籠ったのでしょうか。
撮影: 2010年12月
本丸の東側の堀の様子です。
深く、幅の広い立派な堀でした。
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本丸
中館から空堀に架かる木橋を渡り
本丸に向かいます。
木橋から坂道を上り、本丸の正門にあたる
東門に向かいました。
撮影: 2010年12月
本丸は1994年(平成6年)に、発掘調査に基づいて
当時の建物の一部が復元されています。
東門を抜け、入場料を支払い本丸に入りました。
東門のすぐ南には納屋が何棟か並んでいました。
撮影: 2010年12月
納屋は、米や味噌などの貯蔵庫だったようで
その内部には米俵が置かれ、当時の
様子を再現されていました。
納屋の右手、東門の正面には主殿が復元されていました。
主殿の広さは544平方メートル(164坪)で、
復元の総工費は5億5千万円との事です。
撮影: 2010年12月
公式行事や重要な客の応接に使用していたようです。
内部も復元されていますが、その写真がないのは
この時は立ち入りが出来なかったのでしょうか。
根城が廃城となったのは江戸時代初期の1627年(寛永4年)。
主殿の造りは宮殿の様な優雅な造りになっていますが
戦国時代に、このような建物が建てられていたとすると
この地は南部氏の支配が安定し、戦国の騒乱は
あまり及んでいなかったのでしょうか。
主殿から裏に建つ馬屋に向かいました。
撮影: 2010年12月
馬屋の柱や板には手斧の跡が鮮明に残っています。
復元にあたってはその当時の道具を持ちいた
そうですので、これらの建物は戦国時代
以前のものを復元したと思われます。
主殿の北側には、さらにいくつかの馬屋があり、
そちらに向かってみました。
撮影: 2010年12月
本丸の北東の隅からは、中館の様子を
眺めることが出来ました。
撮影: 2010年12月
本丸との間の広く深い堀や、河岸段丘の
急な切岸の様子が一望できました。
撮影: 2010年12月
本丸の北東隅には、築城当初からあったという大銀杏と
その脇に「南無妙法蓮華経」の碑がありました。
この碑の文字は、南部氏36代当主・
南部日実氏の直筆という事です。
撮影: 2010年12月
ここから西側に向かって馬屋が並んでいます。
上の写真左手に見えるのが中馬屋の建物です。
そして下の写真が下馬屋跡です。
撮影: 2010年12月
下馬屋跡はその面積が大きく、馬屋だけでなく
武具の倉庫、門番の住居も兼ねていたそうです。
この辺りは本丸の北西の隅に近く、
物見櫓跡もありました。
その近くに「一葉一字」の供養塔と
復元された番所の建物がありました。
撮影: 2010年12月
「一葉一字」の供養塔は、1718年(享保3年)に
八戸藩初代藩主・南部直房の家来・接待宗碩が
藩の繁栄と先祖や根城の戦没者の供養の為に
法華経を書いた板を埋めたところです。
番所の奥に見えているのが西門です。
ここから本丸の西側を南に下ると
本殿の西側に工房が建ち、その前に
常御殿の敷地跡が平面復元されていました。
撮影: 2010年12月
常御殿は、当主の住まいと政務の両方に
使われた建物の様で、根城の中心的な
役割を果たしていたようです。
この先で、本丸の西側を見渡せる
箇所がありました。
撮影: 2010年12月
本丸の西側も、幅の広い堀が築かれていたようです。
その近くには野鍛冶場がありました。
撮影: 2010年12月
発掘調査で焼けた地面や鍛冶関連の
遺跡が出土したそうです。
この辺りは本丸の南端に近いところです。
撮影: 2010年12月
常御殿の平面復元の向こうに
主殿の建物が見えています。
右手に見える建物は鍛冶工房です。
鍛冶工房の東側には板蔵がありました。
二つの建物の向こうに見える平面復元は
奥御殿の建物跡を示しています。
撮影: 2010年12月
奥御殿は当主の家族が住んでいたそうです。
板蔵には奥御殿で使われる道具や衣類の
収納庫だったようで、復元された蔵には
漆塗りの立派な櫃などが置かれていました。
撮影: 2010年12月
奥御殿の平面復元の様子です。
撮影: 2010年12月
こうして東門から反時計回りに
根城本丸を一周してみました。
この後、本丸の南を走る国道104号線に出て
本丸の周囲を巡る空堀の様子を眺めてみました。
撮影: 2010年12月
深く切れ込んだ空堀を眺める事が出来、
根城の散策を満足して終えました。
この史跡広場の南側の住宅地にも
当時の曲輪の一部が残されているようで、
そこを見逃したのは少々心残りでしたが、
多くの建物が復元された本丸は素晴らしかったです。
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