一色城
Ruins of Isshiki Fort, Japan


登城日:
2009. 11. 07







【一色城概要】


豊川市のホームページや現地の案内板によると
一色城は1439年(永享11年)に、
一色刑部少輔時家が築いたとされています。

一色時家は関東公方・足利持氏に仕えた武将で、
1438年(永享10年)に起こった永享の乱で敗れ
関東から三河の地に移ったようです。




一色城を拠点に勢力を伸ばした一色時家ですが、
1477年(文永9年)に家臣の波多野全慶に討たれ、
全慶が一色城の城主になります。

その波多野全慶も1493年(明応2年)に、
牧野成時(古白)との戦いに敗れます。

牧野成時は一色時家に仕えていたようで、
主君の仇を報いた事になります。

1505年(永正2年)に牧野成時は新たに築いた吉田城に
本拠を移し、次男の成勝に一色城を譲ります。

その成勝はすぐ近くの牛久保に新たにお城を築いたため
一色城は1570年(享禄2年)頃に廃城になったようです。

吉田城の登城記はこちらです。
牛久保城の登城記はこちらです。



【一色城へのアクセス】


一色城はJR飯田線牛久保駅の
北東300m程の所に位置しています。
歩いておよそ5分です。

JR飯田線の乗車記はこちらです。





【一色城登城記】



豊川市の牛久保の集落を散策し、
牛久保駅北東にある大聖寺に向かいました。

牛久保の散策記はこちらです。



この路地の先に大聖寺がありました。



この大聖寺が一色城跡と伝わります。


この大聖寺は寂れたお寺の佇まいなのですが、
今川義元のお墓(胴塚)がありました。



桶狭間で戦死した今川義元はその首を刎ねられます。
彼の胴は家臣に背負われ、駿府へと向かいますが
湿度の高い梅雨の時期で、遺体の傷みは早く
この地で葬る事になったようです。

桶狭間古戦場の散策記はこちらです。


その傍らには一色城の築城城主の
一色刑部少輔時家のお墓もありました。



一色時家は関東公方・足利持氏に仕えた武将で、
1438年(永享10年)に起こった永享の乱で敗れ
関東から三河の地に移ったようです。

この大聖寺のある地に一色城を築いたのですが
1477年(文明9年)、豪族・波多野全慶に殺害されたそうです。

現地案内板では、一色時家のものと断言していましたが、
wikipediaで調べてみると、その根拠は薄弱とありました。


色々調べてみると大聖寺の近くには、
一色城のものと伝わる土塁も残っている
ようですが、それは見逃してしまいました。

またの機会にその土塁を見に行ってみようと思います。



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