武節城は、三河山間部にある古城です。
三河山間部は、室町時代の中期以降、三河山間部は設楽の
1571年(元亀二年))、武田信玄が三河侵攻を図ると、
その後、武田信玄が没すると、作手城主の奥平貞能、貞昌(後の信昌)
その後、武節城は奥平氏が治めることとなりますが、1590年
武節城は、本丸と二ノ丸が南北に並ぶ連格式の縄張りになっています。
上の写真は、現地の縄張り図を写したものですが、
2012年5月に、この武節城を訪れました。
豊田市駅からバスで足助に向かい、足助から
武節前のバス停からは徒歩約8分です。
武節城は山深い三河山地のかなり奥にあります。
武節城は比高30m程の城山の上にありました。
武節城に向かう途中の様子です。
道端には、古びたお墓が並んでいました。
山懐を回り込むように、城山の頂を目指すと
二ノ丸の広さはざっと50m x 30m程だったでしょうか。
二ノ丸の先には、一段高い所に本丸がありました。
本丸の南側には櫓跡の高台があり、
本丸からは、武節城の西側の展望が開けていました。
のどかな景色ですが、450年程前には、この山里でも
この後、櫓台に向かいました。
櫓台からは本丸を見下ろす事が出来ました。
櫓台の南側は切り立った崖になっています。
櫓台から、空堀に下りてみました。
空堀は、竪堀となって武節城の麓に延びていました。
武節城は、山深い所にありますが、麓からのアクセスは良く、
Ruins of Busetsu Castle, Japan
登城日:
2012. 5. 20
【武節城 概要】
永正年間
菅沼定信によって築城されました。
田峯城に本拠を置く菅沼定信やその後城主となった菅沼定忠を
中心に、長篠城主の菅沼正貞、作手城主の奥平貞能の
山家三方衆と呼ばれる3氏族が支配していました。
長篠城の登城記はこちらです。
山家三方衆はいずれも武田氏の与力となります。
父子は徳川家康に付き、山家三方衆が分裂します。菅沼氏も
田峯の菅沼定忠は武田側に付いていましたが、長篠・設楽原の戦で
武田氏が敗れると、田峯城の留守を預かっていた菅沼氏の家臣は
武田氏を離れてしまいました。
(天正18年)、徳川家康の江戸移封に伴い、奥平氏も
関東に移った為、武節城は廃城になったと伝わっています。
その周囲には外曲輪がいくつか取り囲んでいたようです。
南北が逆になっていると思います。
その際の様子を紹介します。
どんぐりの湯前行のバスに乗り換え武節前のバス停で下車。
豊田市から武節前まで約1時間50分程です。
愛知県の東北部の一番奥にある、県内一の標高を
有する茶臼山に行った帰り道、旧稲武町の
道の駅に立ち寄った際にその姿を見つけました。
撮影: 2012年5月
本丸まで舗装路が続いていて、道の駅からも
簡単に行くことが出来ます。
撮影: 2012年5月
坂道を上ると、麓の集落の様子を見下ろすようになりました。
撮影: 2012年5月
どんな謂れのお墓かは分かりませんが、
綺麗に整備されていました。
撮影: 2012年5月
二ノ丸の虎口が見えてきました。
撮影: 2012年5月
撮影: 2012年5月
撮影: 2012年5月
その手前に城址碑や石碑が並んでいました。
撮影: 2012年5月
山に囲われた狭い平地に家々が立ち並んでいます。
撮影: 2012年5月
戦が繰り広げられていたという事は、想像も出来ません。
櫓台の上には城山神社が建ち、石段が続いていました。
撮影: 2012年5月
本丸の広さは30m四方程でしょうか。
撮影: 2012年5月
外曲輪との間に、深く切れ込んだ空堀が横たわっていました。
撮影: 2012年5月
空堀の向こうは外曲輪です。
撮影: 2012年5月
撮影: 2012年5月
城址も整備されていて、訪れやすいお城と思います。