武節城
Ruins of Busetsu Castle, Japan

登城日:
2012. 5. 20

【武節城 概要】

武節城は、三河山間部にある古城です。
永正年間
(1504-1521)に、田峯城主の
菅沼定信によって築城されました。

三河山間部は、室町時代の中期以降、三河山間部は設楽の
田峯城に本拠を置く菅沼定信やその後城主となった菅沼定忠を
中心に、長篠城主の菅沼正貞、作手城主の奥平貞能の
山家三方衆と呼ばれる3氏族が支配していました。

田峯城の登城記はこちらです。
長篠城の登城記はこちらです。

1571年(元亀二年))、武田信玄が三河侵攻を図ると、
山家三方衆はいずれも武田氏の与力となります。

その後、武田信玄が没すると、作手城主の奥平貞能、貞昌(後の信昌)
父子は徳川家康に付き、山家三方衆が分裂します。菅沼氏も
田峯の菅沼定忠は武田側に付いていましたが、長篠・設楽原の戦で
武田氏が敗れると、田峯城の留守を預かっていた菅沼氏の家臣は
武田氏を離れてしまいました。

その後、武節城は奥平氏が治めることとなりますが、1590年
(天正18年)、徳川家康の江戸移封に伴い、奥平氏も
関東に移った為、武節城は廃城になったと伝わっています。

武節城は、本丸と二ノ丸が南北に並ぶ連格式の縄張りになっています。
その周囲には外曲輪がいくつか取り囲んでいたようです。


上の写真は、現地の縄張り図を写したものですが、
南北が逆になっていると思います。

2012年5月に、この武節城を訪れました。
その際の様子を紹介します。

【武節城へのアクセス】

豊田市駅からバスで足助に向かい、足助から
どんぐりの湯前行のバスに乗り換え武節前のバス停で下車。
豊田市から武節前まで約1時間50分程です。

武節前のバス停からは徒歩約8分です。

【武節城登城記】

武節城は山深い三河山地のかなり奥にあります。
愛知県の東北部の一番奥にある、県内一の標高を
有する茶臼山に行った帰り道、旧稲武町の
道の駅に立ち寄った際にその姿を見つけました。

茶臼山の散策記はこちらです。


撮影: 2012年5月

武節城は比高30m程の城山の上にありました。
本丸まで舗装路が続いていて、道の駅からも
簡単に行くことが出来ます。


撮影: 2012年5月

武節城に向かう途中の様子です。
坂道を上ると、麓の集落の様子を見下ろすようになりました。


撮影: 2012年5月

道端には、古びたお墓が並んでいました。
どんな謂れのお墓かは分かりませんが、
綺麗に整備されていました。


撮影: 2012年5月

山懐を回り込むように、城山の頂を目指すと
二ノ丸の虎口が見えてきました。


撮影: 2012年5月

二ノ丸の広さはざっと50m x 30m程だったでしょうか。


撮影: 2012年5月

二ノ丸の先には、一段高い所に本丸がありました。


撮影: 2012年5月

本丸の南側には櫓跡の高台があり、
その手前に城址碑や石碑が並んでいました。


撮影: 2012年5月

本丸からは、武節城の西側の展望が開けていました。
山に囲われた狭い平地に家々が立ち並んでいます。


撮影: 2012年5月

のどかな景色ですが、450年程前には、この山里でも
戦が繰り広げられていたという事は、想像も出来ません。

この後、櫓台に向かいました。
櫓台の上には城山神社が建ち、石段が続いていました。


撮影: 2012年5月

櫓台からは本丸を見下ろす事が出来ました。
本丸の広さは30m四方程でしょうか。


撮影: 2012年5月

櫓台の南側は切り立った崖になっています。
外曲輪との間に、深く切れ込んだ空堀が横たわっていました。


撮影: 2012年5月

櫓台から、空堀に下りてみました。
空堀の向こうは外曲輪です。


撮影: 2012年5月

空堀は、竪堀となって武節城の麓に延びていました。


撮影: 2012年5月

武節城は、山深い所にありますが、麓からのアクセスは良く、
城址も整備されていて、訪れやすいお城と思います。

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