田峯城に初めて訪れたのは2002年秋の頃です。
その後、2009年6月27日に再訪してみました。
その時の様子を紹介します。
寒狭川の流れる谷間から
急勾配の坂道を車で登ると小さな集落が現れ、
田峯神社と向かい合った山に田峯城がありました。
標高387mの独立峰の
全体が城跡になっていますが、
比高としては30m程でしょうか。
田峯城の麓には地形を利用した
空堀が掘られていて、城跡に入るには
木橋を渡って行きます。
木橋から眺めた空堀の様子です。
空堀の幅は思ったよりも広く、
10m程はあったでしょうか。
木橋を渡った小さな空き地が大手門跡です。
空き地の広さからすると、
冠木門程度の門があったのでしょうか。
大手門跡を抜けると、本丸へと続く
小さな道が続いています。
その道の左手に茶畑が見えています。
表曲輪と呼ばれる郭です。
この茶畑の奥に、裏曲輪があるようですが、
そこまでは立ち入らずに、先に進みました。
この右手には山肌の下に
無名曲輪がありました。
無名曲輪という呼び名は珍しいのですが
史実や言い伝えに、この曲輪が出てこない為に
こう名づけられたそうです。
山の麓にある帯曲輪だったようです。
表曲輪から小道に従ってあるいて行くと
一段高いところにある井戸曲輪に出ました。
曲輪ごとに、標識が立てられていて
お城めぐりには助かります。
井戸曲輪には井戸は発見されておらず
天水を貯めていたと推定されているようです。
夏草の生い茂る時期ですが、
丁度草刈をした後に訪れたようで
曲輪の中も散策することが出来ました。
その井戸やぐらの奥にある蔵屋敷跡です。
当時、ここには蔵が建ち、
食料や武器が蓄えられていたようです。
そして、この蔵屋敷跡の南には
本丸への急斜面が迫り、本丸に建つ
模擬御殿が見えていました。
斜面に植えられた紫陽花が
綺麗に咲いています。
紫陽花の花の間を縫って階段の道を登り
本丸へと向かう途中、道寿曲輪が見えてきました。
五代目城主・菅原定忠と共に
長篠の戦いに出陣した家老・
城所道寿の屋敷跡と言われています。
階段の道をさらに登っていくと
畷曲輪を上から見下ろすようになりました。
畷曲輪は狭い曲輪で、この畷曲輪の
一段高い所には御台様屋敷がありました。
こうして幾つもの曲輪をすぎ、
急斜面を登ると本丸に至ります。
大手門跡からの小道を歩いて来たのに
本丸の入り口にあった門は搦手門でした。
この搦手門の左後ろには厩が、
そして、正面には御殿が建っていました。
1994年(平成6年)に建てられたそうですが、
これらの建物は残念ながら復元ではなく
模擬建築です。
係りの人に聞いたところでは、
名古屋にある大学の教授が
自分の想像で建ててしまったそうです。
平成に入ってから、各地で城郭建築が当時のままに復元され
この近くでも足助城で、そうした復元が行われているのに
こうした模擬建築に大金を掛けて建ててしまったのは、
本当に悔やまれます。
模擬御殿の上段の間から
下段の間を眺めた様子です。
現存や復元建築なら上段の間に座ることは
出来ないのですが、模擬の御殿故、
普段、座ることの出来ない場所からの
眺めを体験出来て良かったです。
御殿の前に建っていた
城碑と本丸大手門です。
本丸大手門には小さいながら枡形もありますが、
これも史実に基づいたものかはわかりません。
大手門の奥に建っていた物見台です。
当時もどこかにこうした櫓を立てて
見張りを行っていたことでしょう。
物見台からは、眼下を流れる寒狭川の
流れを見ることが出来ました。
長篠・設楽原の合戦で、
致命的な大敗を喫した武田勝頼は
この寒狭川沿いの谷を落ち延び
信濃を経由して甲斐に戻ったそうです。
2002年の秋に訪れた際に眺めた
田峯城からの三河山間部の山々です。
写真中央の台形状の山が鞍掛山です。
この山の麓に四谷千枚田の
美しい棚田が広がっています。
物見台の裏の木柵に沿って
石仏が並んでいました。
三河の山奥に勢力を持った菅沼氏は
周辺に台頭してきた大名への帰属を巡って
兄弟・親戚で骨肉の争いを続けてきた一族です。
この石仏もそうした争いに巻き込まれ
命を落とした人の供養に作られたものでしょうか。
秋に田峯城を訪れた時の様子です。
青空に本丸御殿が映え、本丸を幾段にも
取り巻く曲輪も、手に取るように見えています。
田峯城の本丸から眺めた
田峯の里の様子です。
向かいの山の中腹には、
名水で知られる田峰観音があります。
戦乱の世には骨肉の争いがあったとは
信じられない程、のどかな山郷でした。
田峯城の近くには菅原定忠によって
生きながらに鋸引きにされた
今泉道善、処刑の場もありました。