上和田城
Kamiwada Castle, Japan


登城日:
2010. 8. 13







【上和田城概要】


上和田城は、松平氏を古くから支えた
大久保氏一族の居館があったお城です。

大久保氏は、松平氏が安祥に本拠を置いていた
頃からの古参の家臣で、安祥譜代7家の一つです。
元々は、南北時代の頃、関東の豪族・武茂氏の
武茂泰藤が三河に移ったのが始まりと云われています。

泰藤ははじめ宇津氏を名乗り、8代目の大久保忠茂か、
その子・忠俊の代に大久保氏を名乗ったようです。


大久保氏は、今の岡崎市南部の
上和田にその居を構えていました。





上和田城址から南に500m程南には妙国寺があり
ここに宇都宮(武茂)泰藤のお墓があります。





【上和田城へのアクセス】


JR岡崎駅西口から1km程北西に行ったところにあります。
西口から西に向かい、占部川に沿って北に向かいます。
突き当たった県道・岡崎 - 刈谷線で左に折れて
少し歩くと、上和田城址の公民館があります。

徒歩約10分です。




【上和田城登城記】



JR岡崎駅西口から300m程行った稲荷神社を過ぎ、
北西に向かった辺りに上和田城址があります。



居城の跡には公民館が建ち、一段高い敷地には
大久保氏一族発跡地,の石碑が立っていました。

宮城谷昌光氏の『古城の風景』では、
上和田城は大久保忠俊の居城としています。

ちなみに、上和田城に来る途中の稲荷神社は
大久保忠俊の弟の大久保忠員と甥の
大久保忠世の居城だった古城です。

羽根古城の登城記はこちらです。


岡崎市の観光文化100選の案内板もありました。



この案内板にも大久保一族発祥の地と書かれています。
更に、大久保忠教以降,代々の居城でしたとあり、
大久保彦左衛門もここで生まれたとあります。

大久保忠教が大久保彦左衛門であり、忠教以前にも
大久保氏は上和田に居を構えていたのは確実の様なので、
この記載はどこか錯誤があるように思います。


大久保氏一族発跡地,の石碑の前は、
岡崎と刈谷を結ぶ主要道が走り、
頻繁に車が行き交っていました。



近くからは羽根古城跡に建つ
稲荷神社の杜も見えていました。



ここから南に向かうと、住宅の一角に
上和田城の堀跡の碑があります。



どこにでもある様な住宅地の景色ですが
この道が、当時の堀跡とは気が付きません。

住宅地でカメラ片手にウロチョロしているのは
妖しげな人に思われがちなのですが、
「不審者出没!」の看板が追い打ちを掛けます。

慌てて撮った上和田城の堀跡の碑です。



この碑の場所は、下の地図の印のところです。





上和田城堀跡から100m程南に下った
ところに比蘇天神社がありました。



平安時代の852年(仁寿2年)に創建された
古い神社で塩田の神を祀ったそうです。

この辺り一帯は、低地となっていて、以前は
"ヒソ"といい、塩田が広がっていたそうです。


比蘇天神社から更に500m近く南西に
行ったところには妙国寺があります。

ここに大久保一族の祖となった
宇都宮泰藤のお墓があります。

妙国寺の様子はこちらです。


当時は、上和田城跡と妙国寺、そして
稲荷神社を結ぶ辺り一面に、大久保一族の
居館が建ち並んでいたのではないかとも思います。


宮城谷昌光氏の『新三河物語』を読むと、
大久保一族は、当時まだ地方の一豪族に
過ぎなかった松平氏を、文字通り身を粉にして支え、
周囲の敵と戦っていた様がわかります。

1590年(天正18年)に家康が関東に
移封となると大久保氏も上和田の地を離れ、
上和田城も廃城になったものと思います。


関東移封の際に、大久保忠世が小田原城主となり
その後、大久保忠隣が初代・小田原藩主となるなど
大久保一族は、徳川幕府の中でも重要な地位を占めます。



小田原城の登城記はこちらです。


しかし、大久保長安事件に連座する形で罪を得、
再び辛苦を舐める年月が続きました。

大久保氏が小田原藩主の座に
戻るには70年の年月が掛かりました。


大久保一族のお墓は、岡崎市東部にある
竜泉寺町の長福寺にあります。

長福寺の様子はこちらです。




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