二之丸
地下鉄名城線を市役所前で下車し、
名古屋城に向かいます。
地下鉄の出口の目の前が、名古屋城址です。
二之丸を囲む大きな空堀がまず目に入ってきます。
撮影: 2006年5月
幅は20mはあるでしょうか。
とても大きな空堀が一直線に続いています。
この空堀からも名古屋城の規模の大きさが判ります。
立派な石垣が残る東鉄門(二之丸東門)から
城址に入りました。
撮影: 2006年5月
当時はこの内側に東一之門があり、
この門は二つの門で構成され、
敵の進入を防いでいます。
こうした門は防御性が高く、
枡形門と呼ばれています。
名古屋城の門はすべてこの様式だったそうです。
土橋を渡り、東鉄門に向かいました。
枡形の大きな石垣が迫ってきます。
撮影: 2010年10月
この写真の石垣は、二之丸東ニ之門跡のものです。
この東二之門は現在本丸に移築され現存しています。
土橋の両側の内堀の様子です。
内堀は、二之丸、本丸、西の丸そして
御深井丸の周囲を巡っています。
撮影: 2010年10月
幅の広い堀で、名古屋城の防御の堅さが判ります。
当時、東鉄門の南側は水堀、北側は空堀だったようです。
二之丸東一之門跡の石垣です。
当時はこの石垣を跨ぐように櫓門が載っていました。
撮影: 2010年10月
この東鉄門を抜けた左手には
愛知県体育館がありました。
撮影: 2010年10月
当時ここには向屋敷がありました。
当時、二之丸には尾張藩の政庁であった
二之丸御殿がほぼ二之丸の全体に
亘って建っていました。
その跡地は、広々とした芝生になっていました。
撮影: 2006年5月
二之丸御殿の北側には二之丸庭園がありました。
戦前、軍隊が駐留していて時には二之丸庭園を潰して
兵舎にしていたそうで、その跡を発掘調査したそうです。
この写真は二之丸庭園に咲く躑躅です。
撮影: 2006年5月
一部は当時のまま残っているようで、
名勝に指定されています。
二之丸庭園の茶亭の前に、
那古野城址の碑がありました。
撮影: 2006年5月
信長が誕生したと言われる那古野城ですが
近年では勝幡城での生誕説が有力なようです。
二之丸庭園の北側は、幅の広い堀が続き、
一段低いところに公園が広がっていました。
撮影: 2006年5月
堀へと続く、高石垣が見事です。
現在、名城公園になっているところは当時は
湿地が広がり、この湿地が、名古屋城の
背部の天然の要害になっていました。
この二之丸北側の石垣の上には
南蛮たたき鉄砲狭間の遺構がありました。
撮影: 2010年10月
多分、この写真の下側、柵の向こう側に
写っているのが練塀の遺構と思います。
この左手は、狭い空堀を隔てて
本丸の東馬出が見えています。
撮影: 2010年10月
馬出は規模が大きく、一つの曲輪ほどの大きさがあります。
やや南に下ったところには埋門跡がありました。
万が一の際には、藩主はここから名古屋城を脱出し、
木曽へ落ち延びる手筈になっていたそうです。
この南では二之丸の曲輪が西に広がり、
その向こうに本丸東南櫓が遠くに見えてきました。
撮影: 2010年10月
本丸へと向かう際には、東南隅櫓を
すぐ近くで仰ぎ見て進みます。
撮影: 2006年5月
この南側には熊本城を築城した
加藤清正の像がありました。
撮影: 2006年5月
1610年(慶長15年)の名古屋城築城の際に
清正も協力しています。
秀吉子飼いの武将だった清正は、どんな思いで
豊臣家に対する備えとなる名古屋城の
築城に携わったのでしょうか。
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本丸
本丸馬出から表門を抜けて
二之丸から西に向かうと本丸へとつながります。
右手に東南隅櫓がすぐ近くに聳えています。
撮影: 2006年5月
この南側には狭い堀がありました。
この堀は二之丸と、本丸の南西に位置する
西之丸とを囲む堀へとつながっています。
撮影: 2010年10月
今は一部が埋め立てられてしまっていますが、
当時は、本丸の南にも馬出があり、左の低い
石垣が二之丸、高い石垣が本丸の馬出です。
本丸に向かうには、馬出の付け根の狭い通路を通る
必要があり、その通路のすぐ横に本丸東南隅櫓が
あるので、敵は容易には近づけなかったでしょう。
本丸へは表二之門から本丸に入りました。
撮影: 2006年5月
内堀に掛かる土橋を渡っていきます。
内堀は空堀となっていて、今は内堀の
底では鹿が飼育されています。
撮影: 2010年10月
表二之門です。
この表二之門も第二次大戦の
戦災を逃れた現存の門です。
2010年10月に訪れた際は、本丸御殿の工事の関係か
門に覆いがされていましたが、表二之門の表面は
全面に亘って鉄で覆われているそうです。
撮影: 2010年10月
表二之門を抜けると石垣の間を通ります。
名古屋城の城門はすべて護りの堅い
枡形門形式になっていました。
当時は上の写真の石垣と石垣の間に櫓門が
渡されており、この門を突破するのは
極めて難しい事だったと思います。
本丸御殿
二之丸から西に向かうと右手に東南隅櫓を
眺めると左手には狭い堀がありました。
この桝形門を抜けると、以前は大天守と
小天守が目の前に現れていました。
手前には礎石がいくつか残っていますが、
これは本丸御殿の址です。
撮影: 2006年5月
江戸時代初期に建てられた天守と本丸御殿は
明治以降も現存し、日本の国宝第一号にも
指定されていましたが、第二次大戦の
空襲で惜しくも焼失してしまいました。
その後、大天守は1959年(昭和34年)に
鉄筋コンクリート製で外観復元され、
その時に屋根の上の金鯱も復元されました。
壮大な天守を見ていると、当時の天守が
戦災に遭った事が本当に悔やまれます。
ありし日の名古屋城天守と本丸御殿です。
手前には表門の櫓門も写っています。
記憶が間違っていなければ、尾張藩主だった
徳川慶勝公が撮った写真だと思います。
その名古屋城本丸御殿ですが、2006年から
復元を目指し工事が進んでいます。
2017年度には工事が完了する予定で、
2018年に公開が予定されています。
2010年10月に、名古屋城開府400年の
記念として本丸御殿の玄関の工事の
様子が公開されたので訪れてみました。
撮影: 2010年10月
玄関の車寄せのところです。
ここはまさに工事現場の入り口といった感じでした。
中に入ると、工事はまだ緒に就いたところ、
といった感じでしたが、襖絵が展示されていました。
撮影: 2010年10月
竹林豹虎図です。
名古屋城本丸御殿の襖絵は、狩野貞信や
狩野探幽らによって描かれた貴重なものです。
第二次大戦中にはその戦火を逃れるために
疎開していて、約1300面のうち1047面が
焼失を免れ、重要文化財に指定されています。
玄関は「虎の間」と呼ばれ、部屋一面に
虎の絵の襖がはめ込まれていたようです。
金箔が怪しく輝き、惹き込まれそうな感じでした。
名古屋城本丸御殿は、玄関に続き、
対面所のある表書院、上洛殿といくつもの
建物が雁行の様に配置されていました。
この図は北から南を見たものです。
左上が玄関、その右手に表書院があり
最も重要な対面所は中央下に位置しています。
2010年の段階では、まだ棟上げされたばかりという
状態で、柱と屋根の形が出来つつあるだけでした。
撮影: 2010年10月
しかし、この姿も貴重な記録と思い、掲載します。
撮影: 2010年10月
本丸御殿の屋根の骨組みです。
ここに柿葺きの屋根の屋根が葺かれるのでしょうか。
こうした伝統的な工法が受け継がれていく事は
素晴らしい事と思います。
ちなみに名古屋城本丸御殿は、1615年(慶長20年)に
落成した後は尾張藩初代藩主の徳川義直公の住居と
尾張藩の政庁の役割がありましたが、1634年(寛永11年)
に三代将軍・徳川家光公が名古屋城に宿泊に際し
上洛殿が設けられ、以降本丸御殿は将軍お成りの際に
用いられることとなり、実態としては江戸時代を通じて
殆ど使われることがなかったようです。
今は工事用の上屋根も撤去され、その姿が現れています。
早く、再訪してみたいものです。
天守
本丸御殿を抜けると、天守と小天守の
連結式天守が建っています。
天守が竣工したのは1612年(慶長17年)。
大坂の陣が起きる4年前で、徳川と豊臣との間で
緊張した時代だった事と思います。
撮影: 2010年10月
名古屋城天守の高さは天守台を含め55.6mです。
高さでは江戸城天守の57.5mや、徳川大坂城の58.3mには
及びませんが、総床面積は4424.5平米と日本最大の天守でした。
層塔型の堂々とした天守です。
小さい頃から迫力ある名古屋城天守こそお城という認識があり、
地元の岡崎城などはあまりに規模が小さいと思っていましたが、
その名古屋城が、実は日本でも特別なものだったという事は
お城巡りを始めてから、やっと認識しました。
名古屋城天守へは小天守から入ります。
小天守を抜け、天守と小天守の間の廊下の様子です。
撮影: 2010年10月
屋根はなく、天守に攻め込もうとした敵は、
両側の土塀で逃げることも出来ずに、
ここで狙い撃ちされてしまう事になります。
しかもこの塀には、槍の穂先を並べて
忍び返しとしたそうで、剣塀と呼ばれています。
この渡り廊下を抜けると、天守の入り口がありました。
大きな天守に似つかわしい小さな入り口でした。
撮影: 2010年10月
一面を鉄板で覆われた名古屋城の入り口です。
ここまでも十分に堅牢な名古屋城の構造ですが、
中に入るとさらに驚く仕掛けがあります。
それは天守を支える石垣の構造にあります。
撮影: 2010年10月
名古屋城の天守の石垣は、その内部で
桝形の構造になっているのです。
日本に天守を持つお城は数多くありますが
ここまでの守りを固めたお城は他にあるでしょうか。
そして、ここに名古屋城天守に載っている
金鯱のレプリカがありました。
撮影: 2010年10月
大きな天守に載っている金鯱はその大きさを
実感できませんが、実際に間近で見ると
人の背丈以上もあり、その大きさに驚きます。
2005年の「愛・地球博」では本物の
金鯱を間近で見たような気もしますが
その記憶も薄れてしまっています。
現在の名古屋城天守は、1945年(昭和20年)の
第二次大戦で焼失した後、1959年(昭和34年)に
鉄筋コンクリートで外観復元されています。
外観復元された名古屋城天守は、7階建になっています。
他の復元天守と同様に中は博物館になっていて、
名古屋城に関しての展示がされています。
撮影: 2010年10月
1階にある名古屋城のジオラマです。
南の三の丸側から撮った写真ですが、
天守は奥に小さく見えるだけです。
そして、3階には本丸御殿の模型もありました。
右の写真は対面所です。
撮影: 2010年10月
この建物が早く復元される事を心待ちにしています。
そして、最上階の7階は展望台です。
名古屋城には高欄が無かったので、建物の中
からですが、名古屋の街を見渡すことが出来ます。
こちらは名古屋城の北の方角です。
撮影: 2010年10月
当時、低湿地が広がり、名古屋の北を
護っていた土地もすっかり家が建ち込めています。
名城公園がわずかにその名残になっています。
こちらは、東側の様子です。
撮影: 2010年10月
二之丸を見下ろすことが出来ます。
右の写真は工事中の本丸御殿です。
そしてこちらは南西の方角になります。
撮影: 2010年10月
名古屋駅周辺の高層ビル群が
見えていました。
最後にこちらは西北の眺めです。
撮影: 2010年10月
御深井丸の建物は、本丸御殿復元工事の
木材加工場になっています。
この方角には、遠く清州があります。
尾張の首府で、清州会議の舞台にもなりましたが、
1609年(慶長14年)に名古屋城が建てられると、
「清州越し」と呼ばれる名古屋への町ごとの
引っ越しが行われています。
清州城の登城記はこちらです。
1959年(昭和34年)に外観復元された名古屋城天守ですが、
築後50年以上が経ち劣化が進み、また現在の耐震基準に
適合していないとの事で、再建の話が持ち上がっています。
木造で当時の工法で復元するという計画もあり、
是非、それが実現することを願っています。
本丸東門と不明門
名古屋城本丸には表門の他に、
東門と天守北に不明門があります。
東門は、本丸から二之丸の方向に突き出た
搦手馬出への出入り口の門です。
東門は桝形形式の門で、堅牢な造りだったと思います。
残念な事に、この東門は第二次大戦の際に、
天守や本丸御殿とともに焼失してしまっています。
このうち、高麗形式の二之門には二之丸東門に
残っていた東鉄二之門が移築されています。
撮影: 2010年10月
この東門枡形の石垣には大きな石が使われています。
清正石と呼ばれています。
名古屋城の築城にも関わった知名度の高い
清正の名前が付いていますが、築城当時
ここの担当は黒田長政だったようです。
撮影: 2010年10月
東鉄二之門を見学した後、
不明門から御深井丸に出ました。
撮影: 2010年10月
不明門の前の木は御殿椿というそうです。
本丸御殿の南庭にあり、第二次大戦の
空襲で焼けてしまったそうですが、焼けた
幹から新芽が伸びて復活したそうです。
不明門も第二次大戦の空襲で焼けてしまい、
1973年(昭和53年)に復元されています。
撮影: 2010年10月
復元された不明門です。
多門櫓の下に設けられた埋門だったようです。
不明門を抜け、御深井丸へとつながる土橋から
本丸北側の内堀を眺めた様子です。
撮影: 2010年10月
当時、この辺りの様子を眺める事は
至難の業だった事と思います。
不明門と御深井丸へと続く土橋の様子です。
撮影: 2006年5月
このすぐ右手に大天守が聳えています。
不明門は大奥への出入り口だったそうで、
当時は厳重に鍵が掛けられていたそうです。
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三之丸
名古屋城本丸と二之丸の南側には
三之丸が配置されています。
三之丸は、東西2km、南北1km程もの大きさがあり、
周囲には外堀が囲み、東門、本町門など、
5つの桝形門がありました。
大筒が発達した時代、この広大な三之丸が、
大筒の射程距離から本丸を護っていたようです。
名古屋城本丸の正門を抜けると、三之丸です。
撮影: 2010年10月
名古屋城は明治以降は旧日本陸軍の駐留地となり、
三之丸は、二之丸と共に兵舎が建てられました。
その後、宮内庁の所管となり、天守などは
廃棄されることなく、第二次世界大戦まで
残る事になったようです。
三之丸の中を広い出来町通りが左右に貫いています。
この出来町通りを東に向かうと、三之丸と二之丸との
間の内堀沿いを行く様になりました。
撮影: 2020年11月
二之丸の立派な石垣が見えていました。
この先で出来町通りは、南北に走る大津通と交差します。
その交差点から南を眺めると、古い立派な建物が
二棟建っているのが見えました。
撮影: 2020年11月
この二棟の建物は名古屋市役所と愛知県庁です。
手前の、塔がある建物が名古屋市役所、
その奥の天守閣風の建物が愛知県庁です。
名古屋市役所は、昭和天皇の御大典事業として
1933年(昭和8年)に建てられた建物です。
撮影: 2020年11月
小さくてわかり難いですが、時計塔の頂部には
鯱も載っていて、名古屋城天守との
調和を図っているそうです。
そしてこちらが愛知県庁です。
撮影: 2020年11月
愛知県庁は1938年(昭和13年)に竣工しています。
愛知県庁は、昭和初期の「日本趣味表現」の表現を
達成した建物としての歴史的価値を認められ、
2014年に国の重要文化財に指定されています。
名古屋城三之丸は、愛知県庁や名古屋市役所以外にも
裁判所や愛知県警などの官公庁の建物が多く
整然とした雰囲気です。
撮影: 2020年11月
本丸正門に戻って、今度は三之丸を
南に進むと、護国神社がありました。
撮影: 2010年10月
その南側には、土塁があり、
一部は石垣で囲われていました。
撮影: 2010年10月
この石垣は三之丸の南にあった本町門の石垣と思います。
名古屋城は、熱田神宮から続く細長い台地の北端に、
位置していますが、その台地に沿って熱田神宮から
本町通が続いています。
熱田神宮の散策記はこちらです。
その先にある本町門は、いわば名古屋城の
正門にあたる立派な門だったように思います。
撮影: 2010年10月
本町門のすぐ南側を東西に外濠が通っています。
2011年には外濠に沿って散策しています。
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御深井丸
本丸北側の不明門を抜けたところが
本丸の西北に位置する御深井丸です。
撮影: 2010年10月
御深井丸から眺める天守と内堀の様子です。
仰ぎ見る天守は大きく、圧倒されてしまいます。
御深井丸には天守の礎石が展示されています。
撮影: 2010年10月
戦後に今の天守が外観復元で建てられた際に
礎石は使われずにここに保存されているのです。
この礎石が再び活躍する日が来るのが
待ち遠しく思います。
天守礎石の隣には、出雲地方にあったという
古墳の石棺式石室も展示されていました。
撮影: 2010年10月
この石室を寄贈された方がいるようですが、
どういう経緯で古墳時代の出雲の石室が
名古屋にあるのか、少々謎ではあります。
ここから御深井丸の奥へと入っていきました。
多くの人で賑わう本丸とは異なり、
ひっそりしています。
撮影: 2010年10月
この先に古い白壁の倉庫がありました。
旧陸軍の弾薬庫で、乃木倉庫と呼ばれています。
撮影: 2010年10月
この建物が建てられたのは明治初期と言われ、
その頃に乃木将軍は名古屋鎮台に
在任していたそうです。
東京・六本木の乃木神社の散策記はこちらです。
2010年10月に訪れた際には
内部が公開されていました。
撮影: 2010年10月
何かの古木が置かれ、まさに倉庫といった感じでした。
この御深井丸の西北に三重の
西北隅櫓が残っています。
広い堀に面して建つ櫓ですが、御深井丸の内側に
向かっては窓がなくのっぺりとした印象でした。
撮影: 2010年10月
この西北隅櫓は、高さは約16.3mあり、
平面の大きさは8間 x 7間で、現存天守の
宇和島城をしのぎ、高知城とほぼ同じ大きさです。
名古屋城の前身の清州城天守を移築したとも
伝わり、清州(あるいは清須)櫓とも呼ばれています。
清洲城の登城記はこちらです。
2010年10月に訪れた際には、
この西北隅櫓が公開されていました。
櫓に入る手前で外堀を眺める事が出来ました。
この日は、外堀を船でクルーズする催しも開かれていて
その船が丁度通りかかっていました。
撮影: 2010年10月
こうしてみると、敵が船に乗って名古屋城に近づいてきても
城方からは一望出来て、簡単に撃退されてしまいそうです。
西北隅櫓の内部は質素な造りでした。
一階には胴木と呼ばれる古い木材が展示されていました。
撮影: 2010年10月
胴木は建物の下に入れたもののようです。
この胴木は、二之丸東二之門と二之丸東面の
石垣の下から出土したもので、1610年(慶長15年)に
石垣が普請されたときに据え付けられたようです。
武者走りとお堀側の窓と石落としの様子です。
撮影: 2010年10月
名古屋城が築城されたのは、関ケ原の戦いの後ですが、
大坂城にはまだ豊臣秀頼が健在だった時で、
当時の緊張感も伝わってきます。
こちらは2階の様子です。
撮影: 2010年10月
窓が少なく、櫓の中は薄暗くなっていました。
そして、3階からの眺めです。
御深井丸の西側の様子です。
撮影: 2010年10月
当時、外堀の対岸は低湿地だったはずで、
敵は容易には近づけなかったと思います。
こちらは東側の様子です。
撮影: 2010年10月
ちょっと木々に隠れていますが、
名古屋城の天守が綺麗に見えていました。
2006年5月に御深井丸を散策した際には、この後で、
西北隅櫓を堀の向こう側から眺めることにしました。
西之丸正門を抜け、広いお堀に沿って10分程歩くと、
西北隅櫓が見えてきました。
撮影: 2006年5月
西北隅櫓も堂々とした姿でした。
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西之丸
西之丸は本丸の南、そして御深井丸の南側にあります。
天守を仰ぎ見るように本丸の西側を南に向かいました。
撮影: 2010年10月
天守と小天守が連結されている様子がよく判ります。
この西側には西之丸と御深井丸の間の堀があります。
撮影: 2010年10月
外堀とつながり、細く伸びた堀は
鵜ノ首という名前がついています。
ここから南が西之丸になります。
西之丸から望む名古屋城大天守です。
撮影: 2006年5月
金鯱が日を浴びて輝き、大天守の大きさとともに
やはり他のどのお城よりも立派なお城です。
内堀に沿ってさら南に進むと
本丸の角に櫓が見えて来ました。
その奥には大天守が聳えていました。
撮影: 2006年5月
当時、名古屋城には10の二重櫓と一つの
三重櫓が建てられていたのですが、このうち、
二つの二重櫓と、三重櫓が現存しています。
西南隅櫓は現存する二重櫓の一つです。
三重櫓が御深井丸の北西隅櫓です。
当時の本丸は四隅に天守や櫓が建てられ、
その間の石垣の上を多聞櫓と呼ばれる櫓が
塀のように建てられていたそうです。
その姿は失われてしまいましたが、本丸南側の
東南隅櫓から表二之門、そして西南隅櫓と続く
様子は、当時の名古屋城の雰囲気が伝わってきます。
ここから西に向かうと名古屋城の正門に
あたる西之丸正門があります。
撮影: 2006年5月
江戸城の蓮池御門を移築したそうですが、
これも戦災で焼失したものを再建したものです。
西之丸には展示館もあるのですが、いつも天守に
目が釘付けになってしまい、西之丸は十分に散策
出来ていないので次の機会に巡ってみようと思います。
お堀巡り
2010年は名古屋開府400周年でした。
その記念に、10月に名古屋城外堀のお堀巡りが行われました。
その時のパンフレットは こちら です:
http://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/02_events/22/221008_a/pdf/20101008ohorimeguri.pdf
名古屋城が一般開放されてから初めての催しで、
人気も高く、毎日の乗船券発売とともに
売り切れてしまう程の人気でした。
撮影: 2010年10月
この日は開門とともに乗船券を購入し、
船の時間まで城内を散策していたのでした。
このお堀巡りについては、文化庁からクレームもあったようですが、
四代藩主・徳川吉通が船で名古屋城に入った例があると
説明し、このイベントが開催出来たそうです。
二之丸と本丸東馬出との間の堀へと、
スロープを下っていきました。
撮影: 2010年10月
ここも普段は立ち入りが出来ない場所なので
貴重な体験です。
撮影: 2010年10月
二之丸埋門もしっかり見ることが出来ました。
埋門の下で左に曲がり御波渡場へと向かます。
撮影: 2010年10月
振り返って眺めた堀の様子です。
この先に御波渡場があり、ここから
お堀巡りの船に乗りました。
撮影: 2010年10月
江戸時代も、ここと外堀の反対側の南北に
御波渡場があり、藩主がいつでも出入り
出来るようにしていたそうです。
船頭さんの話では、確か、今回の船は津島の津島神社の
天王祭りで使われている船を借り受けという事でした。
船に乗り込むと早速外堀へと漕ぎ出しました。
撮影: 2010年10月
幅の広い外堀が実感できます。
本丸東馬出の石垣も船からは見上げるように迫っていました。
こちらは乗船した南御波渡場の様子です。
撮影: 2010年10月
石垣と石垣の間の隠れた船着き場で、藩主が人目に
付かずに船に乗るには絶好の場所だったと思います。
船は外堀を西に進み、本丸東馬出から本丸北側に
位置する塩蔵構の石垣に沿って進みました。
撮影: 2010年10月
この塩蔵構の石垣に、出入り口のような
箇所がありました。
石垣の水抜きの穴だったのかもですが、
人も潜れるような大きさなので、緊急時の
脱出用抜け穴の出口だったのかもしれません。
やがて名古屋城天守が見えて来ました。
外堀からの、このアングルの天守は2度と見られない姿です。
撮影: 2010年10月
その右手には御深井丸の西北隅櫓が見えてきました。
お堀巡りの船はその西北隅櫓へと向かっていきました。
撮影: 2010年10月
江戸時代であれば、守備兵から
簡単に攻撃されてしまう筈です。
このアングルでの西北隅櫓もこうした機会が
無ければ決して見られなかったものです。
撮影: 2010年10月
30分の船巡りでしたが、滅多には見られない
名古屋城の姿を見るうちにあっという間に
時が経ち、貴重な体験になりまいした。
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外濠
名古屋城本丸と二之丸の南側には
三之丸が配置されています。
その三の丸を"コ"の字型に外濠が囲んでいます。
名古屋城は、熱田神宮から続く細長い台地の
北端に、位置していますが、その台地に
沿って熱田神宮から本町通が続いています。
熱田神宮の散策記はこちらです。
本町通と外堀通の交差点の様子です。
この先が、名古屋城三之丸です。
撮影: 2011年7月
江戸時代には、ここに本町門がありました。
三之丸跡に入った所に本町門跡の
石垣が残っていました。
撮影: 2011年7月
この本町門跡から、外堀通りを西に向かってみました。
外濠通りには、高速道路の高架橋が続いています。
撮影: 2011年7月
外堀通の北側に外堀が続いています。
深く幅の広い名古屋城の外濠です。
撮影: 2011年7月
この外濠には、1976年(昭和51年)まで
名鉄瀬戸線の電車が走っていました。
廃止から45年程の年月が経ち、濠は自然に還り、
今ではこの外濠で蛍がみられるそうです。
撮影: 2011年7月
外濠に沿って名古屋城三ノ丸の西南角に来ました。
ここには御園御門跡の石垣が残っていました。
撮影: 2011年7月
堂々とした石垣で、当時は立派な
櫓門が載っていたと思われます。
御園御門跡から本町門跡に戻り、
今度は東に向かいました。
撮影: 2011年7月
外濠は雑草に覆われ、堀の幅などは見た目では
判断できない程でしたが、かつての名古屋鉄道
瀬戸線は、この区間を複線で走っていたので、
外濠の規模の大きさがわかります。
上右の写真は、かつての大津町駅跡の様子で
ホームに繋がっていた階段が今も残っています。
大津町駅跡は、外堀通と名古屋市内を南北に
貫く大津通の交差点のすぐ西側にあります。
撮影: 2011年7月
大津通から眺める名古屋城外濠の様子です。
外濠の幅は50m近くはあるでしょうか。
大津町駅への階段も見えています。
撮影: 2011年7月
外濠の立派さもさることながら、
この場所は名古屋城天守から1km以上も
離れていて、その姿は見えません。
外濠は、大津通の東側にも続いています。
大津通から300m程、東に行ったところが、
名古屋城の東南角になっています。
撮影: 2011年7月
上の写真は、外濠の東南角から北を眺めた様子です。
瀬戸線はここで90°のカーブを切っていたのですが、
かなりの急カーブだったと思います。
ここからは外濠に添う道はない為、一本
東側の道を北に向かって歩いていると、
古い赤レンガの建物がありました。
撮影: 2011年7月
この建物は、1922年(大正11年)に完成した
旧名古屋控訴院、地方裁判所の建物です。
日本を代表する"ネオ・バロック"様式の建物
という事で、重要文化財に指定されています。
この先で、名古屋市内を東西に走る出来町通りと交差します。
名古屋城外濠は、当時、この位置に清水門がありました。
清水門は桝形門の大きな門だったようで、
上下線が20m程の間隔を置いて分離されている
出来町通の両側に清水門の石垣が残っています。
撮影: 2011年7月
上の写真は、南側の石垣です。
櫓門か多聞櫓の櫓台と思います。
そして下の写真は北側に残る櫓台です。
撮影: 2020年11月
清水門の桝形は名鉄瀬戸線建設や出来町通の
拡幅の際に取り壊されてしまったようですが、
南北に分かれた櫓台が、桝形を形成していたと
思うと、その大きさがわかります。
撮影: 2011年9月
外濠は清水門跡から更に北に延びています。
名鉄瀬戸線の東大手駅を過ぎ、北に向かいます。
外濠の東側は、下り勾配になっていて、外濠の
西側との高低差が次第に大きくなっています。
撮影: 2011年9月
丁度、外濠の底に人が立っていたのですが、
人の背丈に比べて、如何に濠が深いかがわかります。
西側の濠は途中で犬走と呼ばれる段差があります。
この先、長い下り坂を下りきった辺りで、
外濠は姿を消していました。
その東側では、外濠の下を地下で走っていた
名鉄瀬戸線が地上に現れていました。
撮影: 2011年9月
名鉄瀬戸線は、以前は外濠の中を走り、名古屋城の
西南にあった堀川まで達していましたが、1978年
(昭和53年)に地下化され、この地点から真っすぐ
南下し、名古屋市の中心部・栄町に乗り入れました。
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