名古屋城
NagoyaJyo, Japan

登城日:
1970s & 2006. 05. 04, 2010.10.25,
2011.7.23, 2011.9.30, 2018.05.02, 2020.11.18

【名古屋城 概要】

「尾張名古屋は城でもつ」と
江戸時代から名城と謳われた名古屋城。

名古屋城の歴史は1521年(永正18年)に
今川氏親が砦を築いた事から始まります。

その砦を織田信長の父、信秀が奪い、
織田信秀はその砦を那古野城と称し、
信長はこの那古野城で生まれたそうです。

1555年(天文24年)、信長は奪い取った清洲城に
移り、その翌年に那古野城は廃城となりました。

しかし1609年(慶長14年)に徳川家康は
尾張徳川家の居城を清洲からこの名古屋に
移すことを決め、西国大名20家に命じ、
名古屋城築城を行わせました。

大阪城の豊臣家包囲網を築き、
豊臣系大名との戦になった場合の
江戸防衛の防波堤の役割を
持たせたのがこの名古屋城です。

名古屋城は名古屋市中心部のやや北側にあります。
当時、名古屋の街中を南北に走る微高地があり、
名古屋城はその北の端にあります。

北側は低湿地が続き、南側には広大な
三之丸を築き守りを固めています。

三之丸の周囲には外堀が囲み、
東門、本町門など、5つの桝形門があります。

大筒が発達した時代、この広大な三之丸が、
大筒の射程距離から本丸を護っていたようです。

そして三之丸の北側に、二之丸と本丸が
東西に並ぶ連格式の縄張りになっています。

本丸の西側には、西丸、御深井丸が
南北に配置され、本丸の守りを固めています。

特別史跡名古屋城跡全体整備計画
増補版 2014年12月 名古屋市 より

本丸の北西隅には、有名な金鯱が載る大天守と
小天守の連結式天守が建てられていました。

この名古屋城には何度も訪れた事があったのですが、
「日本全国お城巡りの旅」を始めたこともあり、
2006年のGWに再び訪れました。

名古屋の様子はこちらです。

【名古屋城へのアクセス】

名古屋城二之丸の東鉄門は、名古屋市営
地下鉄名城線の市役所前駅下車すぐです。
鶴舞線浅間町駅から西の丸正門まで徒歩12分です。

バスでは栄から名古屋市営バス栄13号
系統で、名古屋城正門前下車。
または基幹バス2号系統市役所下車。

名古屋駅からは名古屋観光ルートバス
「メーグル」乗車です。

【名古屋城登城記】

二之丸
Jan. 05, '17

本丸
Jan. 25, '17

三之丸
Sep. 05, '21

御深井丸
Jan. 31, '17

西之丸
Feb. 04, '17

お堀巡り
Feb. 08, '17

本丸御殿

外濠
New! Sep. 08, '21

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二之丸

地下鉄名城線を市役所前で下車し、
名古屋城に向かいます。

地下鉄の出口の目の前が、名古屋城址です。
二之丸を囲む大きな空堀がまず目に入ってきます。


撮影: 2006年5月

幅は20mはあるでしょうか。
とても大きな空堀が一直線に続いています。
この空堀からも名古屋城の規模の大きさが判ります。

立派な石垣が残る東鉄門(二之丸東門)から
城址に入りました。


撮影: 2006年5月

当時はこの内側に東一之門があり、
この門は二つの門で構成され、
敵の進入を防いでいます。

こうした門は防御性が高く、
枡形門と呼ばれています。
名古屋城の門はすべてこの様式だったそうです。

土橋を渡り、東鉄門に向かいました。
枡形の大きな石垣が迫ってきます。


撮影: 2010年10月

この写真の石垣は、二之丸東ニ之門跡のものです。
この東二之門は現在本丸に移築され現存しています。

土橋の両側の内堀の様子です。
内堀は、二之丸、本丸、西の丸そして
御深井丸の周囲を巡っています。


撮影: 2010年10月

幅の広い堀で、名古屋城の防御の堅さが判ります。
当時、東鉄門の南側は水堀、北側は空堀だったようです。

二之丸東一之門跡の石垣です。
当時はこの石垣を跨ぐように櫓門が載っていました。


撮影: 2010年10月

この東鉄門を抜けた左手には
愛知県体育館がありました。


撮影: 2010年10月

当時ここには向屋敷がありました。

当時、二之丸には尾張藩の政庁であった
二之丸御殿がほぼ二之丸の全体に
亘って建っていました。

その跡地は、広々とした芝生になっていました。


撮影: 2006年5月

二之丸御殿の北側には二之丸庭園がありました。
戦前、軍隊が駐留していて時には二之丸庭園を潰して
兵舎にしていたそうで、その跡を発掘調査したそうです。

この写真は二之丸庭園に咲く躑躅です。


撮影: 2006年5月

一部は当時のまま残っているようで、
名勝に指定されています。

二之丸庭園の茶亭の前に、
那古野城址の碑がありました。


撮影: 2006年5月

信長が誕生したと言われる那古野城ですが
近年では勝幡城での生誕説が有力なようです。

二之丸庭園の北側は、幅の広い堀が続き、
一段低いところに公園が広がっていました。


撮影: 2006年5月

堀へと続く、高石垣が見事です。

現在、名城公園になっているところは当時は
湿地が広がり、この湿地が、名古屋城の
背部の天然の要害になっていました。

この二之丸北側の石垣の上には
南蛮たたき鉄砲狭間の遺構がありました。


撮影: 2010年10月

多分、この写真の下側、柵の向こう側に
写っているのが練塀の遺構と思います。

この左手は、狭い空堀を隔てて
本丸の東馬出が見えています。


撮影: 2010年10月

馬出は規模が大きく、一つの曲輪ほどの大きさがあります。
やや南に下ったところには埋門跡がありました。

万が一の際には、藩主はここから名古屋城を脱出し、
木曽へ落ち延びる手筈になっていたそうです。

この南では二之丸の曲輪が西に広がり、
その向こうに本丸東南櫓が遠くに見えてきました。


撮影: 2010年10月

本丸へと向かう際には、東南隅櫓を
すぐ近くで仰ぎ見て進みます。


撮影: 2006年5月

この南側には熊本城を築城した
加藤清正の像がありました。


撮影: 2006年5月

1610年(慶長15年)の名古屋城築城の際に
清正も協力しています。

秀吉子飼いの武将だった清正は、どんな思いで
豊臣家に対する備えとなる名古屋城の
築城に携わったのでしょうか。

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本丸

本丸馬出から表門を抜けて

二之丸から西に向かうと本丸へとつながります。
右手に東南隅櫓がすぐ近くに聳えています。


撮影: 2006年5月

この南側には狭い堀がありました。
この堀は二之丸と、本丸の南西に位置する
西之丸とを囲む堀へとつながっています。


撮影: 2010年10月

今は一部が埋め立てられてしまっていますが、
当時は、本丸の南にも馬出があり、左の低い
石垣が二之丸、高い石垣が本丸の馬出です。

本丸に向かうには、馬出の付け根の狭い通路を通る
必要があり、その通路のすぐ横に本丸東南隅櫓が
あるので、敵は容易には近づけなかったでしょう。

本丸へは表二之門から本丸に入りました。


撮影: 2006年5月

内堀に掛かる土橋を渡っていきます。
内堀は空堀となっていて、今は内堀の
底では鹿が飼育されています。


撮影: 2010年10月

表二之門です。
この表二之門も第二次大戦の
戦災を逃れた現存の門です。

2010年10月に訪れた際は、本丸御殿の工事の関係か
門に覆いがされていましたが、表二之門の表面は
全面に亘って鉄で覆われているそうです。


撮影: 2010年10月

表二之門を抜けると石垣の間を通ります。
名古屋城の城門はすべて護りの堅い
枡形門形式になっていました。

当時は上の写真の石垣と石垣の間に櫓門が
渡されており、この門を突破するのは
極めて難しい事だったと思います。

本丸御殿

二之丸から西に向かうと右手に東南隅櫓を
眺めると左手には狭い堀がありました。

この桝形門を抜けると、以前は大天守と
小天守が目の前に現れていました。

手前には礎石がいくつか残っていますが、
これは本丸御殿の址です。


撮影: 2006年5月

江戸時代初期に建てられた天守と本丸御殿は
明治以降も現存し、日本の国宝第一号にも
指定されていましたが、第二次大戦の
空襲で惜しくも焼失してしまいました。

その後、大天守は1959年(昭和34年)に
鉄筋コンクリート製で外観復元され、
その時に屋根の上の金鯱も復元されました。

壮大な天守を見ていると、当時の天守が
戦災に遭った事が本当に悔やまれます。

ありし日の名古屋城天守と本丸御殿です。

手前には表門の櫓門も写っています。
記憶が間違っていなければ、尾張藩主だった
徳川慶勝公が撮った写真だと思います。

その名古屋城本丸御殿ですが、2006年から
復元を目指し工事が進んでいます。
2017年度には工事が完了する予定で、
2018年に公開が予定されています。

2010年10月に、名古屋城開府400年の
記念として本丸御殿の玄関の工事の
様子が公開されたので訪れてみました。


撮影: 2010年10月

玄関の車寄せのところです。
ここはまさに工事現場の入り口といった感じでした。

中に入ると、工事はまだ緒に就いたところ、
といった感じでしたが、襖絵が展示されていました。


撮影: 2010年10月

竹林豹虎図です。
名古屋城本丸御殿の襖絵は、狩野貞信や
狩野探幽らによって描かれた貴重なものです。
第二次大戦中にはその戦火を逃れるために
疎開していて、約1300面のうち1047面が
焼失を免れ、重要文化財に指定されています。

玄関は「虎の間」と呼ばれ、部屋一面に
虎の絵の襖がはめ込まれていたようです。
金箔が怪しく輝き、惹き込まれそうな感じでした。

名古屋城本丸御殿は、玄関に続き、
対面所のある表書院、上洛殿といくつもの
建物が雁行の様に配置されていました。

この図は北から南を見たものです。
左上が玄関、その右手に表書院があり
最も重要な対面所は中央下に位置しています。

2010年の段階では、まだ棟上げされたばかりという
状態で、柱と屋根の形が出来つつあるだけでした。


撮影: 2010年10月

しかし、この姿も貴重な記録と思い、掲載します。


撮影: 2010年10月

本丸御殿の屋根の骨組みです。
ここに柿葺きの屋根の屋根が葺かれるのでしょうか。
こうした伝統的な工法が受け継がれていく事は
素晴らしい事と思います。

ちなみに名古屋城本丸御殿は、1615年(慶長20年)に
落成した後は尾張藩初代藩主の徳川義直公の住居と
尾張藩の政庁の役割がありましたが、1634年(寛永11年)
に三代将軍・徳川家光公が名古屋城に宿泊に際し
上洛殿が設けられ、以降本丸御殿は将軍お成りの際に
用いられることとなり、実態としては江戸時代を通じて
殆ど使われることがなかったようです。

今は工事用の上屋根も撤去され、その姿が現れています。
早く、再訪してみたいものです。

天守

本丸御殿を抜けると、天守と小天守の
連結式天守が建っています。

天守が竣工したのは1612年(慶長17年)。
大坂の陣が起きる4年前で、徳川と豊臣との間で
緊張した時代だった事と思います。


撮影: 2010年10月

名古屋城天守の高さは天守台を含め55.6mです。
高さでは江戸城天守の57.5mや、徳川大坂城の58.3mには
及びませんが、総床面積は4424.5平米と日本最大の天守でした。

層塔型の堂々とした天守です。

小さい頃から迫力ある名古屋城天守こそお城という認識があり、
地元の岡崎城などはあまりに規模が小さいと思っていましたが、
その名古屋城が、実は日本でも特別なものだったという事は
お城巡りを始めてから、やっと認識しました。

名古屋城天守へは小天守から入ります。
小天守を抜け、天守と小天守の間の廊下の様子です。


撮影: 2010年10月

屋根はなく、天守に攻め込もうとした敵は、
両側の土塀で逃げることも出来ずに、
ここで狙い撃ちされてしまう事になります。

しかもこの塀には、槍の穂先を並べて
忍び返しとしたそうで、剣塀と呼ばれています。

この渡り廊下を抜けると、天守の入り口がありました。
大きな天守に似つかわしい小さな入り口でした。


撮影: 2010年10月

一面を鉄板で覆われた名古屋城の入り口です。
ここまでも十分に堅牢な名古屋城の構造ですが、
中に入るとさらに驚く仕掛けがあります。

それは天守を支える石垣の構造にあります。


撮影: 2010年10月

名古屋城の天守の石垣は、その内部で
桝形の構造になっているのです。
日本に天守を持つお城は数多くありますが
ここまでの守りを固めたお城は他にあるでしょうか。

そして、ここに名古屋城天守に載っている
金鯱のレプリカがありました。


撮影: 2010年10月

大きな天守に載っている金鯱はその大きさを
実感できませんが、実際に間近で見ると
人の背丈以上もあり、その大きさに驚きます。

2005年の「愛・地球博」では本物の
金鯱を間近で見たような気もしますが
その記憶も薄れてしまっています。

現在の名古屋城天守は、1945年(昭和20年)の
第二次大戦で焼失した後、1959年(昭和34年)に
鉄筋コンクリートで外観復元されています。

外観復元された名古屋城天守は、7階建になっています。
他の復元天守と同様に中は博物館になっていて、
名古屋城に関しての展示がされています。


撮影: 2010年10月

1階にある名古屋城のジオラマです。
南の三の丸側から撮った写真ですが、
天守は奥に小さく見えるだけです。

そして、3階には本丸御殿の模型もありました。
右の写真は対面所です。


撮影: 2010年10月

この建物が早く復元される事を心待ちにしています。

そして、最上階の7階は展望台です。
名古屋城には高欄が無かったので、建物の中
からですが、名古屋の街を見渡すことが出来ます。

こちらは名古屋城の北の方角です。


撮影: 2010年10月

当時、低湿地が広がり、名古屋の北を
護っていた土地もすっかり家が建ち込めています。
名城公園がわずかにその名残になっています。

こちらは、東側の様子です。


撮影: 2010年10月

二之丸を見下ろすことが出来ます。
右の写真は工事中の本丸御殿です。

そしてこちらは南西の方角になります。


撮影: 2010年10月

名古屋駅周辺の高層ビル群が
見えていました。

最後にこちらは西北の眺めです。


撮影: 2010年10月

御深井丸の建物は、本丸御殿復元工事の
木材加工場になっています。

この方角には、遠く清州があります。
尾張の首府で、清州会議の舞台にもなりましたが、
1609年(慶長14年)に名古屋城が建てられると、
「清州越し」と呼ばれる名古屋への町ごとの
引っ越しが行われています。

清州城の登城記は
こちらです。

1959年(昭和34年)に外観復元された名古屋城天守ですが、
築後50年以上が経ち劣化が進み、また現在の耐震基準に
適合していないとの事で、再建の話が持ち上がっています。

木造で当時の工法で復元するという計画もあり、
是非、それが実現することを願っています。

本丸東門と不明門

名古屋城本丸には表門の他に、
東門と天守北に不明門があります。

東門は、本丸から二之丸の方向に突き出た
搦手馬出への出入り口の門です。

東門は桝形形式の門で、堅牢な造りだったと思います。
残念な事に、この東門は第二次大戦の際に、
天守や本丸御殿とともに焼失してしまっています。

このうち、高麗形式の二之門には二之丸東門に
残っていた東鉄二之門が移築されています。


撮影: 2010年10月

この東門枡形の石垣には大きな石が使われています。
清正石と呼ばれています。

名古屋城の築城にも関わった知名度の高い
清正の名前が付いていますが、築城当時
ここの担当は黒田長政だったようです。


撮影: 2010年10月

東鉄二之門を見学した後、
不明門から御深井丸に出ました。


撮影: 2010年10月

不明門の前の木は御殿椿というそうです。
本丸御殿の南庭にあり、第二次大戦の
空襲で焼けてしまったそうですが、焼けた
幹から新芽が伸びて復活したそうです。

不明門も第二次大戦の空襲で焼けてしまい、
1973年(昭和53年)に復元されています。


撮影: 2010年10月

復元された不明門です。
多門櫓の下に設けられた埋門だったようです。

不明門を抜け、御深井丸へとつながる土橋から
本丸北側の内堀を眺めた様子です。


撮影: 2010年10月

当時、この辺りの様子を眺める事は
至難の業だった事と思います。

不明門と御深井丸へと続く土橋の様子です。


撮影: 2006年5月

このすぐ右手に大天守が聳えています。

不明門は大奥への出入り口だったそうで、
当時は厳重に鍵が掛けられていたそうです。

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三之丸

名古屋城本丸と二之丸の南側には
三之丸が配置されています。

三之丸は、東西2km、南北1km程もの大きさがあり、
周囲には外堀が囲み、東門、本町門など、
5つの桝形門がありました。

大筒が発達した時代、この広大な三之丸が、
大筒の射程距離から本丸を護っていたようです。

名古屋城本丸の正門を抜けると、三之丸です。


撮影: 2010年10月

名古屋城は明治以降は旧日本陸軍の駐留地となり、
三之丸は、二之丸と共に兵舎が建てられました。

その後、宮内庁の所管となり、天守などは
廃棄されることなく、第二次世界大戦まで
残る事になったようです。

三之丸の中を広い出来町通りが左右に貫いています。
この出来町通りを東に向かうと、三之丸と二之丸との
間の内堀沿いを行く様になりました。


撮影: 2020年11月

二之丸の立派な石垣が見えていました。

この先で出来町通りは、南北に走る大津通と交差します。
その交差点から南を眺めると、古い立派な建物が
二棟建っているのが見えました。


撮影: 2020年11月

この二棟の建物は名古屋市役所と愛知県庁です。
手前の、塔がある建物が名古屋市役所、
その奥の天守閣風の建物が愛知県庁です。

名古屋市役所は、昭和天皇の御大典事業として
1933年(昭和8年)に建てられた建物です。


撮影: 2020年11月

小さくてわかり難いですが、時計塔の頂部には
鯱も載っていて、名古屋城天守との
調和を図っているそうです。

そしてこちらが愛知県庁です。


撮影: 2020年11月

愛知県庁は1938年(昭和13年)に竣工しています。
愛知県庁は、昭和初期の「日本趣味表現」の表現を
達成した建物としての歴史的価値を認められ、
2014年に国の重要文化財に指定されています。

名古屋城三之丸は、愛知県庁や名古屋市役所以外にも
裁判所や愛知県警などの官公庁の建物が多く
整然とした雰囲気です。


撮影: 2020年11月

本丸正門に戻って、今度は三之丸を
南に進むと、護国神社がありました。


撮影: 2010年10月

その南側には、土塁があり、
一部は石垣で囲われていました。


撮影: 2010年10月

この石垣は三之丸の南にあった本町門の石垣と思います。
名古屋城は、熱田神宮から続く細長い台地の北端に、
位置していますが、その台地に沿って熱田神宮から
本町通が続いています。

熱田神宮の散策記はこちらです。

その先にある本町門は、いわば名古屋城の
正門にあたる立派な門だったように思います。


撮影: 2010年10月

本町門のすぐ南側を東西に外濠が通っています。
2011年には外濠に沿って散策しています。

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御深井丸

本丸北側の不明門を抜けたところが
本丸の西北に位置する御深井丸です。


撮影: 2010年10月

御深井丸から眺める天守と内堀の様子です。
仰ぎ見る天守は大きく、圧倒されてしまいます。

御深井丸には天守の礎石が展示されています。


撮影: 2010年10月

戦後に今の天守が外観復元で建てられた際に
礎石は使われずにここに保存されているのです。

この礎石が再び活躍する日が来るのが
待ち遠しく思います。

天守礎石の隣には、出雲地方にあったという
古墳の石棺式石室も展示されていました。


撮影: 2010年10月

この石室を寄贈された方がいるようですが、
どういう経緯で古墳時代の出雲の石室が
名古屋にあるのか、少々謎ではあります。

ここから御深井丸の奥へと入っていきました。

多くの人で賑わう本丸とは異なり、
ひっそりしています。


撮影: 2010年10月

この先に古い白壁の倉庫がありました。
旧陸軍の弾薬庫で、乃木倉庫と呼ばれています。


撮影: 2010年10月

この建物が建てられたのは明治初期と言われ、
その頃に乃木将軍は名古屋鎮台に
在任していたそうです。

東京・六本木の乃木神社の散策記はこちらです。

2010年10月に訪れた際には
内部が公開されていました。


撮影: 2010年10月

何かの古木が置かれ、まさに倉庫といった感じでした。

この御深井丸の西北に三重の
西北隅櫓が残っています。

広い堀に面して建つ櫓ですが、御深井丸の内側に
向かっては窓がなくのっぺりとした印象でした。


撮影: 2010年10月

この西北隅櫓は、高さは約16.3mあり、
平面の大きさは8間 x 7間で、現存天守の
宇和島城をしのぎ、高知城とほぼ同じ大きさです。

名古屋城の前身の清州城天守を移築したとも
伝わり、清州(あるいは清須)櫓とも呼ばれています。

清洲城の登城記はこちらです。

2010年10月に訪れた際には、
この西北隅櫓が公開されていました。

櫓に入る手前で外堀を眺める事が出来ました。
この日は、外堀を船でクルーズする催しも開かれていて
その船が丁度通りかかっていました。


撮影: 2010年10月

こうしてみると、敵が船に乗って名古屋城に近づいてきても
城方からは一望出来て、簡単に撃退されてしまいそうです。

西北隅櫓の内部は質素な造りでした。
一階には胴木と呼ばれる古い木材が展示されていました。


撮影: 2010年10月

胴木は建物の下に入れたもののようです。
この胴木は、二之丸東二之門と二之丸東面の
石垣の下から出土したもので、1610年(慶長15年)に
石垣が普請されたときに据え付けられたようです。

武者走りとお堀側の窓と石落としの様子です。


撮影: 2010年10月

名古屋城が築城されたのは、関ケ原の戦いの後ですが、
大坂城にはまだ豊臣秀頼が健在だった時で、
当時の緊張感も伝わってきます。

こちらは2階の様子です。


撮影: 2010年10月

窓が少なく、櫓の中は薄暗くなっていました。

そして、3階からの眺めです。 御深井丸の西側の様子です。


撮影: 2010年10月

当時、外堀の対岸は低湿地だったはずで、
敵は容易には近づけなかったと思います。

こちらは東側の様子です。


撮影: 2010年10月

ちょっと木々に隠れていますが、
名古屋城の天守が綺麗に見えていました。

2006年5月に御深井丸を散策した際には、この後で、
西北隅櫓を堀の向こう側から眺めることにしました。

西之丸正門を抜け、広いお堀に沿って10分程歩くと、
西北隅櫓が見えてきました。


撮影: 2006年5月

西北隅櫓も堂々とした姿でした。

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西之丸

西之丸は本丸の南、そして御深井丸の南側にあります。
天守を仰ぎ見るように本丸の西側を南に向かいました。


撮影: 2010年10月

天守と小天守が連結されている様子がよく判ります。
この西側には西之丸と御深井丸の間の堀があります。


撮影: 2010年10月

外堀とつながり、細く伸びた堀は
鵜ノ首という名前がついています。

ここから南が西之丸になります。
西之丸から望む名古屋城大天守です。


撮影: 2006年5月

金鯱が日を浴びて輝き、大天守の大きさとともに
やはり他のどのお城よりも立派なお城です。

内堀に沿ってさら南に進むと
本丸の角に櫓が見えて来ました。
その奥には大天守が聳えていました。


撮影: 2006年5月

当時、名古屋城には10の二重櫓と一つの
三重櫓が建てられていたのですが、このうち、
二つの二重櫓と、三重櫓が現存しています。

西南隅櫓は現存する二重櫓の一つです。
三重櫓が御深井丸の北西隅櫓です。

当時の本丸は四隅に天守や櫓が建てられ、
その間の石垣の上を多聞櫓と呼ばれる櫓が
塀のように建てられていたそうです。

その姿は失われてしまいましたが、本丸南側の
東南隅櫓から表二之門、そして西南隅櫓と続く
様子は、当時の名古屋城の雰囲気が伝わってきます。

ここから西に向かうと名古屋城の正門に
あたる西之丸正門があります。


撮影: 2006年5月

江戸城の蓮池御門を移築したそうですが、
これも戦災で焼失したものを再建したものです。

西之丸には展示館もあるのですが、いつも天守に
目が釘付けになってしまい、西之丸は十分に散策
出来ていないので次の機会に巡ってみようと思います。

お堀巡り

2010年は名古屋開府400周年でした。
その記念に、10月に名古屋城外堀のお堀巡りが行われました。

その時のパンフレットは こちら です:
http://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/02_events/22/221008_a/pdf/20101008ohorimeguri.pdf

名古屋城が一般開放されてから初めての催しで、
人気も高く、毎日の乗船券発売とともに
売り切れてしまう程の人気でした。


撮影: 2010年10月

この日は開門とともに乗船券を購入し、
船の時間まで城内を散策していたのでした。

このお堀巡りについては、文化庁からクレームもあったようですが、
四代藩主・徳川吉通が船で名古屋城に入った例があると
説明し、このイベントが開催出来たそうです。

二之丸と本丸東馬出との間の堀へと、
スロープを下っていきました。


撮影: 2010年10月

ここも普段は立ち入りが出来ない場所なので
貴重な体験です。


撮影: 2010年10月

二之丸埋門もしっかり見ることが出来ました。
埋門の下で左に曲がり御波渡場へと向かます。


撮影: 2010年10月

振り返って眺めた堀の様子です。
この先に御波渡場があり、ここから
お堀巡りの船に乗りました。


撮影: 2010年10月

江戸時代も、ここと外堀の反対側の南北に
御波渡場があり、藩主がいつでも出入り
出来るようにしていたそうです。

船頭さんの話では、確か、今回の船は津島の津島神社の
天王祭りで使われている船を借り受けという事でした。

船に乗り込むと早速外堀へと漕ぎ出しました。


撮影: 2010年10月

幅の広い外堀が実感できます。
本丸東馬出の石垣も船からは見上げるように迫っていました。

こちらは乗船した南御波渡場の様子です。


撮影: 2010年10月

石垣と石垣の間の隠れた船着き場で、藩主が人目に
付かずに船に乗るには絶好の場所だったと思います。

船は外堀を西に進み、本丸東馬出から本丸北側に
位置する塩蔵構の石垣に沿って進みました。


撮影: 2010年10月

この塩蔵構の石垣に、出入り口のような
箇所がありました。
石垣の水抜きの穴だったのかもですが、
人も潜れるような大きさなので、緊急時の
脱出用抜け穴の出口だったのかもしれません。

やがて名古屋城天守が見えて来ました。
外堀からの、このアングルの天守は2度と見られない姿です。


撮影: 2010年10月

その右手には御深井丸の西北隅櫓が見えてきました。
お堀巡りの船はその西北隅櫓へと向かっていきました。


撮影: 2010年10月

江戸時代であれば、守備兵から
簡単に攻撃されてしまう筈です。

このアングルでの西北隅櫓もこうした機会が
無ければ決して見られなかったものです。


撮影: 2010年10月

30分の船巡りでしたが、滅多には見られない
名古屋城の姿を見るうちにあっという間に
時が経ち、貴重な体験になりまいした。

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外濠

名古屋城本丸と二之丸の南側には
三之丸が配置されています。

その三の丸を"コ"の字型に外濠が囲んでいます。

名古屋城は、熱田神宮から続く細長い台地の
北端に、位置していますが、その台地に
沿って熱田神宮から本町通が続いています。

熱田神宮の散策記はこちらです。

本町通と外堀通の交差点の様子です。
この先が、名古屋城三之丸です。


撮影: 2011年7月

江戸時代には、ここに本町門がありました。
三之丸跡に入った所に本町門跡の
石垣が残っていました。


撮影: 2011年7月

この本町門跡から、外堀通りを西に向かってみました。
外濠通りには、高速道路の高架橋が続いています。


撮影: 2011年7月

外堀通の北側に外堀が続いています。
深く幅の広い名古屋城の外濠です。


撮影: 2011年7月

この外濠には、1976年(昭和51年)まで
名鉄瀬戸線の電車が走っていました。

廃止から45年程の年月が経ち、濠は自然に還り、
今ではこの外濠で蛍がみられるそうです。


撮影: 2011年7月

外濠に沿って名古屋城三ノ丸の西南角に来ました。
ここには御園御門跡の石垣が残っていました。


撮影: 2011年7月

堂々とした石垣で、当時は立派な
櫓門が載っていたと思われます。

御園御門跡から本町門跡に戻り、
今度は東に向かいました。


撮影: 2011年7月

外濠は雑草に覆われ、堀の幅などは見た目では
判断できない程でしたが、かつての名古屋鉄道
瀬戸線は、この区間を複線で走っていたので、
外濠の規模の大きさがわかります。

上右の写真は、かつての大津町駅跡の様子で
ホームに繋がっていた階段が今も残っています。

大津町駅跡は、外堀通と名古屋市内を南北に
貫く大津通の交差点のすぐ西側にあります。


撮影: 2011年7月

大津通から眺める名古屋城外濠の様子です。
外濠の幅は50m近くはあるでしょうか。
大津町駅への階段も見えています。


撮影: 2011年7月

外濠の立派さもさることながら、
この場所は名古屋城天守から1km以上も
離れていて、その姿は見えません。

外濠は、大津通の東側にも続いています。
大津通から300m程、東に行ったところが、
名古屋城の東南角になっています。


撮影: 2011年7月

上の写真は、外濠の東南角から北を眺めた様子です。
瀬戸線はここで90°のカーブを切っていたのですが、
かなりの急カーブだったと思います。

ここからは外濠に添う道はない為、一本
東側の道を北に向かって歩いていると、
古い赤レンガの建物がありました。


撮影: 2011年7月

この建物は、1922年(大正11年)に完成した
旧名古屋控訴院、地方裁判所の建物です。
日本を代表する"ネオ・バロック"様式の建物
という事で、重要文化財に指定されています。

この先で、名古屋市内を東西に走る出来町通りと交差します。
名古屋城外濠は、当時、この位置に清水門がありました。

清水門は桝形門の大きな門だったようで、
上下線が20m程の間隔を置いて分離されている
出来町通の両側に清水門の石垣が残っています。


撮影: 2011年7月

上の写真は、南側の石垣です。
櫓門か多聞櫓の櫓台と思います。

そして下の写真は北側に残る櫓台です。


撮影: 2020年11月

清水門の桝形は名鉄瀬戸線建設や出来町通の
拡幅の際に取り壊されてしまったようですが、
南北に分かれた櫓台が、桝形を形成していたと
思うと、その大きさがわかります。


撮影: 2011年9月

外濠は清水門跡から更に北に延びています。
名鉄瀬戸線の東大手駅を過ぎ、北に向かいます。

外濠の東側は、下り勾配になっていて、外濠の
西側との高低差が次第に大きくなっています。


撮影: 2011年9月

丁度、外濠の底に人が立っていたのですが、
人の背丈に比べて、如何に濠が深いかがわかります。
西側の濠は途中で犬走と呼ばれる段差があります。

この先、長い下り坂を下りきった辺りで、
外濠は姿を消していました。

その東側では、外濠の下を地下で走っていた
名鉄瀬戸線が地上に現れていました。


撮影: 2011年9月

名鉄瀬戸線は、以前は外濠の中を走り、名古屋城の
西南にあった堀川まで達していましたが、1978年
(昭和53年)に地下化され、この地点から真っすぐ
南下し、名古屋市の中心部・栄町に乗り入れました。

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