岡崎の中心部から北に向かい、
大樹寺の集落を東に向かうと、
古刹・滝山寺があります。
大樹寺から滝山寺周辺の
様子を紹介しようと思います。
碑のすぐ近く、道路に面して
仏足跡の石碑もありました。
この碑と仏足跡に誘われて、
お寺に立ち寄って見ることにしました。
九品院は1828年(文政11年)に
徳住上人によって開基されたそうです。
坂道を上り、本堂を目指します。
冠木門を抜けて境内に入って行きました。
境内には、木々が生い茂っていました。
九品院を訪れたのは夏なので、すぐに
何匹かの蚊に刺されてしまいました。
その中の通路を抜けると、本堂が見えて来ました。
九品院は浄土宗鎮西派のお寺で、
ご本尊は阿弥陀如来、千手観音だそうです。
お寺のサイトを見ると、この九品院は
改ざん以来各地から修行僧が集まり、
現在でも十数名の修行僧が
努めに励んでいるそうです。
現地の縁起によると、滝山寺は686年(朱雀元年)に
役の行者によって創建された古刹です。
鎌倉幕府、南北朝時代には足利尊氏、
そして徳川家康の庇護を受けた由緒あるお寺です。
この三門は1267年(文永4年)の建立だそうです。
歴史ある滝山寺に相応しい立派な三門です。
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上の写真、赤い矢印で示した垂木が
他の垂木と反対の向きになっています。
門を正面から見て左側に石碑の建った
塚があるのですが、その塚が藤原光延の
お墓と言われているそうです。
滝山寺の三門から滝山寺へは
1km程の道のりがあります。
途中に、石垣と土塀で囲われた
弘願寺というお寺がありました。
三門を過ぎると山間になり、
青木川の小さな渓谷に沿うようになります。
のどなか景色を眺めながら進むうちに
滝山寺の入り口に到着です。
滝山寺には、日光、久能山と並び、
日本三大東照宮のひとつ
滝山東照宮もあります。
石段を上って、滝山寺と
滝山東照宮を目指しました。
長い石段を上って滝山寺の境内に入ると
立ち並ぶ燈籠が目に入りました。
滝山寺に隣接して、徳川家光公が
滝山東照宮を建立した際に、
全国の大名が寄進した燈籠でしょうか。
一番左は三河・田原城主、真ん中は赤穂藩主の浅野内匠守、
そして右は会津従四位上少将源朝臣正之とあります。
保科正之の寄進でしょうか。
この本堂は4度目の造営とされ、
南北朝時代に建てられたと考えられています。
滝山寺の本堂では、2月の初め頃に鬼祭りが行われ、
本堂の縁側を松明を持った鬼が走り回るそうです。
その時は本堂前の広場は祭りを見に訪れる人で
ぎっしり埋まってしまうそうです。
この日、他に滝山寺を訪れる人もなく
ひっそりと静まり返っている滝山寺からは
想像もつかない賑わいでしょう。
この鬼祭りは、源頼朝公の祈願により
始まったと言われています。
滝山寺と源頼朝との関係は深く、
頼朝の従兄にあたる僧寛伝が、滝山寺の
観音菩薩、梵天や帝釈天立像を収めたそうです。
この仏像も運慶作と伝わるそうです。
観音像は頼朝の三回忌に合わせて作られ、
頼朝の鬢と歯が収められていると伝わり、
X線解析の結果、観音像の口の辺りに
人間の歯がある事が確認されています。
本堂の裏には日吉大社がありました。
比叡山の麓の坂本にも日吉神社がありますが、
それと同じ関係なのでしょうか。
案内板の字が擦れて読みにくくなっていますが、
次のような謂れがあるそうです。
ある年の鬼祭りの際、諸国修行の山武士と称する
二人の旅僧が現れ、定められた「行」を行わずに
鬼祭りの面を被ったそうですが、祭りが終わっても
面が脱げず、息が詰まって死んでしまったそうです。
鬼祭りの際には、五穀を炒ったものを塚の上に撒き
「春秋の芽の生うる時出て来たれ」というそうです。
滝山寺には、五代将軍・徳川綱吉公が建てた
鐘楼もあるそうですが、見過ごしてしまいました。
滝山東照宮は、三代将軍・徳川家光公が
1646年(正保3年)に創建したものです。
家康の生誕の地、岡崎に権現様を
勧請したい」との家光の願いで、
家康の信仰も篤かった古刹・滝山寺に、
東照宮を建てる事になったそうです。
拝殿の扉は開いていて
中に入ることが出来ました。
拝殿の鴨居の上には
狩野探幽一門によって描かれた
三十六歌仙図の額が掲げられていました。
拝殿から本殿を眺めた様子です。
暗い拝殿の奥の本殿から
光が差し込んでいるようでした。
拝殿から眺めた中門と本殿の様子です。
江戸時代、この滝山東照宮は、日光東照宮、
久能山東照宮とともに日本三大東照宮とされたそうです。
今では、岡崎の山間にひっそりと佇み、
参拝客もなく、日光東照宮とは比べるもなく
静かな雰囲気です。
当時は、将軍家の代替わりがあると、
必ず宝刀宝物を献進して報告を行ったそうです。
そんな江戸時代の権勢を全く感じられず、
寂れた様子もまた一興かな、と思い、
滝山東照宮を後にしました。