【豊岡陣屋概要】
豊岡陣屋は、1668年(寛文8年)に京極高盛が丹後田辺藩
(今の舞鶴です)から移封し、豊岡藩を立藩し、設けた陣屋です。
豊岡には、室町時代中期に山名持豊が築き、戦国時代末期に
山名氏を滅ぼした羽柴秀吉は以下の宮部継潤が入城し、
城下町を整備した豊岡城がありました。
その豊岡城は、1597年(慶長2年)に廃城となっており、
豊岡陣屋は豊岡城のあった亀山の北の麓に築かれました。
豊岡藩は、明治まで京極氏が歴代、藩主を務めています。
豊岡陣屋跡は、現在は豊岡市の図書館が建っています。
豊岡陣屋跡は、JR山陰本線豊岡駅の東、1km程です。
徒歩約15分程の距離です。
京都丹後鉄道宮豊線の乗車記は こちらです:
2012年5月、前日に京都府の丹後半島の夕日ヶ浦温泉に泊まり、
京都丹後鉄道(当時、北近畿タンゴ鉄道)に乗車し、豊岡に来ました。
豊岡からはまず、出石に向かい、出石城、有子山城と出石の街を
散策し、その後に豊岡に戻り、豊岡陣屋に向かいました。
出石城の登城記は こちらです:
有子山城の登城記は こちらです:
出石の散策記は こちらです:
出石からのバスを豊田町のバス停で下車し、豊岡陣屋に向かいました。
その途中、豊岡高校の脇を通りました。
豊岡高校は兵庫県でも歴史の古い伝統校のようで、
校内には明治時代の旧豐岡中學校本館があり、
兵庫県の文化財に指定されています。
近くには検察庁や裁判所があり、豊岡は今でも兵庫県
北部の地方行政の中心地であることが分かります。
裁判所の北側には小高い丘があります。
この丘が、中世の豊岡城址のある亀山です。
豊岡城の登城記は こちらです:
ここから北に向かい豊岡陣屋跡を目指しました。
街中に入り、左に向かうと立派な門が見えています。
この門は、明治に豊岡陣屋跡に移築された
豊岡県庁の正門です。
元々は、現在の京都府にあった久美浜県の県庁の門として造られ、
1871年(明治4年)に久美浜県が豊岡県に合併された際に
現在地に移築されています。
重厚な門で、まるで陣屋の門だったと思わせる造りです。
この旧豊岡県庁の門の西側には図書館が建っています。
陣屋跡の南側には藩主だった京極氏の屋敷があります。
今も、子孫の方が住まわれているのか、
一般公開はされていませんでした。
白壁の土塀が歴史を感じさせていました。
豊岡陣屋の痕跡は残っていませんでしたが、
旧豊岡県庁門の東側に、大石りくの生家がありました。
先ほど、裁判所から豊岡陣屋跡に向かう際に
左に角を曲がりましたが、その角のすぐ東側です。
大石りくは、赤穂事件で吉良邸討ち入りを行った
首謀者・大石内蔵助の正妻でした。
1687年(貞享4年)に結婚し、二男二女の子宝に恵まれましたが、
赤穂藩主・浅野内匠頭の凶行で赤穂藩が取りつぶしとなると、
りくは、一旦豊岡に戻っています。
大石内蔵助の赤穂城開城・引き渡しの処理が終了すると、
京都・山科で一緒に暮らしますが、吉良邸討ち入りの謀略が
煮詰まって来ると、りくは離縁され、再び豊岡に戻りました。
この間に、三男・大三郎が生まれ、1702年(元禄15年)の
吉良邸討ち入りの後、大石内蔵助は切腹の罪を得ます。
大石内蔵助の死の15年後、三男・大三郎が広島藩の
浅野本家に仕官し、りくも広島に移り、1736年(元文元年)
広島の地で、86歳の生涯を終えています。
豊岡陣屋跡を訪れた後、豊岡城址も訪れ、
その後、少し遠回りしながら豊岡駅に向かいました。
豊岡陣屋跡の痕跡は残っていませんでしたが、
近くの建物の基礎の石垣を見ると、
陣屋や当時の武家屋敷の石垣の
跡かなと思って見ていました。
豊岡駅の手前で、豊岡市役所の前を通りました。
1927年(昭和2年)に建てられた豊岡市役所の本庁舎は、
瀟洒な洋館ですが、訪問時には幕が掛けられていました。
上の写真は、1934年(昭和9年)に建てられた
豊岡市役所の南庁舎です。
豊岡陣屋の城門は、出石の福成寺に移築されています。
この門が、豊岡陣屋の城門と思います。
流石に、重厚な門でした。