浜田城
Hamada Castle, Japan

登城日:
2011.7.30

【浜田城 概要】

浜田城は古田重治 (1578-1625) によって、
1620年(元和5年)から築城されました。

古田重治は、豊臣秀吉の家臣の子として生まれ、
伊勢の松阪から移封され浜田城を築城し、
浜田藩の初代藩主になっています。

松坂城の登城記はこちらです。

古田重治の子・重恒はお家騒動を起こし改易され、
1649年(慶安2年)に松平康映が播磨山崎から入城します。
その後は、徳川譜代の松平氏、本多氏が城主を勤めました。

浜田城は、標高68メートルの亀山に築かれています。

亀山は浜田川の畔に位置し、浜田川が西側への
天然の堀の役割を果たしていたようです。
亀山の頂上部の本丸に三重櫓が聳えていました。


一段低い二ノ丸に煙硝蔵などがあり、亀山の麓の
三の丸に御殿や役所などが置かれていたようです。

浜田城には2011年7月に登城しています。
その時の様子を紹介します。

【浜田城へのアクセス】

JR山陰本線浜田駅から南西に徒歩15分程で、
亀山の麓に到着します。

山陰本線の乗車記はこちらです。

【浜田城登城記】

本丸から大手門跡へ
NEW ! Nov. 03, '20

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秋葉神社から本丸へ

浜田駅北口から国道9号線を西に向かいました。
15分程で、城山の交差点に到着します。


撮影: 2011年7月

城山交差点の北側には、浜田護国神社の立派な
鳥居が立っていましたが、この先の亀山の
麓を斜めに上る道を進みました。


撮影: 2011年7月

結論から言うと、浜田城の登城には護国神社の
鳥居をくぐって歩いた方が良かったようです。

斜めに上る道の先には秋葉神社がありました。


撮影: 2011年7月

この秋葉神社は、明治に入ってから創設された神社です。
江戸時代にあったいくつもの神社を合祀しています。

秋葉神社までの区間には、浜田城の縄張り図の案内板はなく、
そのまま奥へと向かう道を一旦進みかけましたが、しばらく
歩いても何もなさそうでしたので、一旦、秋葉神社まで戻り、
折り返しの坂道を上る事にしました。


撮影: 2011年7月

この坂道を登ると浜田護国神社の境内に至ります。
その手前に島村抱月の碑がありました。
島村抱月は明治から大正にかけて活躍した
劇作家で、この浜田が出身地との事です。


撮影: 2011年7月

この碑の奥に、浜田護国神社の社殿がありました。
昭和に入って創建された神社です。


撮影: 2011年7月

ここは、柿本人麻呂の終焉の地とも伝わるそうです。
浜田護国神社の裏手から浜田城の本丸への上り口があります。


撮影: 2011年7月

登城道を登り始めたところで古風な門がありました。


撮影: 2011年7月

この門は、元々津和野藩庁で使われていたもので、
1872年(明治4年)に浜田県庁舎の建物の一部として
使用されたものです。

1967年(昭和42年)に現在地に移築されました。
浜田城には、この位置には門はなかったそうです。

津和野城の登城記はこちらです。

浜田県庁の門をくぐり、石段を登って行きます。


撮影: 2011年7月

石段を登り切った先に、出丸を通り、
本丸へと至る景色がありました。


撮影: 2011年7月

このルートは、本丸への近道ですが、当時は、
通路を塞ぐように石垣が設けられていました。

当時は、この先で折り返し、三丸と呼ばれる
小さな曲輪を通って本丸へと向かっていました。


撮影: 2011年7月

石垣と石垣の狭い通路が三丸で、
その先に桝形の二ノ門を通りました。


撮影: 2011年7月

当時は石垣と石垣の間に櫓門が渡っていました。
二ノ門を過ぎると、本丸の虎口があります。


撮影: 2011年7月

この虎口の向こうに本丸が広がっていました。

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本丸から大手門跡へ

浜田護国神社から主郭部の石垣を眺めながら
本丸一の門跡から本丸へと入りました。

浜田城の本丸は、思ったよりも広く
50m四方の空き地が広がっていました。
当時は、本丸の周囲には高い石垣が巡り、
その上に塀が巡らされていたようです。


撮影: 2011年7月

本丸の左奥には天守代用の三重櫓が建っていました。
本丸からは、浜田城の北側にある外ノ浦が見えました。


撮影: 2011年7月

外ノ浦は、江戸時代には奥羽地方から日本海沿岸を
経由して瀬戸内海に向かう西周り航路の廻船が
風待ちをしていた港でした。

外ノ浦は、西周り航路の廻船との間で、浜田藩に
とっては最大の物資流通の拠点だったそうです。

本丸から山を下り、旧浜田県庁の門跡を過ぎます。
当時の本丸への登城道だった御本丸道がありました。


撮影: 2011年7月

御本丸道は幅9メートルもあったそうです。
御本丸道は亀山の麓にある中ノ門から
谷間を通っていたそうです。

御本丸道を横切り、南に進むと煙硝蔵が
建っていた曲輪がありました。

この曲輪が浜田城の二之丸にあたるそうです。


撮影: 2011年7月

浜田城は、1649年(慶安2年)以降は徳川氏譜代の
松平氏と本多氏が城主を務め、長州藩に対する
抑えとしての役割を期待されていたと思います。

幕末の1866年(慶応2年)に第二次長州征伐の際には
徳川慶喜の異母弟の松平武聰が藩主になっていましたが、
大村益次郎率いる長州軍に攻め込まれます。

松平武聰は浜田城を放棄して落ち延びますが、その際に
浜田城に火を放ち、煙硝蔵は大爆発したそうです。

浜田護国神社から、登城した際とは
別の参道を通って麓に向かいました。
その道から中ノ門の石垣が見えていました。


撮影: 2011年7月

浜田護国神社の参道を振り返った様子です。


撮影: 2011年7月

麓まで下ったところで、先ほど眺めた
中ノ門の石垣に向かいました。

中ノ門跡へは、住宅が密集する狭い道を進んでいきます。


撮影: 2011年7月

こんなに細い道を歩いて行っていいのか、と
不安になりましたが、多少迷いながら進むうち
中ノ門跡の石垣に辿り着きました。

中ノ門跡の石垣は、住宅の裏に雑草に
埋もれるように佇んでいました。


撮影: 2011年7月

今は、中ノ門跡の石垣を通って本丸へと向かう道は
整備されていませんが、昔の登城道が復元されると、
浜田城の当時の様子が一層蘇る事と思います。

中ノ門跡から住宅地の間を東に向かい
裏門へと向かいました。


撮影: 2011年7月

住宅地の脇に門跡の碑がありました。
当時は中ノ門と裏門の間には藪があり、
二つの門の間は行き来が出来なかったそうです。

裏門跡を訪れた後、住宅の密集地を抜けて
大手門跡に向かいました。


撮影: 2011年7月

大手門というと立派な櫓門というイメージですが、
浜田城の大手門は簡素な冠木門だったそうです。

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