秋葉神社から本丸へ
浜田駅北口から国道9号線を西に向かいました。
15分程で、城山の交差点に到着します。
撮影: 2011年7月
城山交差点の北側には、浜田護国神社の立派な
鳥居が立っていましたが、この先の亀山の
麓を斜めに上る道を進みました。
撮影: 2011年7月
結論から言うと、浜田城の登城には護国神社の
鳥居をくぐって歩いた方が良かったようです。
斜めに上る道の先には秋葉神社がありました。
撮影: 2011年7月
この秋葉神社は、明治に入ってから創設された神社です。
江戸時代にあったいくつもの神社を合祀しています。
秋葉神社までの区間には、浜田城の縄張り図の案内板はなく、
そのまま奥へと向かう道を一旦進みかけましたが、しばらく
歩いても何もなさそうでしたので、一旦、秋葉神社まで戻り、
折り返しの坂道を上る事にしました。
撮影: 2011年7月
この坂道を登ると浜田護国神社の境内に至ります。
その手前に島村抱月の碑がありました。
島村抱月は明治から大正にかけて活躍した
劇作家で、この浜田が出身地との事です。
撮影: 2011年7月
この碑の奥に、浜田護国神社の社殿がありました。
昭和に入って創建された神社です。
撮影: 2011年7月
ここは、柿本人麻呂の終焉の地とも伝わるそうです。
浜田護国神社の裏手から浜田城の本丸への上り口があります。
撮影: 2011年7月
登城道を登り始めたところで古風な門がありました。
撮影: 2011年7月
この門は、元々津和野藩庁で使われていたもので、
1872年(明治4年)に浜田県庁舎の建物の一部として
使用されたものです。
1967年(昭和42年)に現在地に移築されました。
浜田城には、この位置には門はなかったそうです。
津和野城の登城記はこちらです。
浜田県庁の門をくぐり、石段を登って行きます。
撮影: 2011年7月
石段を登り切った先に、出丸を通り、
本丸へと至る景色がありました。
撮影: 2011年7月
このルートは、本丸への近道ですが、当時は、
通路を塞ぐように石垣が設けられていました。
当時は、この先で折り返し、三丸と呼ばれる
小さな曲輪を通って本丸へと向かっていました。
撮影: 2011年7月
石垣と石垣の狭い通路が三丸で、
その先に桝形の二ノ門を通りました。
撮影: 2011年7月
当時は石垣と石垣の間に櫓門が渡っていました。
二ノ門を過ぎると、本丸の虎口があります。
撮影: 2011年7月
この虎口の向こうに本丸が広がっていました。
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本丸から大手門跡へ
浜田護国神社から主郭部の石垣を眺めながら
本丸一の門跡から本丸へと入りました。
浜田城の本丸は、思ったよりも広く
50m四方の空き地が広がっていました。
当時は、本丸の周囲には高い石垣が巡り、
その上に塀が巡らされていたようです。
撮影: 2011年7月
本丸の左奥には天守代用の三重櫓が建っていました。
本丸からは、浜田城の北側にある外ノ浦が見えました。
撮影: 2011年7月
外ノ浦は、江戸時代には奥羽地方から日本海沿岸を
経由して瀬戸内海に向かう西周り航路の廻船が
風待ちをしていた港でした。
外ノ浦は、西周り航路の廻船との間で、浜田藩に
とっては最大の物資流通の拠点だったそうです。
本丸から山を下り、旧浜田県庁の門跡を過ぎます。
当時の本丸への登城道だった御本丸道がありました。
撮影: 2011年7月
御本丸道は幅9メートルもあったそうです。
御本丸道は亀山の麓にある中ノ門から
谷間を通っていたそうです。
御本丸道を横切り、南に進むと煙硝蔵が
建っていた曲輪がありました。
この曲輪が浜田城の二之丸にあたるそうです。
撮影: 2011年7月
浜田城は、1649年(慶安2年)以降は徳川氏譜代の
松平氏と本多氏が城主を務め、長州藩に対する
抑えとしての役割を期待されていたと思います。
幕末の1866年(慶応2年)に第二次長州征伐の際には
徳川慶喜の異母弟の松平武聰が藩主になっていましたが、
大村益次郎率いる長州軍に攻め込まれます。
松平武聰は浜田城を放棄して落ち延びますが、その際に
浜田城に火を放ち、煙硝蔵は大爆発したそうです。
浜田護国神社から、登城した際とは
別の参道を通って麓に向かいました。
その道から中ノ門の石垣が見えていました。
撮影: 2011年7月
浜田護国神社の参道を振り返った様子です。
撮影: 2011年7月
麓まで下ったところで、先ほど眺めた
中ノ門の石垣に向かいました。
中ノ門跡へは、住宅が密集する狭い道を進んでいきます。
撮影: 2011年7月
こんなに細い道を歩いて行っていいのか、と
不安になりましたが、多少迷いながら進むうち
中ノ門跡の石垣に辿り着きました。
中ノ門跡の石垣は、住宅の裏に雑草に
埋もれるように佇んでいました。
撮影: 2011年7月
今は、中ノ門跡の石垣を通って本丸へと向かう道は
整備されていませんが、昔の登城道が復元されると、
浜田城の当時の様子が一層蘇る事と思います。
中ノ門跡から住宅地の間を東に向かい
裏門へと向かいました。
撮影: 2011年7月
住宅地の脇に門跡の碑がありました。
当時は中ノ門と裏門の間には藪があり、
二つの門の間は行き来が出来なかったそうです。
裏門跡を訪れた後、住宅の密集地を抜けて
大手門跡に向かいました。
撮影: 2011年7月
大手門というと立派な櫓門というイメージですが、
浜田城の大手門は簡素な冠木門だったそうです。
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