浜田城は古田重治
(1578-1625)
によって、
1620年(元和5年)から築城されました。
古田重治は、豊臣秀吉の家臣の子として生まれ、
伊勢の松阪から移封され浜田城を築城し、
浜田藩の初代藩主になっています。
松坂城の登城記はこちらです。
古田重治の子・重恒はお家騒動を起こし改易され、
1649年(慶安2年)に松平康映が播磨山崎から入城します。
その後は、徳川譜代の松平氏、本多氏が城主を勤めました。
浜田城は、標高68メートルの亀山に築かれています。
亀山は浜田川の畔に位置し、浜田川が西側への
天然の堀の役割を果たしていたようです。
亀山の頂上部の本丸に三重櫓が聳えていました。
一段低い二ノ丸に煙硝蔵などがあり、亀山の麓の
三の丸に御殿や役所などが置かれていたようです。
浜田城には2011年7月に登城しています。
その時の様子を紹介します。
JR山陰本線浜田駅から南西に徒歩15分程で、
亀山の麓に到着します。
山陰本線の乗車記はこちらです。
【浜田城登城記】
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浜田駅北口から国道9号線を西に向かいました。
15分程で、城山の交差点に到着します。
城山交差点の北側には、浜田護国神社の立派な
鳥居が立っていましたが、この先の亀山の
麓を斜めに上る道を進みました。
結論から言うと、浜田城の登城には護国神社の
鳥居をくぐって歩いた方が良かったようです。
斜めに上る道の先には秋葉神社がありました。
この秋葉神社は、明治に入ってから創設された神社です。
江戸時代にあったいくつもの神社を合祀しています。
秋葉神社までの区間には、浜田城の縄張り図の案内板はなく、
そのまま奥へと向かう道を一旦進みかけましたが、しばらく
歩いても何もなさそうでしたので、一旦、秋葉神社まで戻り、
折り返しの坂道を上る事にしました。
この坂道を登ると浜田護国神社の境内に至ります。
その手前に島村抱月の碑がありました。
島村抱月は明治から大正にかけて活躍した
劇作家で、この浜田が出身地との事です。
この碑の奥に、浜田護国神社の社殿がありました。
昭和に入って創建された神社です。
ここは、柿本人麻呂の終焉の地とも伝わるそうです。
浜田護国神社の裏手から浜田城の本丸への上り口があります。
登城道を登り始めたところで古風な門がありました。
この門は、元々津和野藩庁で使われていたもので、
1872年(明治4年)に浜田県庁舎の建物の一部として
使用されたものです。
1967年(昭和42年)に現在地に移築されました。
浜田城には、この位置には門はなかったそうです。
浜田県庁の門をくぐり、石段を登って行きます。
石段を登り切った先に、出丸を通り、
本丸へと至る景色がありました。
このルートは、本丸への近道ですが、当時は、
通路を塞ぐように石垣が設けられていました。
当時は、この先で折り返し、三丸と呼ばれる
小さな曲輪を通って本丸へと向かっていました。
石垣と石垣の狭い通路が三丸で、
その先に桝形の二ノ門を通りました。
当時は石垣と石垣の間に櫓門が渡っていました。
二ノ門を過ぎると、本丸の虎口があります。
この虎口の向こうに本丸が広がっていました。
"浜田城"のページに戻る 本丸から大手門跡へ
浜田護国神社から主郭部の石垣を眺めながら
本丸一の門跡から本丸へと入りました。
浜田城の本丸は、思ったよりも広く
50m四方の空き地が広がっていました。
当時は、本丸の周囲には高い石垣が巡り、
その上に塀が巡らされていたようです。
本丸の左奥には天守代用の三重櫓が建っていました。
本丸からは、浜田城の北側にある外ノ浦が見えました。
外ノ浦は、江戸時代には奥羽地方から日本海沿岸を
経由して瀬戸内海に向かう西周り航路の廻船が
風待ちをしていた港でした。
外ノ浦は、西周り航路の廻船との間で、浜田藩に
とっては最大の物資流通の拠点だったそうです。
本丸から山を下り、旧浜田県庁の門跡を過ぎます。
当時の本丸への登城道だった御本丸道がありました。
御本丸道は幅9メートルもあったそうです。
御本丸道は亀山の麓にある中ノ門から
谷間を通っていたそうです。
御本丸道を横切り、南に進むと煙硝蔵が
建っていた曲輪がありました。
この曲輪が浜田城の二之丸にあたるそうです。
浜田城は、1649年(慶安2年)以降は徳川氏譜代の
松平氏と本多氏が城主を務め、長州藩に対する
抑えとしての役割を期待されていたと思います。
幕末の1866年(慶応2年)に第二次長州征伐の際には
徳川慶喜の異母弟の松平武聰が藩主になっていましたが、
大村益次郎率いる長州軍に攻め込まれます。
松平武聰は浜田城を放棄して落ち延びますが、その際に
浜田城に火を放ち、煙硝蔵は大爆発したそうです。
浜田護国神社から、登城した際とは
別の参道を通って麓に向かいました。
その道から中ノ門の石垣が見えていました。
浜田護国神社の参道を振り返った様子です。
麓まで下ったところで、先ほど眺めた
中ノ門の石垣に向かいました。
中ノ門跡へは、住宅が密集する狭い道を進んでいきます。
こんなに細い道を歩いて行っていいのか、と
不安になりましたが、多少迷いながら進むうち
中ノ門跡の石垣に辿り着きました。
中ノ門跡の石垣は、住宅の裏に雑草に
埋もれるように佇んでいました。
今は、中ノ門跡の石垣を通って本丸へと向かう道は
整備されていませんが、昔の登城道が復元されると、
浜田城の当時の様子が一層蘇る事と思います。
中ノ門跡から住宅地の間を東に向かい
裏門へと向かいました。
住宅地の脇に門跡の碑がありました。
当時は中ノ門と裏門の間には藪があり、
二つの門の間は行き来が出来なかったそうです。
裏門跡を訪れた後、住宅の密集地を抜けて
大手門跡に向かいました。
大手門というと立派な櫓門というイメージですが、
浜田城の大手門は簡素な冠木門だったそうです。