湯築城
Yuzuki Castle, Japan


登城日:
2009. 7. 27







【湯築城 概要】


湯築城は1334年から1338年にかけての建武年間に
伊予国の守護、河野通盛が築いたお城です。

讃岐の細川氏に攻められ、一時湯築城を追われますが、
その後に奪還し、相続をめぐる争いで分裂したり、
周辺の豪族から追われたりする事も続いたそうですが、
戦国の末期まで河野氏は続きます。

この河野氏も1585年(天正13年)、豊臣秀吉の四国征伐の際に、
小早川隆景によって攻め滅ぼされたそうです。





湯築城は、道後温泉のすぐ南、
道後公園がその跡地になっています。


湯築城は中央の海抜70mの丘の周囲に、
二重の濠と土塁を円形状に巡らせたお城です。

円形の城郭は死角がなく、守りに堅いと言われますが
湯築城以外では田中城ぐらいしか思い当たりません。

田中城の登城記はこちらです。


湯築城の城址は南北約350m、東西約300mの
広さがあり、道後公園として整備されています。





1987年(昭和62年)に動物園が移転した後に
発掘調査が行われ、道路や礎石、土塀、
更には陶磁器や武具なども出土したそうです。

この調査結果に基づき、湯築城の南半分程は
武家屋敷や土塁などが復元されています。


松山の散策記はこちらです。



【湯築城へのアクセス】


JR松山駅から道後温泉行きの伊予鉄道市内線
路面電車で、道後公園下車すぐです。

伊予鉄道市内線の乗車記はこちらです。





【湯築城登城記】




2009年7月27日、大洲城を訪れ、内子の
町を散策した後に、松山に向かいました。

松山では、湯築城を訪れる予定にしていたのですが、
湯築城の資料館が休館だったので、急遽、その日は
松山城を訪れ、翌日に再度、湯築城を訪れました。

大洲城の登城記はこちらです。
内子の散策記はこちらです。
松山城の登城記はこちらです。

松山に向かった際に乗車した
特急「宇和海」の乗車記はこちらです。


湯築城へは道後公園駅で下車し、すぐです。



道後公園駅からすぐ東側の道後公園の入口が
湯築城跡の入り口になっていました。



復元された土塁の間を抜けて城内に入りました。
その手前で、北側に外堀が延びていました。




城内に入り、時計方向に城址を一巡しました。
遊歩道から、内堀を眺めた様子です。
この辺りは、庭園の様に整備されていました。




この先、湯築城の北の端近くに
石造湯釜がありました。



この湯釜は道後温泉の湧出口に設置するもので、
奈良時代の749年から757年の天平勝宝年間に作られ
1894年(明治27年)まで使用されていたそうです。

湯築城の北端周辺の内堀の様子です。



この辺りの内堀は中央の丘陵地の
すぐ脇を通り、その幅は狭くなっています。

湯築城を2重に囲っていた筈の外堀は、
この辺りは埋められてしまっています。


この先では外堀が残され、内堀は
グランドが造られた為か埋められています。



道後公園の東口辺りの外堀と土塁の様子です。
土塁は申し訳程度に残されているばかりでした。


道後公園の東口を過ぎると、
遊歩道に柵が設けられていました。



ここから南側が当時の湯築城の様子を復元した区域で
自転車などの乗り入れが禁止されています。

復元区域に入ってしばらく進むと、
土塁の内側に遮蔽土塁がありました。



左手の土塁は外堀に沿う土塁
高く築かれています。

右手の土塁が、大手からの侵入者に対し
視界を遮らせる目的で築かれた土塁です。

この辺りは、外堀と内堀の感覚が最も狭いそうで、
湯築城の守りの要になっていたようです。
遮蔽土塁には排水溝も設けられていました。


この遮蔽土塁を過ぎると、中央部の
丘陵地と間に空間が広がっていました。



そこに、建物跡の区画が示されていました。
この辺りは上級武士の居住区だったようです。

この一角には、ゴミ捨て場所だった土抗がありました。



この土抗には備前焼や中国陶磁器が
捨てられていたという事です。

この土抗近くの、中央部丘陵地の眺めです。



岩肌が剥き出しとなっているこの景色は
上級武士達の憩いの場所だったのでしょうか。


この先に進むと湯築城東南の角に至ります。



外側の土塁の裾には低いながらも石垣が巻かれています。
排水溝も残り、城内がしっかり整備されていた事が判ります。



外側土塁の上から上って眺めた様子です。
3〜5m程の高さがあり、通路を見下ろしています。

この近くには、土塁の一部が欠き取られ、
土塁の断面を観察する事が出来ました。



湯築城の外堀土塁は、外堀を掘った土を
掻き揚げて築いたものだそうです。

機械の無い時代に、これだけの土木工事
するのは多くの人手が費やされた事と思います。


この先には庭園の遺構もありました。



周囲の豪族との戦を繰り広げていた事と思いますが
こうした庭園を眺めて、心の疲れを癒していた事でしょう。


更に進んでいくと、土塀で上級武士の居住区と
仕切られた家臣団居住区が復元整備されていました。



この家臣団居住区には、内堀側の
土塁もしっかりと築かれています。

復元された武家屋敷です。



2棟の屋敷が、発見された礎石の
間取りの通りに復元されています。

その内部では、武士たちが連歌で
遊ぶ様子が再現されていました。



家臣団の居住区といっても、位の高い
家臣達の屋敷だったのでしょうか。

武家屋敷の西側の様子です。



土塀が築かれ、外堀土塁との
間が通路になっていました。


家臣団の居住区を訪れると、
湯築城をほぼ一巡した事になります。



城址の西側から上りますが、
公園として整備がされていて、
遺構などは見当たりませんでした。

丘陵地の上の平地です。



中央部の丘の上のこの平地は
詰めの城の役割を果たしていたのでしょうか。



ここからは、遠くに松山城の天守が見えていました。

松山城の登城記はこちらです。



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