春日山城
Kasugayama Castle, Japan


登城日:
2010. 10. 18









【春日山城 概要】


春日山城は、1381年から1383年の永徳年間に
長尾高景によって築かれた山城です。
今の直江津の街にあった越後府中を守る拠点でした。

春日山城は、その後、越後守護代から戦国大名になった
長尾為景、上杉謙信、景勝が3代に亘って拠点としています。

上杉景勝が会津に移封されると1598年(慶長3年)に、
堀秀治がこの地に移りますが、その子・忠俊の時の
1607年(慶長5年)に春日山城を廃し福嶋城に移っています。

ちなみに、堀氏は1610年(慶長10年)に取り潰されてしまいます。
その際、家臣だった堀 直寄はその後大名に取り立てられ
長岡城や村上城の整備を行っています。

長岡城の登城記はこちらです。
村上城のの登城記はこちらです。



春日山城は直江津の南西約3km程の所にあります。





標高189mの春日山の山頂に本丸があり、北側の尾根は
毘沙門堂や直江屋敷を経て中腹の千貫門へと至ります。

本丸の南には二の丸、三の丸を配し、その更に南の
上杉景勝屋敷や柿崎和泉守屋敷から大手道を経て、
麓近くの南三の丸へと至る事が出来ます。



春日山城は日本100名城に指定されています。


この春日山城に2010年10月に初めて訪れました。
その際の様子を紹介します。



【春日山城へのアクセス】


JR直江津駅から頸城自動車のバスで
ものがたり館入り口または林泉寺入口下車。

林泉寺入口から麓近くの春日山神社まで
徒歩約20分です。


またはえちごトキめき鉄道春日山駅から
春日山神社まで徒歩30分程です。


JR直江津駅までの信越本線の乗車記はこちらです。






【春日山城登城記】


東城砦
June 17, '16

春日神社から林泉寺
June 23, '16

御屋敷から直江屋敷
June 25, '16

お花畑から本丸
June 29, '16

大井戸と上杉景勝屋敷跡
July 03, '16

二の丸と三の丸
July 09, '16

大手道と南三の丸
NEW ! July 12, '16





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東城砦







春日山城の北東の麓,直江津の街に
最も近い所に東城砦があります。





直江津駅からのバスをものがたり館入り口で下車すると
すぐ近くに,そのものがたり館がありました。


撮影: 2010年10月

この辺りは,東城砦があり、また春日山城の
東側の麓を囲っていた総構の監物堀が復元され、
史跡広場として整備されています。

このものがたり館に日本100名城のスタンプが置かれています。
訪れた日は休館日でしたが、ドアの外にスタンプを押した紙が
ビニール袋に入れられ、必要な枚数を取り出せました。

所によっては、休館日にはスタンプを押すことが出来ずに、
再訪せざるを得ない所もあるので、こうした配慮は嬉しい限りです。

ものがたり館の前には監物堀が復元されていました。


撮影: 2010年10月

当時、この監物堀の総延長は1200mにも及んだそうです。
監物堀の内側には土塁が築かれ、
その上には柵が張り巡らされていました。

楼門跡から監物堀で囲まれた城内へと足を踏み入れました。
広々とした空き地が広がっています。


撮影: 2010年10月

ここには道路や排水溝築かれ、
掘立ながら建物跡も確認されているようです。


撮影: 2010年10月

この辺りには兵士が駐屯していたのでしょうか。

この北側に東城砦跡の丘陵地が広がっていました。


撮影: 2010年10月

丘陵地を上りはじめたところにあった虎口です


撮影: 2010年10月

この虎口を抜けると50m x 30m程の曲輪がありました。
周囲はしっかりと土塁に囲まれていました。
地図ではこのあたりは中屋敷と記されています。


撮影: 2010年10月

上の写真右側の土塁の向こう側に規模の大きな
薬研堀があるそうですが、見逃してしまいました…

曲輪の中には小屋が建てられていました。
この小屋は当時の掘立柱建物跡に建てられています。

曲輪の反対側にも虎口がありました。


撮影: 2010年10月

この虎口の向こうには池がありました。


撮影: 2010年10月

当時は東城砦を守る堀の
役割をしていたのでしょうか。


東城砦を訪れた後、再び広々とした
監物堀に囲われた曲輪へと向かいました。


撮影: 2010年10月

今は史跡広場となっているこの曲輪も
全長1200mもあった監物堀も規模は大きいのですが、
春日山城の本丸は、ここからは見る事が出来ません。

春日山城が如何に大きなお城だった事かと思います。


監物堀の南側は、いくつか折れも見られました。


撮影: 2010年10月

曲輪の内部には道路跡も発掘され復元されていました。


撮影: 2010年10月

この史跡広場を抜け、林泉寺を目指しました。


撮影: 2010年10月

黄色い花は綺麗に咲き、その向こうに
東城砦跡が見えていました。



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春日神社から林泉寺







監物堀に囲まれた史跡公園と東城砦跡を
訪れた後に林泉寺に向かいました。

東城砦跡から続く丘陵地から南に向かうと
山頂が平たい山が見えてきました。


撮影: 2010年10月

この山が鉢ヶ峰山(別名: 春日山)で、上杉謙信が
居城とした春日山城はこの山に築かれていました。

この景色を眺めた北側に
立派な鳥居が見えていました。


撮影: 2010年10月

この神社は春日神社といいます。





春日山の名前の由来は、鉢ヶ峰山の山頂に
奈良の春日神社を勧請した事に由来するそうです。
時は958年(天徳2年)の事と言われています。

1303年頃の永徳年間に春日山城が築城されると、
春日神社は、春日山城の鬼門にあたる現在地に
遷座したという事です。


撮影: 2010年10月

石造りの二の鳥居を抜けると杉の木立に囲まれた
参道となり、丘陵地の上にある本殿へと向かいます。

ひっそりと佇む春日神社の社殿です。


撮影: 2010年10月

平氏の流れをくむ春日山城主の長尾氏は
藤原氏の流れをくむ関東管領・上杉氏を相続しますが
この春日神社は藤原氏の祭神を守り続けた様です。

ちなみに徳川幕府が成立すると、1611年に
50石の寄進が行われ、それ以来毎年神領として
朱印地50石は明治まで続けられたそうです。


この後、西に500m程のところにある林泉寺に向かいました。





林泉寺は1497年(明応6年)に、上杉謙信の祖父・長尾能景が
その父・重景の17回忌に建立した曹洞宗のお寺です。

上杉謙信も幼少の頃、この林泉寺で修業したそうです。
林泉寺の境内の入り口に建つ惣門です。


撮影: 2010年10月

室町時代から江戸時代初期にかけて
建てられたと言われています。

春日山城の搦手門を移築したという説もあるそうです。


この先に1925年(大正14年)に再建された山門がありました。


撮影: 2010年10月

門の両脇に控える仁王像です。


撮影: 2010年10月

仁王像も歴史を感じさせる古いものですが、
1925年(大正14年)に直江津の彫刻家・
滝川美堂作が作ったものです。


この山門を抜けて振り返ると
「第一義」の額が掲げられていました。


撮影: 2010年10月

この額は、戦国の世の中にあって
義を貫いた謙信自身が掲げたそうです。

いま山門に掲げられている扁額はレプリカで
オリジナルは宝物館に収められています。


この宝物館は上杉謙信ゆかりの展示も
多く、是非訪れる事をお勧めします。

境内の一番奥にあった本堂です。


撮影: 2010年10月

この本堂も新しいもので1997年
(平成9年)に再建されたものです。


この境内の左手(南側)の
小高い丘に墓地がありました。


撮影: 2010年10月

階段を上り、墓地に向かいました。
この墓地には歴代の春日山城主のお墓があります。


撮影: 2010年10月

生い茂った木立の間から、良く生えた
苔の上に日差しが届いています。

日差しの陰影が深く墓地とは思えない光景でした。

まず上杉景勝の後に春日山城主となった
堀秀治、堀秀重、堀秀政のお墓がありました。


撮影: 2010年10月

堀秀治は春日山城に移封になり、その後
越後福嶋に城を築き、その藩主になった人です。
堀秀政は堀秀政はその父、秀重は祖父にあたります。


この先には川中島合戦の犠牲者を
供養する五輪塔がありました。


撮影: 2010年10月

この供養塔はかなり大きなもので、
目立っていました。

その供養塔の横に上杉謙信のお墓がありました。


撮影: 2010年10月

上杉謙信が亡くなった後、その遺骸は鎧兜を
身に着けた状態で葬られたとも言われています。

上杉家が移封になった際、謙信の遺骸は
会津に運ばれたとも言われていますが、
実際はどうなのでしょうか。

この奥には謙信の父、祖父にあたる
長尾為景と長尾能景のお墓もありました。


撮影: 2010年10月

この二人のお墓は、小さく
ひっそりとしていました。



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御屋敷から直江屋敷







林泉寺を訪れた後に、いよいよ春日山城へと向かいました。
のどかな山里の集落地を抜けて坂道をゆくと、
10分程で春日山の麓に辿り着きました。

この急で長い石段を上った所に
春日山神社があります。


撮影: 2010年10月

春日山城の登城はこの神社の石段から始まりますが
その前に、この石段の手前右手に進んでいきました。
この先に御屋敷跡があります。


撮影: 2010年10月

思いがけずに広い平地が広がっていました。
ここに城主の屋敷があったと伝わっているそうですが、
上杉氏の後に春日山城に入った堀氏の時代なのか
謙信や景勝の頃の話なのでしょうか。

山頂の本丸近くに直江屋敷跡や上杉景勝屋敷跡
などがあり、謙信の時代は平時でも山頂が
活動の拠点だったような気もします。


御屋敷跡を訪れた後、石段を上った
所にある春日山神社に向かいました。


撮影: 2010年10月

この神社は上杉謙信を祀っていますが、
創建されたのは明治に入ってからです。

この神社の脇の高台の上に上杉謙信の像がありました。


撮影: 2010年10月

この像はちょっと離れた所にあるせいか
ちょっと小さく見えます。

この像の前は神社の駐車場になっています。


撮影: 2010年10月

当時、謙信像のある高台の下には空堀があり、
駐車場になっている所は馬場だったそうですが
今ではその面影もありません。


この駐車場脇から山頂へと向かう道が伸びていました。
この道を上っていくと、春日山の山頂が見えてきました。


撮影: 2010年10月

車も走れるような道をしばらく歩いて行きましたが
やがて整備された登城道を上りました。

この辺りからいよいよ山城攻略という雰囲気になりました。
麓の監物堀で囲われた史跡広場の様子とは
全く異なる光景です。


撮影: 2010年10月

しばらく上ると、帯曲輪に出ました。
(下の写真左側です)


撮影: 2010年10月

この帯曲輪をまっすぐ進むと、本丸の南に
ある二の丸へと行く事が出来るようです。

右手には虎口があり、本丸の北側の直江屋敷に
上る道と、帯曲輪と反対の方向に進み、
千貫門へ至る道とに分かれていました。
(上の写真右側です)

一旦戻る形になりますが、千貫門へと向かいました。
その途中、深く切れ込んだ空堀を見下ろします。


撮影: 2010年10月

ここを抜けると上杉少弼入道宅跡の
曲輪となりました。


撮影: 2010年10月

今は、木々が立ち込めていますが
当時はここに屋敷が建っていたようです。

ここから坂道を下ると千貫門跡の曲輪に出ました。


撮影: 2010年10月

千貫門は、古くから置かれていた門で
春日山城の搦手にあたります。

門の案内板の奥には、曲輪が広がっていました。
先ほど、上から眺めた空堀の他に
もう一つ、堀切状の空堀がありました。


撮影: 2010年10月

この先は断崖になっていて、この堀底の道を進んだ
敵兵をそこから落とす目的があったようです。

千貫門の前の道をは春日山神社に繋がっているようです。
一旦降りてみましたが、神社迄は距離がありそうで
すぐに千貫門まで戻りました。


撮影: 2010年10月

下から眺める千貫門跡です。
この坂道を虎口まで引き返しました。


撮影: 2010年10月

今度は、坂道を上り直江屋敷に向かいます。

ここからはしばらく急な坂が続きました。
折り返しの急坂をしばらく上ると
細長い曲輪が見えてきました。


撮影: 2010年10月

この先に二段目の曲輪があり、
その更に先に三段目の曲輪が現れました。


撮影: 2010年10月

これら3段の曲輪が上杉家の重臣の
直江氏の屋敷跡だったようです。

直江氏は元々は頸城郡直江庄の領主だったようですが
戦国時代には本与板城主となり、直江景綱が
謙信の旗本として重用されるようになったそうです。

養子となった直江兼続が景勝を補佐し、上杉氏が会津に
移封になった際には秀吉から30万石を授かっています。



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お花畑から本丸







直江屋敷の3段目の曲輪の先は、山が迫っています。


撮影: 2010年10月

本丸へは綺麗に整備された登城道を上って行きます。
一段高い所に、曲輪がありました。


撮影: 2010年10月

ここはお花畑と呼ばれています。
ここでは薬草や春日山城にあるお堂に
備える花を育てたそうです。


このお花畑の曲輪の一段上に、
毘沙門堂が復元されていました。
1931年(昭和6年)に建てられています。


撮影: 2010年10月

元にあった場所ではなく不識院跡の脇に建てられています。
この毘沙門堂に収められている毘沙門天像です。


撮影: 2010年10月

謙信は自分を毘沙門天の生まれ変わりと信じ、
日々、毘沙門堂に籠って祈っていたと伝わります。

この毘沙門天は、謙信が祈りっていたオリジナルではなく
高村光雲が謙信の持っていた毘沙門天像を修復した際に
分身として作成した像をここに収めているようです。

この復元された毘沙門堂から一段高い位置に
護摩堂の跡がありました。


撮影: 2010年10月

護摩堂で謙信は戦勝や息災を祈祷したと言われています。

この先、更に一段高くなったところに
諏訪堂と元々の毘沙門堂跡がありました。


撮影: 2010年10月

ここに戦の前に謙信が籠っていた筈で、
それを思うと400年前に行ってみたくなりました。


この辺りは山頂も近く、もうあまり急な坂道はありません。


撮影: 2010年10月

帯曲輪のようなところを歩いて行きました。
このあたりに休憩所があったと思います。

この先で視界が開け、日本海から
上越市の市街地が見渡せました。


撮影: 2010年10月

とても広々とした光景です。
謙信も、毎日この雄大な景色を眺めていた事でしょう。

この先で二の丸がすぐ下に見えてきました。


撮影: 2010年10月

まずは二の丸に立ち寄って本丸に行くべきでしょうが、
気持ちが逸るので、最後の坂を上って本丸に向かいました。


撮影: 2010年10月

この坂道を登り、春日山城の本丸に辿り着きました。


撮影: 2010年10月

赤土の本丸は意外に狭いものでした。
本丸には城址碑や案内板が幾つもありました。

その中に謙信が詠んだ漢詩がありました。


撮影: 2010年10月

九月十三夜 陣中の作です。
七尾城を陥した際に詠ったそうです。


本丸の南側には空堀があり、
その先に天守台があります。


撮影: 2010年10月

空堀の先は、二の丸や西側の大井戸へと繋がっていました。


撮影: 2010年10月

空堀を超えて辿り着いた天守台です。


撮影: 2010年10月

当時も安土・桃山以降に建てられた様な
立派な天守は建てられていなかったようですが、
物見櫓程度の建物はあったのではないでしょうか。

この天守台からの眺めは素晴らしいものがありました。


撮影: 2010年10月

直江津の先の日本海から妙高山へと続く山並みと
周囲の様子が一望の下でした。



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大井戸と上杉景勝屋敷跡







本丸から西側の坂道を下って行きました。
この階段を下ると大井戸があります。


撮影: 2010年10月

山城での最大の課題は水の確保ですが、
本丸のすぐ近くに井戸があったのは、規模の大きな
春日山城にとっては特に重要な事だったと思います。


撮影: 2010年10月

数十年前に、この井戸をさらった際には
滑車や杓が見つかっていたそうです。

大井戸は大井戸曲輪と呼ばれる小さな曲輪にあります。



撮影: 2010年10月

本丸の切岸はかなり急になっていて
油流しと呼ばれているそうです。

急勾配の切岸に油を流し、
敵の侵入を防いだのでしょうか。


この井戸曲輪の南側に虎口がありました。


撮影: 2010年10月

この虎口を抜けると深い堀切がありました。
井戸曲輪の上からみると、その堀切が
いかに深く切れ込んでいるかが判ります。


撮影: 2010年10月

堀切の深さは10m近くにもあるでしょうか。


撮影: 2010年10月

この堀切の反対側の階段を
上っていくと鐘楼跡に出ました。


撮影: 2010年10月

30m四方程の狭い曲輪です。
木々が生い茂っていて一見判り難いですが、
周囲より一段と高くなっています。

この鐘楼跡の南側にも堀切がありました。


撮影: 2010年10月

堀切の先に5mの高さの曲輪がありました。
ここが上杉景勝屋敷跡です。


撮影: 2010年10月

上杉景勝は信の養子で、死後に上杉景虎との
相続争いに勝ち、家督を継いでいます。

屋敷跡は本丸に近く、大手道へもアクセスしやすい位置ですが、
東に開けた春日山城では、南西の、山影に当たるような場所で、
周囲を木々に覆われていたせいか、あまり広くは感じられず
また見通しも効かない場所だった為、少々意外でした。


上杉景勝屋敷跡から東に向かうと御成街道に出ました。


撮影: 2010年10月

謙信の時代に、関白・近衛前嗣が春日山城を訪れた際に
この道を通った為に、この名が付いたようです。

この御成街道には日が差し込め、
東側の眺望も開けていました。

上の写真の方向に向かうと二の丸に行くことが
出来ますが、上杉景勝屋敷跡の一つ南にある
柿崎和泉守屋敷跡に向かいました。


撮影: 2010年10月

坂道を下ると、空堀に囲まれた
柿崎和泉守屋敷が見えて来ました。

謙信の時代、柿崎家の当主は柿崎景家でした。
景家は第四次川中島の戦いで武田軍を壊滅寸前まで
追い込んだ武功を立てているようです。

柿崎和泉守屋敷は、上杉景勝屋敷と比べると
とても広く、長辺200m、短辺も100mはあると思います。


撮影: 2010年10月

景勝屋敷よりも低い位置にあるものの、
広さや東側の眺望を考えると、こちらの
屋敷の方が格が上のようにも思えました。



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二の丸と三の丸







柿崎和泉守屋敷から大手道を戻り、
二の丸に向かいました。



上杉景勝屋敷跡から堀切を抜けて出た
御成道まで戻りました。



ここから更に北に向かいます。
順序からすると、上杉景勝屋敷跡から真っすぐ
二の丸に向かったほうが効率的だったようです。

再び登り坂になりました。



この先で道を間違えたのか、更に急坂を
上ると、二の丸を見下ろす位置に来ました。



毘沙門堂から本丸へと向かう前に眺めた景色です。
ここから上ってきた坂道を下り、二の丸に向かいました。



二の丸は本丸の直下にあります。
山の中腹の細い帯状の曲輪です。

御二階、台所とも呼ばれていたそうで、櫓が建ち
城内の食料供給基地になっていたのでしょうか。


二の丸から坂道を下り三の丸を目指しました。



三の丸の手前で、大きな竪堀がありました。
この竪堀の先に土塁がありました。



この土塁は立派なもので、三の丸の北側を護っています。
当時はこの土塁の上に板塀なども置かれていたでしょうか。

この土塁で囲まれた一角に米蔵があったようです。



城内では食料は、水に次いで重要な資源です。
それを護るために、立派な土塁が築かれていた事でしょう。

土塁からは、谷の向こうに、
謙信像から歩いた林道が見渡せました。



対岸の山の中腹に虎口や帯曲輪が見えています。


そして米蔵の奥に上杉三郎景虎屋敷跡がありました。

上杉景虎は北条氏康の子供で、人質として春日山城に入り、
謙信の姪(上杉景勝の姉)と結婚しえたそうです。
1570年(永禄13年)の事です。



その後、謙信が急逝すると、上杉景勝との間で
家督争いとなりますが、敗れて自刃してしまいます。


この上杉景虎の屋敷に佇んでいると、
謙信は、景勝と景虎のどちらに家督を
譲るつもりであったのだろうか、と思います。

この景虎の屋敷は、低い位置にはありますが、
開けた春日山城の東側に面し、
重要な位置にあるように思います。

屋敷の位置からは景虎に軍配が
上がっていたように思えました。



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大手道と南三の丸







三の丸を訪れたのち、再び
柿崎和泉守屋敷に戻りました。


撮影: 2010年10月

ここから大手道を通り、麓に戻りました。

この柿崎和泉守屋敷の南側から
狭く急な坂道を下っていきました。


撮影: 2010年10月


下り坂なので苦になりませんでしたが、
麓から上ると、比較的急な坂道がしばらく
続くので、ちょっと大変かと思います。


やがて林間を行くようになりました。


撮影: 2010年10月

大手道は、本丸から春日山城の南側を
大廻するような感じで、麓まで続いています。

大手道の両脇に土塁が築かれ、竪堀の中を
通るようになっている箇所もありました。


撮影: 2010年10月

攻め寄せる敵への攻撃に適した
防御性の高い造りです。


この林を抜けると、広い空き地が広がってきました。
2段ほどに分かれて空き地が広がっています。


撮影: 2010年10月

この場所が南三の丸です。
ここには門があり、春日山城の中でも
重要な屋敷が建っていたそうです。


山城の麓に位置する平時の居館があった根古屋の
位置づけかとも思ったのですが、春日山神社近くの
御屋敷跡周辺の整然とした曲輪と比べると、
ここは古い形と案内板には書かれていました。


南三の丸の案内板のあった辺りの様子です。


撮影: 2010年10月

当時、南三の丸の北側を城内、
ここから先を城外としていたそうですが、
この先にも城の範囲は広がっていました。


ここを過ぎると土塁があり、大手道は
その陰を進むようになっていました。


撮影: 2010年10月


ここから再び山間に入り、下り坂となりました。


撮影: 2010年10月

大手道は、懐の深い春日山の縁を大廻しているのか
思っていたいた以上に長い距離になっています。

林を抜け、車の走れる道に出ました。


撮影: 2010年10月

この先で再び広い空間に出ました。


撮影: 2010年10月

南三の丸と同じように段差で区切られた
平坦な土地が広がっています。

当時ここには番所があり、上の写真右に写っている
土塁の上に木戸が作られていたそうです。


この番所からは本丸が良く見渡せました。


撮影: 2010年10月

案内板によると、晩秋から春先にかけて、
この辺りから眺める本丸は絶景との事でした。


この先で再び、林の中を行くようになりました。


撮影: 2010年10月

緩やかな坂道を下っていきます。


撮影: 2010年10月

こうして、ようやく麓まで下りてくる事が出来ました。


撮影: 2010年10月

本丸直下の二の丸から30分近く掛かったでしょうか。
大手道は、思いのほか距離が長く時間も掛かりました。

この辺りから眺める春日山城本丸の様子です。


撮影: 2010年10月

春日山城に上る前には陽を浴びていましたが、
5時間程かけて登城するうちに、陽も西に回り
日陰になっていました。



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