今帰仁城
Nakagusuku Castle, Japan


登城日:
2008. 07. 05







【今帰仁城概要】

琉球の歴史は、延祐年間(1314年〜1320年)に国政が乱れ、
山北・中山・南山の3つに分立し三山鼎立の時代に入ります。
今帰仁城は、山北の中心的なグスクだったようです。

この三山鼎立の時代は100年近く続くのですが、
15世紀前半の山北王・攀安知は武勇に優れ
その有力家臣・本部平原とともに
中山王・尚思昭を攻めることを計画します。

この企ては山北の羽地按司が、尚思昭に告げ、
尚思昭は世子の巴志に山北攻撃を命じ、
国頭按司や名護按司も中山軍に加わり、
山北は滅亡したそうです。
1416年(または1422年)の事だそうです。

この山北の滅亡の後も今帰仁城には
監守が配置されていたそうです。
1609年には薩摩軍の侵略を受け
城は炎上してしまったそうですが、
監守は1665年まで続いたそうです。


今帰仁城は沖縄本島北部の
本部半島の北側にあります。




本部半島の先から緩やかな傾斜が
続く内側に入った位置にあります。

海岸からは1.5km程入ったところにあり
南側に山麓を控えています。

東側は切れ込んだ志慶真川の峡谷があり
天然の要害になっています。


今帰仁城の築城時期は判っていないそうですが、
13世紀末から14世紀初め頃の建物跡が
確認されているそうです。
その後、14世紀中ごろに石垣が築かれるようになり
15世紀にかけて、現在残る姿に拡張されたそうです。





北側から外郭、大隈と二重、三重の石垣が続き、
一段高い、大庭・御内原そして本郭と続いています。
城郭の東側、一段低いところに
志慶真門郭が位置しています。

2008年7月5日に、この今帰仁城を訪れました。
その時の様子を紹介します。



【今帰仁城へのアクセス】


名護バスターミナルから66番系統で
今帰仁城入り口で下車。
バス停からは約1.0km程の距離です。

名護バスターミナルへは、那覇空港から
高速バス111番系統で約1時間45分、
または那覇バスターミナルから20番・120番系統で、
恩納村のビーチを走りながら約2時間15分です。

沖縄のバスマップはこちらです。
66番系統の路線図はこちらです。
66番系統の時刻表はこちらです。
111番系統の時刻表はこちらです。
20番・120番系統の時刻表はこちらです。





【今帰仁城登城記】



外郭
NEW ! Nov. 09, '09

大隈 (うーしみ)
Nov. 11, '09

大庭 (うーみゃ)、御内原 (うーちばる)
Nov. 16, '09

主郭、志慶真門郭
NEW ! Nov. 19, '09

"日本全国お城巡りの旅"に戻る

Shane旅日記 日本編に戻る


外郭


座喜味城を訪れた後、恩納村のビーチに沿って
国道58号線を北上し、長躯、本部半島の
先端に近い、今帰仁城を訪れました。

座喜味城の様子は
こちらです。
”読谷村から恩納村へ、東シナ海に沿って”
の様子はこちらです。


鄙びた景色の中を車を走らせていると、
立派な今帰仁グスク交流センターや
今帰仁村歴史文化センターが現れてきます。

今帰仁グスク交流センターで入場券を購入し
日本100名城のスタンプを押して
いよいよ今帰仁城を目指しました。


道路を渡って今帰仁城に向かうと、
今帰仁城跡の模型が置かれていました。



曲がりくねった石垣が幾重にも取り囲んだ
今帰仁城の縄張りがよくわかり、
早く城址を見たいと、気持ちが逸ります。

この城跡の模型の先には
崩れかけた石垣が見えていました。



そして、今帰仁城の西側を南北に貫く道路を渡ると、
蛇がうねっているような石垣が見えてきました。



石垣の背は低く、発掘中の青シートが
至る所に敷かれています。

今帰仁城の最も北側にある外郭の石垣で、
1975年(昭和50年)、沖縄海洋博覧会の
工事中に発見されたそうです。

石垣に沿って、奥に入っていくと
今帰仁ノロ殿内火の神の祠の碑がありました。



この奥に祠があったと思うのですが、
この時はこの碑をみつけて満足してしまいました。

後で調べてみると、今帰仁城の周囲には
3つのこうしたノロ殿内火の神の祠があるそうです。
ノロは地域の祭祀を取りしきり、
御嶽を管理する女司祭の事だそうです。


今帰仁ノロ殿内火の神の祠の碑の
辺りから眺めた外郭の石垣です。



野面積のような積み方の石垣です。
青い空に、崩れかけた石垣を
眺めていると、まるで遺跡のようです。

外郭の中に入ると古売利殿内火の神の祠がありました。



コンクリートで囲われた祠ですが、
発掘調査中なので、この場に
仮置きされているようです。

今帰仁城にはこうした祭祀の場所が数多くあります。
監守が今帰仁城を去ってから、今帰仁城が
信仰の場として、人々の心に生き続けたのでしょう。


外郭の中の発掘現場の様子です。



うねる様な石垣が見事です。
崩れかかった石垣が復元され、
いつの日にか往時の姿が蘇るのでしょうか。

外郭から眺めた大隈の石垣です。



大隈は外郭の内側にある郭で、
ここの石垣も屏風の様に波打っています。


外郭から今帰仁城の正門に
あたる平郎門へと向かいました。



その手前にある今帰仁城の城碑と
世界遺産認定の碑です。

大隈の石垣がすぐ近くに聳えています。



高さは5m程もあるでしょうか。
屏風の折れ目にあたる尖った部分が
空に突き出ているようでした。

その石垣の脇に平郎門がありました。



中城城や座喜味城で見たアーチ状の石門ではなく、
その天井は一枚岩で支えられています。
門の左右には矢や鉄砲を
撃ちかける狭間もありました。

この平郎門は1962年(昭和37年)に
復元されているそうです。

中城城の様子はこちらです。
座喜味城の様子はこちらです。



"今帰仁城"のTopに戻る





大隈 (うーしみ)


平郎門をくぐると、まっすぐに
伸びる参道が続いています。



参道の両側には寒緋桜が植えられています。
暖かい沖縄では1月末から
2月初めに満開を迎えるそうです。


平郎門をくぐった右手には石段が続き、
門の脇の石垣に上る事が出来ます。



この箇所はアザナと呼ばれる物見台でした。

アザナから眺める平郎門の様子です。



木々の間に見える古い様式の石垣と門が
南国の太陽に明るく照らされていました。

そして、アザナから主郭の方角を眺めました。



崩れかかった石垣が続く向こうに、
木々に覆われた主郭が見えています。

古城の趣に溢れる光景でした。


アザナから下り、平郎門から続く参道を歩きだすと
左手に石垣の一部が崩れたような箇所がありました。



「大隈」という小さな案内板が書かれていて
崩れた石垣には人が出入りして
踏み固められたような跡があります。

その跡が、石垣の奥の木々の間に続いています。
整備された道はなく、立ち入っていいのかどうか
ちょっと迷いましたが、石垣を越えて
中に入っていくことにしました。

立ち木の間を抜け、石垣に沿って
「大隈」の郭の中に入っていきました。



「大隈」の郭は、北側にある石垣と、
南にある一段高い御内原の間にあり、
起伏が激しく、中央が窪地になっていました。



斜面にゴツゴツとした岩が露出し、
荒れ果てた遺跡のようです。

一段高いところに築かれた石垣です。



外郭との境にあるこの石垣は
小さな石を積み上げて築かれ
うねる様に曲がっています。

切石で築かれた中城城や勝連城、
座喜味城の石垣に比べると野趣に富み、
より一層古城の雰囲気を醸し出しています。

石垣の袂から眺めた「大隈」の様子です。



この「大隈」では大量の馬の骨が出土したそうで
ここは城兵の武闘訓練の場所だったと
考えられているそうです。

この荒々しい曲輪の地形を利用し、
兵士達の訓練が行われていたのでしょう。


この「大隈」には城外への
抜け道とされる洞窟もありました。

石垣から駆け下り、御内原へと続く
斜面の下のほうに、その洞窟がありました。



入り口には金網が掛けられていますが
人も入れる大きさの洞窟です。
今は、土砂が崩れ、城外へは
抜けられないそうです。

南国の太陽に照らされた大隈の光景が
名残惜しく、立ち去りがたい気持ちでしたが、
この洞窟を見て、先に進むことにしました。



石垣と、岩肌がむき出しになった
大きな起伏のなかに立つ木々の光景に
不思議と厳かさを感じました。

「グスク」が信仰の対象になったのが
少しながらわかる様な気がしました。


「大隈」から再び、参道へと戻りました。
参道の先は、七五三階段へと続いています。



平郎門から七五三階段へと続く
直線状の道は、戦前に地元の人が整備し、
戦後は米軍の車両が、この道を通ったそうです。

参道の右手に、崩れかかった石垣の下に
岩が剥き出しになっている「カーザフ」がありました。



「カーザフ」の語源は「川迫」で、
岩が壁のようになっている低地のカーザフは
城の西側の堅牢な護りになっていたと思います。


七五三の階段を進むと、
右手には旧道がありました。



当時の今帰仁城の主郭への登城道です。
生い茂る草木に古い石段が続いていました。

七五三階段を上っていくと、いよいよ
今帰仁城の主郭とそれを取り囲む
御内原や大庭の郭へと続きます。


七五三階段から平郎門を振り返ってみました。



階段の両脇の寒緋桜の並木道、
そして崩れかけた石垣の向こうに
青い東シナ海が見えていました。

穏やかな、そして琉球の古を
感じさせてくれるような光景でした。



"今帰仁城"のTopに戻る





大庭(うーみゃ)


七五三階段を上り詰めると、
大庭(うーみゃ)の石垣が見えてきました。



今帰仁城の最高所には主郭と
それを取り囲む「大庭(うーみゃ)」、そして
「御内原(うーちばる)」の3つの郭があります。

下の写真は「大庭(うーみゃ)」の様子です。



「大庭」には南殿と北殿の二つの
建物が建てられていたそうです。

上の写真、右側の写真が南殿のあった辺りです。
左の写真の石垣は主郭の石垣で
この左手に北殿がありました。



この北殿跡には神ハサギ跡もあり
重要な祭祀の場所になっているようです。


「大庭」には志慶真乙樽の歌碑も立っていました。



" 今帰仁の城  しもなりの九年母
   志慶真乙樽が
     ぬきやいはきやい"

山北王の側室だったしげま村の乙樽に
子供が授かった事をそれを喜び、
子供のはしゃぐ声に満ちた
城の様子を謡っているそうです。

「大庭」は、神ハサギ跡以外にも
祭祀にまつわる史跡や御嶽があります。

その一つの「ソイツギ」です。






御内原(うーちばる)


ここから更に一段高い所に
御内原(うーちばる)があります。



御内原は、大隈を見下ろす一段高いところにあり、
その北の端に立つと、大隈の石垣の向こうに
遠く東シナ海が見えてきました。



遠く、東シナ海に浮かぶ島影は
伊是名島と伊平屋島と思います。

明るい日差しが照りつけ、青い海に浮かぶ
青い島影ですが、神々しい感じが伝わってきます。

この伊是名島と伊平屋島が望める場所は
石垣が崩れたように石が積み重なっていたのですが
この島を拝む場所だったような気がします。

御内原は、かつて女官の部屋があった郭で、
城内で最も崇高な場所とされ、男子禁制の
御嶽「テンチジアマチジ」があったところです。



郭の中には木が生い茂り、
神聖な佇まいを残しています。

「御内原」の西側の端に立つと、眼下に「大隈」を見下ろし、
今帰仁の集落の向こうに東シナ海を望む、景勝の地です。



百曲がりと称えられる「大隈」の石垣が
手に取るように眺めることが出来ました。

その石垣の向こうの青い海が
なんとも言えない程、綺麗でした。



「大隈」の東側には切り立った
志慶真川の峡谷が見えています。



この深い谷は、敵兵を寄せ付ける
ことは無かったと思います。

素晴らしい眺望の「御内原」の北東端から
南に向かい、本郭を目指しました。





"今帰仁城"のTopに戻る





主郭


御内原から木々の間を抜けて
主郭に向かいました。



主郭は綺麗に整地され
その周囲を石垣で囲われています。

主郭の中ほどに石垣が東西に渡り
主郭が南北の二つの区画に分けられていました。

その石垣の一部が欠き取られ、
主郭の地層が表示されていました。



平らになっている主郭の元の地形は
石灰岩で出来た丘陵地の尾根だったそうです。
ここを平坦な地層にする為に、中央を削り、
左右の低い土地には、周囲に石垣を築き
その内側には土を硬く突き固めた層を
幾つも重ね、平坦な地面を築いているそうです。

主郭の東側の石垣から東シナ海が
遠く眺める事が出来ました。



石垣の下には志慶真門郭の
全貌が広がっています。

この志慶真門郭の石垣も見事なものでした。

主郭の南側中央には、
中山王から派遣されていた
監守が1665年に引き上げた頃に、
置かれた火神の祠ありました。



火神の祠の脇には「山北今帰仁城
監守来歴碑記」が立っていました。
1749年(尚敬王37年)に立てられたそうです。

火神の祠の前には、正殿の
礎石が整然と並んでいました。



当時は、どんな建物が
建っていたのでしょうか。


正殿の南の端の石垣の一角に
志慶真門郭へと通じる門がありました。



石垣の一角に崩れかかった石門に
木製の枠で支えがしてありました。

ここをくぐって志慶真門郭へと向かいました。




志慶真門郭



木製の枠で支えられた石門をくぐり
志慶真門郭へ向かいます。
石門をくぐって眺めた本郭の石垣です。



今帰仁城の南側は険しい地形で
ほぼ垂直に切り立った石垣が
2段で築かれています。

今帰仁城の南側の山々です。



深い木々に覆われた山々。
この方角から今帰仁城に攻め込むのは
難しいように思います。

石門をくぐって、左側に進むと、
志慶真門郭の全容が見えてきました。



志慶真門郭は本郭の背後に
隠れるように位置していて
北側からアプローチすると、
主郭に上がらなければ
その存在には気が付かないでしょう。

石垣の修復中なのか、志慶真門郭へは
仮設のスロープがありました。



そのスロープを下ったところで
振り返って眺めた主郭の様子です。

主郭は立派な石垣で覆われていて、
その高さは10m程はあるでしょうか。
15世紀初めまでに、このような石垣が
築かれていたとは驚きです。

その石垣の下に続く緑の斜面



まるでスイスの牧草地のような
緑の綺麗なそして急勾配の斜面でした。

志慶真門郭の南の端の石垣が崩れたように
なっているところに志慶真門があったそうです。



志慶真門の南、木々が生い茂った山には
当時は志慶真ムラがあったそうです。


門を背にすると志慶真門郭が一望出来ました。



志慶真門郭には按司に仕える人々が
住んでいたと考えられているそうです。

郭には4つの建物の跡が残っていました。

志慶真門郭の石垣です。
城壁はほぼ原型を留めています。



この先には石垣が志慶真川の渓谷にせり出し、
水揚げ場だったところがあったようです。

志慶真門郭からの東シナ海も
とてもいい眺めでした。



"今帰仁城"のTopに戻る

"日本全国お城巡りの旅"に戻る

Shane旅日記 日本編に戻る