宇土城は戦国時代末期の1588年(天正16年)に、宇土、
宇土城は、宇土の市街地の南西、
1600年(慶長5年)の関ケ原の戦いに敗れた小西行長が
宇土城は宇土高校南西の小高い丘の上に本丸があり、
この宇土城には、2011年5月に訪れました。
JR宇土駅前から九州産交バス乗車し、
宇土駅前からのバスの所要時間は約5分、
2011年5月3日、朝に人吉を出て、八代で下車し、
宇土駅からバスに乗り、宇土本町一丁目・
宇土城は、総構の堀が城下町の周囲に巡らされて
宇土高校のグランドの周囲の石垣が古い積み方に
宇土高校のグランドの先に宇土城入り口の案内がありました。
坂道を登ると右手に墓地が見えてきます。
墓地の入り口の先の左手に急な石段が続いていました。
この石段を登ると、宇土城の本丸跡に
急な石段を上った先にあるとは思えないほど、
本丸跡からは宇土高校の校舎が見渡せました。
宇土高校に近い本丸の端は急な切岸になっていました。
本丸には小西行長の像がありました。
秀吉の九州制定後にこの宇土や益城、八代そして
本丸の一段下には帯曲輪がありました。
帯曲輪から更に一段下がると石垣がありました。
この様式の石垣は、関ヶ原の戦いの前に築かれた
この反対側にも高台になっています。
本丸と三の丸の間の堀のような道を行くと
この石垣の前には案内板があり、いま見る
Mugishima Castle, Kumamoto
登城日:
2011.5.3
益城、八代そして天草を治める事になった小西行長が、
その翌年から本拠地として築城を開始したお城です。
宇土高校の裏側の小高い丘にありました。
斬首の刑を受けると、肥後一国を所領した加藤清正が、
隠居所として普請したそうですが、その加藤清正も
1611年(慶長16年)に亡くなると廃却されました。
その西側に二ノ丸、南に三ノ丸があったようです。
中世からの宇土古城は、この更に西側にありました。
その時の様子を紹介します。
宇土本町一丁目・宇土高校入口で下車。
宇土本町一丁目・宇土高校入口バス停から
南西に徒歩約10分程です。
一時間に約一本の運転本数です。
八代城址と麦島城址を訪れた後に宇土城址に来ました。
宇土高校入口のバス停で下車し、まずは
宇土高校に向かいました。
撮影: 2011年5月
いたそうですが、城址の案内図からは本丸の北東の
宇土高校の外周部がその外堀の位置だった様です。
撮影: 2011年5月
思えますが、この石垣は当時の堀跡なのでしょうか。
撮影: 2011年5月
この角を曲がって坂道を上がると宇土城址です。
撮影: 2011年5月
この墓地は、宇土城二の丸跡になります。
撮影: 2011年5月
撮影: 2011年5月
行くことが出来ます。
撮影: 2011年5月
本丸跡には広い空間が広がっていました。
撮影: 2011年5月
宇土城は廃城後、島原の乱の影響もあり、徹底的に
破壊されたそうですが、この急な切岸は
当時からのものでしょう。
撮影: 2011年5月
小西行長は堺の商人の家に生まれ、宇喜多秀家に
見いだされ、その後豊臣秀吉に仕えています。
撮影: 2011年5月
天草を拝領しますが、隣の熊本の領主となった
加藤清正とは折り合いが悪かったようです。
撮影: 2011年5月
石垣の積み方は"打込み接ぎ"の様です。
小西行長時代の宇土城ものではなく、その後
普請したという清正時代の石垣でしょうか。
撮影: 2011年5月
こちらの高台は三の丸跡になります。
撮影: 2011年5月
再び石垣が見えてきました。
撮影: 2011年5月
宇土城址の地下には更に城郭の遺構があり、
その地下に眠る遺構が小西行長時代の
宇土城と断定し、いま見えている石垣は
清正時代の宇土城の遺構としています。