宇土城
Mugishima Castle, Kumamoto

登城日:
2011.5.3

【宇土城 概要】

宇土城は戦国時代末期の1588年(天正16年)に、宇土、
益城、八代そして天草を治める事になった小西行長が、
その翌年から本拠地として築城を開始したお城です。

中世に築かれた宇土城の様子は こちらです。

宇土城は、宇土の市街地の南西、
宇土高校の裏側の小高い丘にありました。

1600年(慶長5年)の関ケ原の戦いに敗れた小西行長が
斬首の刑を受けると、肥後一国を所領した加藤清正が、
隠居所として普請したそうですが、その加藤清正も
1611年(慶長16年)に亡くなると廃却されました。


宇土城は宇土高校南西の小高い丘の上に本丸があり、
その西側に二ノ丸、南に三ノ丸があったようです。
中世からの宇土古城は、この更に西側にありました。

宇土古城の登城記はこちらです。

この宇土城には、2011年5月に訪れました。
その時の様子を紹介します。

【宇土城へのアクセス】

JR宇土駅前から九州産交バス乗車し、
宇土本町一丁目・宇土高校入口で下車。
宇土本町一丁目・宇土高校入口バス停から
南西に徒歩約10分程です。

宇土駅前からのバスの所要時間は約5分、
一時間に約一本の運転本数です。

【宇土城登城記】

2011年5月3日、朝に人吉を出て、八代で下車し、
八代城址と麦島城址を訪れた後に宇土城址に来ました。

八代城の登城記はこちらです。
麦島城の登城記はこちらです。

宇土駅からバスに乗り、宇土本町一丁目・
宇土高校入口のバス停で下車し、まずは
宇土高校に向かいました。


撮影: 2011年5月

宇土城は、総構の堀が城下町の周囲に巡らされて
いたそうですが、城址の案内図からは本丸の北東の
宇土高校の外周部がその外堀の位置だった様です。


撮影: 2011年5月

宇土高校のグランドの周囲の石垣が古い積み方に
思えますが、この石垣は当時の堀跡なのでしょうか。


撮影: 2011年5月

宇土高校のグランドの先に宇土城入り口の案内がありました。
この角を曲がって坂道を上がると宇土城址です。


撮影: 2011年5月

坂道を登ると右手に墓地が見えてきます。
この墓地は、宇土城二の丸跡になります。


撮影: 2011年5月

墓地の入り口の先の左手に急な石段が続いていました。


撮影: 2011年5月

この石段を登ると、宇土城の本丸跡に
行くことが出来ます。


撮影: 2011年5月

急な石段を上った先にあるとは思えないほど、
本丸跡には広い空間が広がっていました。

本丸跡からは宇土高校の校舎が見渡せました。


撮影: 2011年5月

宇土高校に近い本丸の端は急な切岸になっていました。
宇土城は廃城後、島原の乱の影響もあり、徹底的に
破壊されたそうですが、この急な切岸は
当時からのものでしょう。


撮影: 2011年5月

本丸には小西行長の像がありました。
小西行長は堺の商人の家に生まれ、宇喜多秀家に
見いだされ、その後豊臣秀吉に仕えています。


撮影: 2011年5月

秀吉の九州制定後にこの宇土や益城、八代そして
天草を拝領しますが、隣の熊本の領主となった
加藤清正とは折り合いが悪かったようです。

本丸の一段下には帯曲輪がありました。


撮影: 2011年5月

帯曲輪から更に一段下がると石垣がありました。
石垣の積み方は"打込み接ぎ"の様です。

この様式の石垣は、関ヶ原の戦いの前に築かれた
小西行長時代の宇土城ものではなく、その後
普請したという清正時代の石垣でしょうか。


撮影: 2011年5月

この反対側にも高台になっています。
こちらの高台は三の丸跡になります。


撮影: 2011年5月

本丸と三の丸の間の堀のような道を行くと
再び石垣が見えてきました。


撮影: 2011年5月

この石垣の前には案内板があり、いま見る
宇土城址の地下には更に城郭の遺構があり、
その地下に眠る遺構が小西行長時代の
宇土城と断定し、いま見えている石垣は
清正時代の宇土城の遺構としています。

"日本全国お城巡りの旅"に戻る

Shane旅日記 日本編に戻る