上野城
Ueno Castle, Japan
登城日:
2010. 8. 13
上野城は、豊田市の南部、碧海台地と東側を流れる
矢作川の後背湿地との境目に、伊勢貞親の被官だった
戸田宗光が1467年(応仁元年)に築城したと伝えられています。
上野城を築城した戸田宗光はその後、1475年(文明7年)に
渥美半島に移り、田原城を築き、そこを本拠としています。
田原城の登城記はこちらです。
その後、上野城は阿部孫次郎が城主となりますが
1493年(明応2年)に、近在の豪族と連合し
松平親忠と井田野で戦い、これに敗れると
松平氏に従いました。
その後、上野城に入った松平信定・清定ですが
清定が松平広忠と戦い、その後降服します。
更に、松平清定に代わり城主となった酒井忠尚は
三河一向一揆の際に、一揆方に走り、家康と敵対します。
こうして歴史を振り返ると、上野城は安祥松平家に
とって、とても厄介なお城だった事が判ります。
諸国古城絵図によると、上野城は
水掘りで囲まれた単郭の城でした。
城の北と東には深田が広がり、
天然の護りになっていたと思います。
愛知環状鉄道・三河上郷駅下車。
駅の南側を東西に走る国道239号線を東に向かい、
上郷区民会館の建物が左手に見えると
そこが上野城址です。
距離にして約600m、徒歩約5分です。
愛知環状鉄道の乗車記はこちらです。
【上野城登城記】
2010年8月、岡崎の羽根古城、上和田城を訪れた後
自転車を走らせ、上野城を目指しました。
羽根古城の登城記はこちらです。
上和田城の登城記はこちらです。
矢作川の西側を北上し、枡塚の集落を過ぎると
田畑の広がる低地となりました。
遠くに伊勢湾岸道路の高架橋が見えています。
この辺りを走る国道239号線で左に折れます。
西側には、台地が広がっています。
その台地の端に上郷護国神社の杜がありました。
この杜のあるところが上野城址になります。
手前の川は、天然の堀の役割を果たしていたようです。
緩やかな坂道を上り、台地に上がると、
上郷区民会館の建物が見えて来ます。
建物の奥に小高い丘があり木々が生えています。
ここは当時櫓が建っていたと思います。
「榊原康政生誕之地」という立派な石碑も建っています。
榊原康政は徳川四天王の一人で、
後に館林城の初代城主になった人です。
館林城の登城記はこちらです。
榊原康政の父・長政は上野城主だった
酒井忠尚に仕えていたそうです。
家臣の子が城主の住むお城で生まれるのは変だなと
思っていると、上野城には2つあり、榊原康政は
もう一つの上野城で生まれたそうです。
ちなみにここは上野上村城、榊原康政が
生まれたお城が上野下村城です。
上野下村城は、ここから遠くないところに
あったそうですが、明治用水の開拓と
都市化で消滅してしまったそうです。
上郷区民会館の裏手に回ると
上郷護国神社がありました。
ひっそりとした社殿の北側に空き地が広がり
ここが上野城の曲輪跡です。
ざっと50m四方かと思いましたが、古絵図では
南北45間、東西32間程の広さとあります。
ざっと80m x 60mの広さです。
上郷区民会館の敷地も当時の城域だったのでしょう。
上郷護国神社の西側の低地から眺める上野城址です。
この辺りは一段低くなっており、
当時は堀か深田になっていた事でしょう。
再び、上郷区民会館まで戻りました。
上野城址前を走る国道の様子です。
当時はこの台地上に侍屋敷が並んでいました。
今は、交通量の多いこの道を西に向かうと
すぐに愛知環状鉄道の三河上郷駅です。
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