名鉄名古屋本線の美合駅から南に1km程行くと、
住宅地を抜け、広々とした田園風景になります。
名鉄名古屋本線の乗車記はこちらです。
この田圃のすぐ近くに長福寺がありました。
案内版によると、「以前、鳳来寺の末寺で天台宗で
あったが、日蓮の弟子の日印が、1318年(文保2年)に
京に上る途中に立ち寄り、法華宗に改修させた」
と、ありました。
鳳来寺の様子はこちらです。
長福寺の参道の様子です。
大久保氏の初代・宇津忠茂
(1476-1547) が長福寺に
大久保氏は、家康を輩出した松平氏が、
西三河の片隅の弱小豪族だった頃からの
家臣で、岡崎の上和田を本拠としていました。
大久保氏の居城・上和田城の登城記はこちらです。
1590年(天正18年)、家康が江戸に移封された際には、
宇津忠茂の孫の大久保忠世
小田原城の登城記はこちらです。
長福寺の本堂です。
長福寺の境内から少し離れた所に、
大久保一族のお墓がありました。
200m程も離れており、かつて長福寺の
境内がここまで広がっていたと思うと、
かなり大きなお寺だった事でしょう。
大久保一族のお墓は、立派な五輪の塔が
青空の下、いくつも並び爽快な佇まいでした。
下の写真の一番左手が宇津忠茂の子・
大久保忠員
その右手、中央にある玉垣のないお墓が、
忠員の兄・大久保忠俊
大久保忠俊は松平清康
(1511-1536) 、松平広忠 (1526-1549) 、
特に、松平清康が三河を掌中に収めた後に急死し、
家中が動揺し、広忠と対立する勢力が生じた際にも
一貫して広忠を支え、苦しい時代を乗り切っています。
下のお墓は大久保忠教
(ただたか) (1560-1639) のものです。
大久保忠教は大久保忠員の八男で、「三河物語」を
著し、天下のご意見番としても知られています。
領地は僅かに1,000石(後に1,000石加増)で、
近くの幸田町坂崎に陣屋を構えています。
坂崎陣屋の登城記はこちらです。
陣屋を構える以前、兄で沼津城主の大久保忠佐が、
忠教を養子とし跡を継がせようとした事が
あったそうですが、これを断っているそうです。
沼津城の登城記はこちらです。
また死の直前に三代将軍家光から5,000石の
加増の打診があった際にも断っているそうです。
少し離れた所に、宇津忠茂のお墓もありました。
大久保氏の祖となった忠茂。
彼が亡くなった1547年(天文16年)は、
仕えていた松平氏は苦境の真っただ中で、
松平氏嫡流の家康は人質となった年でした。
その後の松平氏や大久保氏の興隆を、三河の
片隅からどのような思いで眺めていた事でしょう。