わが街 岡崎 / 長福寺
Chofuku Ji Temple
in my Hometown Okazaki

名鉄名古屋本線の美合駅から南に1km程行くと、
住宅地を抜け、広々とした田園風景になります。

名鉄名古屋本線の乗車記はこちらです。


撮影: 2011年7月

この田圃のすぐ近くに長福寺がありました。

案内版によると、「以前、鳳来寺の末寺で天台宗で
あったが、日蓮の弟子の日印が、1318年(文保2年)に
京に上る途中に立ち寄り、法華宗に改修させた」
と、ありました。

鳳来寺の様子はこちらです。

長福寺の参道の様子です。


撮影: 2011年7月

大久保氏の初代・宇津忠茂 (1476-1547) が長福寺に
葬られた後は大久保氏の菩提寺になっています。

大久保氏は、家康を輩出した松平氏が、
西三河の片隅の弱小豪族だった頃からの
家臣で、岡崎の上和田を本拠としていました。

大久保氏の居城・上和田城の登城記はこちらです。

1590年(天正18年)、家康が江戸に移封された際には、
宇津忠茂の孫の大久保忠世
(1532-1594)
小田原城主になります。

小田原城の登城記はこちらです。

長福寺の本堂です。


撮影: 2011年7月

長福寺の境内から少し離れた所に、
大久保一族のお墓がありました。

200m程も離れており、かつて長福寺の
境内がここまで広がっていたと思うと、
かなり大きなお寺だった事でしょう。


撮影: 2011年7月

大久保一族のお墓は、立派な五輪の塔が
青空の下、いくつも並び爽快な佇まいでした。

下の写真の一番左手が宇津忠茂の子・
大久保忠員
(ただかず) (1511-1583) のお墓です。
大久保忠員の長男が小田原城主となった大久保忠世です。


撮影: 2011年7月

その右手、中央にある玉垣のないお墓が、
忠員の兄・大久保忠俊
(1499-1581) です。

大久保忠俊は松平清康 (1511-1536) 、松平広忠 (1526-1549)
徳川家康
(1543-1616) と松平氏に仕えています。

特に、松平清康が三河を掌中に収めた後に急死し、
家中が動揺し、広忠と対立する勢力が生じた際にも
一貫して広忠を支え、苦しい時代を乗り切っています。

下のお墓は大久保忠教 (ただたか) (1560-1639) のものです。


撮影: 2011年7月

大久保忠教は大久保忠員の八男で、「三河物語」を
著し、天下のご意見番としても知られています。
領地は僅かに1,000石(後に1,000石加増)で、
近くの幸田町坂崎に陣屋を構えています。

坂崎陣屋の登城記はこちらです。

陣屋を構える以前、兄で沼津城主の大久保忠佐が、
忠教を養子とし跡を継がせようとした事が
あったそうですが、これを断っているそうです。

沼津城の登城記はこちらです。

また死の直前に三代将軍家光から5,000石の
加増の打診があった際にも断っているそうです。

少し離れた所に、宇津忠茂のお墓もありました。


撮影: 2011年7月

大久保氏の祖となった忠茂。
彼が亡くなった1547年(天文16年)は、
仕えていた松平氏は苦境の真っただ中で、
松平氏嫡流の家康は人質となった年でした。

その後の松平氏や大久保氏の興隆を、三河の
片隅からどのような思いで眺めていた事でしょう。

"わが街 岡崎"のTopに戻る

中部地方のページに戻る

Shane旅日記 日本編に戻る