名鉄名古屋本線の美合駅からほど近い所に本宗寺があります。
本宗寺は1486年(文明18年)に蓮如上人によって
創建された浄土真宗のお寺です。
名鉄名古屋本線の乗車記はこちらです。
本宗寺は、元々岡崎市南部の土呂にありました。
土呂で栄えたお寺だったようで、家康が三河統一の途中で
発生した三河一向一揆の際、拠点の一つになったそうです。
岡崎・土呂の様子はこちらです。
1567年(永禄7年)に三河一向一揆が終結すると、
本宗寺は家康によって壊されます。
その後、家康の叔母にあたる芳春院妙西尼の尽力で
再興が叶い、1583年(天正11年)に赦免が許され、
1613年(慶長16年)に現在地に移転されたそうです。
名鉄の美合駅から西に向かうと、
綺麗な築地塀が見えてきました。
ここが本宗寺になります。
立派な築地塀で囲われ、京都のお寺の様です。
門も立派ですが、奥には江戸時代からの
ものと思われる長屋門もありました。
本宗寺の境内の様子です。
鉄筋コンクリート製の本堂の脇に、
見事な枝ぶりの松がありました。
本宗寺の本堂は、1968年(昭和43年)に不審火で
全焼し、1973年(昭和48年)に再建されています。
本宗寺には、驚くべきことに石川数正のお墓があります。
石川数正は古くからの家康の家臣で、懐刀とまで言われました。
家康の許で多くの功績を挙げた数正ですが、家康と秀吉が
戦った小牧・長久手の戦いの後の1585年(天正13年)に
突如として秀吉の許へと出奔してしまいます。
秀吉が天下を握ると信濃国松本に領地を得、
あの松本城を築城しています。
松本城の登城記はこちらです。
そんな家康を裏切った石川数正が、家康のお膝元の
岡崎に葬られているのは、びっくりしたのですが、
石川数正が亡くなったのは1593年(文禄2年)。
この時、家康は江戸に移封した後で、岡崎には
秀吉子飼いの田中吉政が領地を与えられており、
そんな状況の変化で、石川数正も父祖の地に
戻る事が出来たのでしょう。
石川数正は、家康時代に土呂の地を治めていました。
そんな縁で土呂発祥の本宗寺に葬られたのでしょうか。
石川数正が築城した土呂城の登城記はこちらです。
石川数正のお墓の脇には、本宗寺の再興に
尽力した芳春院妙西尼のお墓もありました。
石川数正のお墓も、芳春院妙西尼の
お墓も、ひっそりと佇んでいました。