広忠寺は、徳川家康
(1543-1616) が若くして亡くなった
1562年(永禄5年)というのは、桶狭間の戦いで
今川義元が討たれてから2年後の事です。
家康は今川氏の人質生活から解放され、
織田信長と同盟を結び西三河平定の
目途がたち始めた時期です。
2011年7月、大久保氏の菩提寺・長福寺を
訪れた後、更に南へと向かいました。
長福寺の散策記はこちらです。
この辺りはのどかな景色が広がり、岡崎の南に
聳える桑谷山や遠望峰山が見えてきます。
道端には綺麗な花も咲いていました。
この先に桑谷の集落があり、そこを
抜けたところに広忠寺がありました。
長閑な広忠寺の様子です。
広忠寺の開山は樵暗恵最
(しょうあんえさい) (1542-?) です。
恵最は、家康と異母兄で、恵最の
誕生日は家康と同年同日だそうです。
家康とは双子の兄弟という説もあるそうです。
広忠寺の本堂です。
この本堂の脇に広忠のお墓がありました。
下の写真、正面にあるのが
開山の樵暗恵最のお墓です。
そしてその隣にあった広忠のお墓です。
一番大きな五輪の塔が広忠のお墓です。
その右隣りが樵暗恵最の母で、広忠の
側室だった於久の方のお墓です。
広忠のお墓は、この広忠寺だけでなく、
松平氏の菩提寺の大樹寺、岡崎城のすぐ
北にある大林寺、そして松應寺にもあります。
大樹寺の散策記はこちらです。
広忠は亡くなった後に大林寺で荼毘にふされ、
1560年(永禄3年)に、松應寺に葬られたそうです。
広忠には多くのお墓があるのに、何故この広忠寺が
創建されたのか、何故その広忠寺が岡崎の街中から
遠く離れたこの桑谷の地に、ひっそりと建てられたのか、
長い間、疑問に思っていたのですが、この記事を書くうちに
この広忠寺は家康が広忠の菩提を弔う為というよりも、
異母兄の樵暗恵最とその母・於久の方が広忠の菩提を
弔うようにと建立したように思えてきました。