桑名城
Kuwana, Japan

登城日:
2012.3.19

【桑名城 概要】

戦国時代、桑名城のあった場所には北勢四十八家と
呼ばれる地方豪族のうち、伊藤氏の東城がありました。
1513年(永正10年)に伊藤武左衛門が城館を築いています。

その後、織田信長が北勢地方を支配し、滝川一益を配しました。
その後、秀吉の世となり、何人かの武将が桑名に配されています。
桑名城に初めて天守がl築かれたのは、1595年(文禄4年)で、
伊勢神戸城の天守を移築したそうです。

桑名に近世城郭が築かれたのは徳川家康が関ヶ原の戦いの後、
本多忠勝を10万石で桑名に入封させた事に始まります。
本多忠勝は、徳川四天王の一人で、家康は桑名を
重要な拠点と考えていたことが分かります。

本多忠勝の前任地、大多喜城の登城記は こちらです:
http://shanehashi.html.xdomain.jp/Oshiromeguri/Kanto/OotakiJyo.html

1636年(寛永13年)に城主となった本多俊次が
亀山城を大改修を行い、城の外堀を築き、本丸、
二の丸、東三の丸、西の丸などを整備したそうです。

本多忠勝の築いた桑名城は、揖斐川の水運を生かした
水城で、城内から船で揖斐川に出ることが出来たそうです。
また天守は4重6層の立派なもので、門は63ヶ所、
櫓は95基も建ち並んでいたそうです。


本多忠勝の後、桑名藩主となった本多忠政は
1617年(元和3年)に姫路藩主として移封となります。
その後、譜代の奥平松平氏や久松松平氏が
幕末まで桑名藩主となっています。

幕末、最後の桑名藩主となったのは松平定敬です。
京都守護職となった会津藩主・松平容保の弟で、
京都司所代を務めていました。

桑名城は、明治政府によって焼き払われ、廃城となりますが、
1928年(昭和3年)に九華公園として整備され、
一般公開されています。


桑名城の水堀を生かした公園になっていますが、
桑名城の縄張り図と比較すると、二の丸の
敷地が現在の様子とは異なっているようです。

桑名の街の散策記は こちらです。

この桑名城には、2012年3月に登城しています。
その時の様子を紹介します。

【桑名城へのアクセス】

桑名城は、桑名駅の西、約1.6kmの所にあります。
JR関西本線・桑名駅から徒歩20分程です。

JR東海の関西本線の乗車記は こちらです:

【桑名城登城記】

二之丸
Aug. 03, '23

本丸
Aug.03, '23

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二之丸

桑名駅から東に20分ほど歩くと、九華公園に辿り着きます。
ここが、江戸時代の桑名城址を整備した公園です。

JR東海の関西本線の乗車記は こちらです:

桑名城の西側には南北に堀が築かれていました。
今もこの堀は残っています。


撮影: 2012年3月

堀に沿って、二之丸の曲輪跡がいくつも並んでいます。
扇橋を渡り、二之丸跡に渡り、赤い橋を渡り、
二之丸の南側に向かいました。


撮影: 2012年3月

二之丸の東側にも水堀が続いていました。
上の写真の左手には本丸があります。
幅の広い二ノ丸堀を隔てて右側(南側)には
二之丸の曲輪跡が続いていました。


撮影: 2012年3月

本丸の南側に続く二之丸の曲輪へと渡る橋から眺めた
本丸の様子(下左写真)と、二之丸堀の南側の様子です。


撮影: 2012年3月

当時、本丸の西南角には神戸櫓が建ち、
二之丸堀の南側には侍屋敷が建ち並んでいました。

二之丸跡の一部は菖蒲園として整備されていました。


撮影: 2012年3月

二之丸跡の西南の曲輪跡には奥平屋敷の碑がありました。
1617年(元和3年)に桑名藩主となった松平定勝は、
奥平信昌の養女・松源夫人を正室として迎えており、
その松源夫人が77歳の生涯をここで終えた事に因んで
奥平屋敷の名が残っているそうです。


撮影: 2012年3月

奥平信昌は長篠城の城主で、長篠・設楽原の戦いの際には
武田軍の猛攻に耐えて籠城戦を戦い抜いた人です。
奥平氏はこの時の功で江戸時代を通じ優遇され、
松平姓を名乗る事を許され、美濃加納藩主、下野・
宇都宮藩主を経て中津藩主として明治を迎えています。

長篠城の登城記は こちらです:
長篠・設楽原の合戦場の散策記は こちらです:
中津城の登城記は こちらです:

奥平屋敷跡から東側の二之丸堀を眺めた様子です。
幅の広い堀に、二之丸の曲輪が浮かんでいました。


撮影: 2012年3月

この本丸の南側に連なる二之丸曲輪跡には
九華公園の南側からアプローチしました。
南側の二之丸橋からの眺めです。


撮影: 2012年3月

二の丸曲輪跡の様子です。


撮影: 2012年3月

当時は桝形門や多門櫓で周囲を囲われた堅牢な
曲輪だったようですが、今ではその面影もありません。

再び橋を渡り、本丸に向かいました。


撮影: 2012年3月

上の写真左が本丸の南東角に建っていた辰巳櫓跡、
上右写真が、朝日丸跡に造られた野球場の様子です。

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本丸

堀を橋で渡り、本丸に向かいました。
南東隅にある辰巳櫓跡が目の前です。


撮影: 2012年3月

1701年(元禄14年)に天守が焼失して以来、
この辰巳櫓が桑名城のシンボル的存在でした。
戊辰戦争の際、桑名藩が新政府軍に降伏した際、
その証として新政府は、辰巳櫓を焼失させたそうです。


撮影: 2012年3月

上の写真は、辰巳櫓からの眺めです。
上左が朝日丸跡の野球場、上右が
二之丸堀を隔てた二之丸の曲輪群です。

本丸の西南角には神戸櫓跡があります。


撮影: 2012年3月

1595年(文禄4年)に、伊勢神戸城の天守を移築した櫓です。
関ヶ原の合戦後に、桑名城を近世城郭として整備した
本多忠勝は神戸櫓をそのまま生かして城郭整備をしたようです。

神戸櫓跡からの眺めです。


撮影: 2012年3月

桑名城の本丸跡には鎭國守國神社があります。


撮影: 2012年3月

1784年(天明4年)に白河城にて、松平定綱を祀ったのが
始まりで、1823年(文政6年)に久松松平家が桑名藩主に
移封となった際に、桑名城本丸に移されました。


撮影: 2012年3月

境内には松平定信の歌碑がありました。
松平定信は、老中を務め、寛政の改革を行っています。
松平定信の子、松平定永が白河藩主だった際に、
桑名藩への移封されています。


撮影: 2012年3月

朝落花
朝附日さすも しずけき 梢より
のどけさそえて ちるさくらかな

境内では、梅の花が咲いていました。


撮影: 2012年3月

鎭國守國神社の奥には九華招魂社がありました。
明治に入って創建された、戦没者慰霊の社です。


撮影: 2012年3月

鎭國守國神社の東側には、桑名城の天守台跡がありました。
天守台の碑は「戊辰殉難招魂碑」です。


撮影: 2012年3月

天守台からは梅の花に囲まれた
鎭國守國神社の社殿が見えていました。

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三之丸

本丸を訪れた後、本丸の北にある三之丸に向かいました。
本丸の西側に南北に堀が走り、それに沿って
西側に曲輪跡が続いています。


撮影: 2012年3月

幅の狭い曲輪跡ですが、当時はここにも
多門櫓や櫓が数多く配置されていたようです。

この細長い曲輪跡を北に進み、道路を渡ると
桑名藩の藩祖、本多忠勝の銅像がありました。


撮影: 2012年3月

本多忠勝は、岡崎の生まれ、徳川四天王の一人です。
槍の名手で、生涯57回の合戦に臨んだそうですが、
一度もかすり傷一つしなかったと伝わっています。

その槍は穂先に止まった蜻蛉が真っ二つになったと
言われる蜻蛉切の槍として知られています。

そしてその左手、桑名城の三之丸堀の様子です。


撮影: 2012年3月

この先に水門があり、その向こう側は揖斐川と繋がっています。
当時も、桑名城の堀は揖斐川の水運を生かしていたそうです。

この堀の東には、芝生の空き地が広がっていました。
ここが当時の三之丸跡です。


撮影: 2012年3月

芝生の北側は揖斐川の堤防が続いていました。
大河のような揖斐川の流れです。


撮影: 2012年3月

揖斐川の堤防に、桑名城の櫓が復元されていました。
蟠龍
(ばんりゅう)櫓です。


撮影: 2012年3月

当時は、このすぐ西にある七里の渡しを
行きかう船を監視する櫓だったそうです。
2003年(平成15年)にこの櫓が再建されたのは、
水門の管理棟としての役割でした。

蟠龍櫓の西には、七里の渡し跡がありました。


撮影: 2012年3月

東海道を旅した多くの旅人が、ここから船で宮
(今の名古屋市熱田)を目指した渡しです。

宮の七里の渡し跡は、町家近くの庶民的な雰囲気でしたが、
桑名は、城に近く、櫓が間近に配置されていたとなると
旅人の緊張もたかまった事でしょう。

熱田・宮の七里の渡しの様子は こちらです:


撮影: 2012年1月

七里の渡し跡からも、堀が南に続いていました。
この堀沿いに桑名城の石垣跡が残っていました。
上の写真、堀の左側の石垣がそうです。

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