戦国時代、桑名城のあった場所には北勢四十八家と
その後、織田信長が北勢地方を支配し、滝川一益を配しました。
桑名に近世城郭が築かれたのは徳川家康が関ヶ原の戦いの後、
1636年(寛永13年)に城主となった本多俊次が
本多忠勝の築いた桑名城は、揖斐川の水運を生かした
本多忠勝の後、桑名藩主となった本多忠政は
幕末、最後の桑名藩主となったのは松平定敬です。
桑名城は、明治政府によって焼き払われ、廃城となりますが、
桑名城の水堀を生かした公園になっていますが、
この桑名城には、2012年3月に登城しています。
桑名城は、桑名駅の西、約1.6kmの所にあります。
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桑名駅から東に20分ほど歩くと、九華公園に辿り着きます。
桑名城の西側には南北に堀が築かれていました。
堀に沿って、二之丸の曲輪跡がいくつも並んでいます。
二之丸の東側にも水堀が続いていました。
本丸の南側に続く二之丸の曲輪へと渡る橋から眺めた
当時、本丸の西南角には神戸櫓が建ち、
二之丸跡の一部は菖蒲園として整備されていました。
二之丸跡の西南の曲輪跡には奥平屋敷の碑がありました。
奥平信昌は長篠城の城主で、長篠・設楽原の戦いの際には
奥平屋敷跡から東側の二之丸堀を眺めた様子です。
この本丸の南側に連なる二之丸曲輪跡には
二の丸曲輪跡の様子です。
当時は桝形門や多門櫓で周囲を囲われた堅牢な
再び橋を渡り、本丸に向かいました。
上の写真左が本丸の南東角に建っていた辰巳櫓跡、
堀を橋で渡り、本丸に向かいました。
1701年(元禄14年)に天守が焼失して以来、
上の写真は、辰巳櫓からの眺めです。
本丸の西南角には神戸櫓跡があります。
1595年(文禄4年)に、伊勢神戸城の天守を移築した櫓です。
神戸櫓跡からの眺めです。
桑名城の本丸跡には鎭國守國神社があります。
1784年(天明4年)に白河城にて、松平定綱を祀ったのが
境内には松平定信の歌碑がありました。
朝落花
境内では、梅の花が咲いていました。
鎭國守國神社の奥には九華招魂社がありました。
鎭國守國神社の東側には、桑名城の天守台跡がありました。
天守台からは梅の花に囲まれた
本丸を訪れた後、本丸の北にある三之丸に向かいました。
幅の狭い曲輪跡ですが、当時はここにも
この細長い曲輪跡を北に進み、道路を渡ると
本多忠勝は、岡崎の生まれ、徳川四天王の一人です。
その槍は穂先に止まった蜻蛉が真っ二つになったと
そしてその左手、桑名城の三之丸堀の様子です。
この先に水門があり、その向こう側は揖斐川と繋がっています。
この堀の東には、芝生の空き地が広がっていました。
芝生の北側は揖斐川の堤防が続いていました。
揖斐川の堤防に、桑名城の櫓が復元されていました。
当時は、このすぐ西にある七里の渡しを
蟠龍櫓の西には、七里の渡し跡がありました。
東海道を旅した多くの旅人が、ここから船で宮
宮の七里の渡し跡は、町家近くの庶民的な雰囲気でしたが、
七里の渡し跡からも、堀が南に続いていました。
Kuwana, Japan
登城日:
2012.3.19
呼ばれる地方豪族のうち、伊藤氏の東城がありました。
1513年(永正10年)に伊藤武左衛門が城館を築いています。
その後、秀吉の世となり、何人かの武将が桑名に配されています。
桑名城に初めて天守がl築かれたのは、1595年(文禄4年)で、
伊勢神戸城の天守を移築したそうです。
本多忠勝を10万石で桑名に入封させた事に始まります。
本多忠勝は、徳川四天王の一人で、家康は桑名を
重要な拠点と考えていたことが分かります。
http://shanehashi.html.xdomain.jp/Oshiromeguri/Kanto/OotakiJyo.html
亀山城を大改修を行い、城の外堀を築き、本丸、
二の丸、東三の丸、西の丸などを整備したそうです。
水城で、城内から船で揖斐川に出ることが出来たそうです。
また天守は4重6層の立派なもので、門は63ヶ所、
櫓は95基も建ち並んでいたそうです。
1617年(元和3年)に姫路藩主として移封となります。
その後、譜代の奥平松平氏や久松松平氏が
幕末まで桑名藩主となっています。
京都守護職となった会津藩主・松平容保の弟で、
京都司所代を務めていました。
1928年(昭和3年)に九華公園として整備され、
一般公開されています。
桑名城の縄張り図と比較すると、二の丸の
敷地が現在の様子とは異なっているようです。
その時の様子を紹介します。
JR関西本線・桑名駅から徒歩20分程です。
【桑名城登城記】
二之丸
ここが、江戸時代の桑名城址を整備した公園です。
今もこの堀は残っています。
撮影: 2012年3月
扇橋を渡り、二之丸跡に渡り、赤い橋を渡り、
二之丸の南側に向かいました。
撮影: 2012年3月
上の写真の左手には本丸があります。
幅の広い二ノ丸堀を隔てて右側(南側)には
二之丸の曲輪跡が続いていました。
撮影: 2012年3月
本丸の様子(下左写真)と、二之丸堀の南側の様子です。
撮影: 2012年3月
二之丸堀の南側には侍屋敷が建ち並んでいました。
撮影: 2012年3月
1617年(元和3年)に桑名藩主となった松平定勝は、
奥平信昌の養女・松源夫人を正室として迎えており、
その松源夫人が77歳の生涯をここで終えた事に因んで
奥平屋敷の名が残っているそうです。
撮影: 2012年3月
武田軍の猛攻に耐えて籠城戦を戦い抜いた人です。
奥平氏はこの時の功で江戸時代を通じ優遇され、
松平姓を名乗る事を許され、美濃加納藩主、下野・
宇都宮藩主を経て中津藩主として明治を迎えています。
長篠・設楽原の合戦場の散策記は
こちらです:
中津城の登城記は
こちらです:
幅の広い堀に、二之丸の曲輪が浮かんでいました。
撮影: 2012年3月
九華公園の南側からアプローチしました。
南側の二之丸橋からの眺めです。
撮影: 2012年3月
撮影: 2012年3月
曲輪だったようですが、今ではその面影もありません。
撮影: 2012年3月
上右写真が、朝日丸跡に造られた野球場の様子です。
南東隅にある辰巳櫓跡が目の前です。
撮影: 2012年3月
この辰巳櫓が桑名城のシンボル的存在でした。
戊辰戦争の際、桑名藩が新政府軍に降伏した際、
その証として新政府は、辰巳櫓を焼失させたそうです。
撮影: 2012年3月
上左が朝日丸跡の野球場、上右が
二之丸堀を隔てた二之丸の曲輪群です。
撮影: 2012年3月
関ヶ原の合戦後に、桑名城を近世城郭として整備した
本多忠勝は神戸櫓をそのまま生かして城郭整備をしたようです。
撮影: 2012年3月
撮影: 2012年3月
始まりで、1823年(文政6年)に久松松平家が桑名藩主に
移封となった際に、桑名城本丸に移されました。
撮影: 2012年3月
松平定信は、老中を務め、寛政の改革を行っています。
松平定信の子、松平定永が白河藩主だった際に、
桑名藩への移封されています。
撮影: 2012年3月
朝附日さすも しずけき 梢より
のどけさそえて ちるさくらかな
撮影: 2012年3月
明治に入って創建された、戦没者慰霊の社です。
撮影: 2012年3月
天守台の碑は「戊辰殉難招魂碑」です。
撮影: 2012年3月
鎭國守國神社の社殿が見えていました。
本丸の西側に南北に堀が走り、それに沿って
西側に曲輪跡が続いています。
撮影: 2012年3月
多門櫓や櫓が数多く配置されていたようです。
桑名藩の藩祖、本多忠勝の銅像がありました。
撮影: 2012年3月
槍の名手で、生涯57回の合戦に臨んだそうですが、
一度もかすり傷一つしなかったと伝わっています。
言われる蜻蛉切の槍として知られています。
撮影: 2012年3月
当時も、桑名城の堀は揖斐川の水運を生かしていたそうです。
ここが当時の三之丸跡です。
撮影: 2012年3月
大河のような揖斐川の流れです。
撮影: 2012年3月
蟠龍
撮影: 2012年3月
行きかう船を監視する櫓だったそうです。
2003年(平成15年)にこの櫓が再建されたのは、
水門の管理棟としての役割でした。
撮影: 2012年3月
(今の名古屋市熱田)を目指した渡しです。
桑名は、城に近く、櫓が間近に配置されていたとなると
旅人の緊張もたかまった事でしょう。
撮影: 2012年1月
この堀沿いに桑名城の石垣跡が残っていました。
上の写真、堀の左側の石垣がそうです。