二条駅から二条城へ
JR京都駅から山陰本線の電車に乗り、
二条で下車し、二条城に向かいました。
12月初旬の京都は訪れる人も多く、
山陰本線の電車は満員の状態でした。
二条城へは地下鉄で一区間なのですが、
歩いてもいける距離です。
二条駅の北側を東西に走る押小路通を東に向かい、
300m程行くと、早くも二条城のお堀が現れてきました。
ほぼ方形をした二条城の西南の角にあたり、
石垣で囲まれた堀が東西、南北両方向に伸びています。
そして、その角に西南隅櫓が聳えていました。
1624年(寛永元年)から三代将軍・家光が行った
二条城の拡張工事の際に建てられたものです。
京都の街に忽然と現れた城郭は、
どこか不釣合いな感じがします。
二条城というと二の丸御殿の印象が強く、
小学校の修学旅行で行った時の印象は
宮殿の様な感じだったのですが、
こうしてお堀や櫓を見ると、
「城」と言うのを改めて実感します。
お堀に沿って、押小路通を東に歩いて行きます。
500m程歩くと、南門が見えてきました。
堀に面して門があるばかりで出入りは出来ないのですが、
当時は橋が架かっていたのでしょうか。
そして、お堀が尽きたところに
東南隅櫓が建っています。
この東南隅櫓と西南隅櫓は家光が
拡張工事を行った寛永年間に建てられたもので、
国の重要文化財に指定されています。
東南隅櫓から白壁の塀が石垣に沿って北に伸び、
東大手門に続いています。
京の中心に向いた二条城の正門で、
筋金を打ちつけた堅牢な櫓門です。
入場券を購入し、東大手門をくぐります。
門の右脇には、番所が残っていました。
番所が残っているお城はあまりないので、
普通の家屋に見えるようなこの建物も
貴重な遺構です。
砂利が敷かれ、目の前には
優雅な築地塀が築かれています。
この雰囲気はお城というよりも、宮殿や
京都の古刹の境内にいるような感じです。
この築地塀の向こうに国宝の二の丸御殿が建っています。
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二の丸 / 二の丸御殿
東大手門から城内に入り、
目の前に見える優築地塀に沿って行くと、
立派な門が現れました。
唐門です。
唐破風の檜皮葺の屋根や見事な彫刻や
飾り金具がとても優雅な雰囲気を醸し出しています。
この唐門は2013年に修復工事が行われ
飾り金具がより一層輝くようになっています。
この唐門をくぐると、二条城の
二の丸御殿が目の前に現れました。
お城と言えば、なんといっても天守ですが、
江戸時代に入り、戦のない時代がない時代になると
天守は単なる飾りとなり、政庁が行われた御殿が
実質的にお城の中心的役割を果たすようになります。
しかし、その御殿は現存しているものが極めて少なく、
この二条城の他には、高知城や掛川城など、数城のみです。
高知城の訪問記はこちらです。
掛川城の訪問記はこちらです。
その中でも、特に二条城二の丸の御殿では、
家康の征夷大将軍に任命された後の祝賀の宴を開いたり、
1611年(慶長16年)に家康が豊臣秀頼との面会をし、
更には第15代将軍・徳川慶喜が大政奉還の上奏したりと
日本の歴史上の変化点となる出来事が起きています。
上の写真は、2014年12月に再訪した際のものです。
極僅かにしか残っていないお城の御殿の一つに
日本の歴史の重要な舞台となった二条城の
二の丸御殿が含まれているのは
僥倖と言えるのではないでしょうか。
現存の御殿の内部は思った以上に暗く、
鴬張りの廊下を歩き、金箔の貼られた襖や
狩野探幽らの襖絵や豪華な欄間を眺めながら
二の丸御殿の内部を一巡りしました。
二の丸御殿の見学を終え、二の丸庭園を散策しました。
この庭は池泉回遊式と呼ばれ、
小堀遠州作と言われているようです。
静かな二の丸庭園を散策した後
本丸に向かいました。
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本丸 / 本丸御殿および天守台
二の丸庭園を眺めた後、本丸に向かいました。
二条城は、国宝の二の丸御殿が特に有名で、
小学校の修学旅行の時も、二の丸御殿だけの
見学だったように思います。
しかし、二条城には1624年(寛永元年)から
徳川家光が行った拡張工事の際に
天守を伴った本丸が築かれています。
現地の案内板によると二の丸の中に、
内堀に囲まれたほぼ正方形の本丸があります。
輪郭式と呼ばれる縄張りです。
二の丸庭園を出ると、本丸の周囲を覆う
石垣と内堀に突き当たりました。
この景色を見ると、二条城も
豪華絢爛な宮殿の雰囲気から、
普通のお城の印象に戻ってきます。
石垣の真ん中にあるのは本丸櫓門で、
門へと続く、東橋が架かっています。
江戸時代には、この橋の上に二階建ての
多聞櫓の様な橋廊下が架けられ、
本丸と二の丸を繋いでいたそうです。
本丸櫓門をくぐると、本丸御殿に行き当たります。
三代将軍家光が築いた本丸御殿は、
二の丸御殿と同じ様に豪華なものだったそうですが、
1788年(天明8年)に焼失してしまいました。
現在の本丸御殿は、旧桂宮邸の御殿を移築したものとのことです。
御殿の脇の趣のある庭園を抜けると、
芝生の広がる本丸庭園に出ました。
上の写真は、御常御殿と呼ばれる
当主の日常生活に使われた建物ですが、
二の丸御殿を眺めた後では、貧弱な感じが否めません。
庭園から塀を隔てた奥には、本丸御殿の
玄関や御書院が建っています。
塀越しの建物は、二の丸御殿に似たような造りでした。
本丸御殿を右手に見ながら、芝生の庭園を歩き、
本殿の西にある車寄に向かいました。
大きな唐破風の屋根が、
優雅さを醸し出しています。
車寄から少し戻り、本丸の西南の
角にある天守台跡に向かいました。
天守台脇に晩秋の余韻を残す
紅葉した楓がありました。
二条城本丸の天守台へは
数十段の階段を上ります。
この天守台には、伏見城の天守が移築されたそうです。
元々、淀城に移される予定だった伏見城の天守が、
急遽、この二条城に移され、二条城にあった天守が
淀城に移されたという事です。
淀城の様子はこちらです。
淀城が築城されたのは、二条城が拡張される
一年前の1623年(元和9年)だった事を考えると、
今の二の丸にあった、天守が淀城に移築され、
規模の大きな伏見城の天守は
拡張された本丸に移された様です。
その天守は、1750年(寛延3年)に落雷のため焼失し、
以降、再建はされなかったそうです。
その広い立派な天守台に上り、本丸御殿や
本丸を巡る内堀の様子がよく分かります。
イチョウの黄色が鮮やかでした。
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本丸周辺から清流園
本丸西側の虎口を出て、西橋を渡ると
先ほど天守台から眺めた黄葉の
イチョウの樹が立っていました。
二条城の西の端には、石垣と多聞櫓の間に埋め込まれた
西門があるのですが、そこは立ち入り禁止でした。
当時は、通常の出入りにはこの西門が使われ、
大政奉還をした徳川慶喜も二条城を去る時は
この西門から退去したそうです。
西門を諦めて戻ろうとすると、
崩れた石垣の様な箇所がありました。
織田信長が1569年(永禄12年)に築城した
旧二条城の石垣の跡とのことです。
当時の宣教師、ルイス-フロイスの日記によれば
旧二条城は僅か79日間で完成したそうです。
内堀と二条城外周の石垣の間を反時計方向に
内堀の周囲を一周することにしました。
内堀の西側には、土蔵が二つ現存しています。
土蔵は紅葉した楓に照らされていました。
武器や食物の収納庫だった土蔵ですが、
当時の建物が残っていると、周囲の雰囲気は
ぐっと引き締まって見えるように思います。
西南隅櫓の所も、綺麗な紅葉が残っていました。
内堀の南側を歩いていくと、
石垣によって通路が遮られ、
そこに南中仕切門がありました。
本丸周囲の区画を、この門で仕切り
防御を固めていたのでしょう。
同じ様な仕切門は本丸の北側にもありました。
仕切門を過ぎ、本丸を囲む堀の東南の角に差し掛かり、
二の丸庭園を囲む塀に突き当たると
左手に再び門が見えてきます。
白壁で囲まれた桃山門で、
先ほどの南中仕切門よりも堅牢な門です。
桃山門を抜け、再び本丸櫓門へと繋がる
東橋の眺め、本丸の北側に向かいました。
内堀を隔てて本丸の北側には
清流園という日本式庭園が造られています。
庭園の入り口で、和服を着た女性が
抹茶が飲めるとの案内をしていたので、
歩き回った疲れもあって、立ち寄る事にしました。
この清流園は1965年(昭和40年)に作られたそうです。
日本庭園を眺めながら飲んだ抹茶は
とても美味しかったです。
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