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Shane旅日記
鉄道旅行へのいざない



肥前名護屋城
Hizen Nagoya Castle, Japan


登城日:
2008. 01. 04







【肥前名護屋城概要】


名護屋城は、豊臣秀吉が朝鮮出兵の
軍事拠点として築城したお城です。


この朝鮮出兵は明の征服を目的に朝鮮に攻め入った
1592年(文禄元年)から1598年(慶長3年)までの
7年間に及ぶ戦いです。

朝鮮に攻め込んで緒戦は勝利を続けたものの
朝鮮を混乱に落とし込め、日本の諸国でも
出兵に伴ない、疲弊する地域が多かったようです。


中国に版図を広げるというこの無謀な企ては、
権勢を維持する為に戦いを続ける事しか出来なかった
秀吉の能力の限界を示していると思います。

名護屋城は、いわばその生き証人とも言えるお城です。


名護屋城は、玄界灘に突き出した東松浦半島の
ほぼ先端付近に築かれました。

地図はこちらです→ Mapion

所在地は、2005年の市町村合併で
唐津市に含まれた旧鎮西町にあたります。


名護屋城は、総面積が17万平米もある大規模なお城で
当時は大阪城に続き、2番目の規模だったそうです。

加藤清正らが縄張りしたといわれ、
1591年(天正19年)10月に工事が始まり、
約5ヶ月程で完成したそうです。





本丸を中心に西に二ノ丸、東に三ノ丸が配置され、
二の丸の南側には弾正丸があります。
北側には、西から遊撃丸、水手曲輪
そして上山里丸、下山里と続いています。


秀吉の狂気は、この名護屋城を築いただけでなく、
周囲3kmの範囲に全国の諸将を駐屯させた事です。

諸将が築いた陣屋の数は、120を超えるそうで、
人口も10万人を超えたそうです。
今でもいくつもの陣屋跡も残っているようです。

1598年(慶長3年)、秀吉の死とともに、朝鮮に
遠征していた軍勢が日本に引き上げると
この名護屋城も廃城となり、その遺構は
唐津城や仙台城に使われました。

唐津城の様子はこちらです。
仙台城の様子はこちらです。


その後、1637年(寛永14年)に島原の乱が起きると、
廃城が一揆勢に使われることを防ぐため、
名護屋城址は廃棄されました。

島原の乱の主戦場となった
原城の様子は こちらです。


2008年1月4日にこの名護屋城に行きました。
その時の様子を紹介します。



【肥前名護屋城へのアクセス】


JR筑肥線唐津駅から波戸岬国民宿舎行きの
昭和自動車バスで、名護屋城博物館入り口下車。
所要時間約45分。
名護屋城博物館入り口から徒歩約5分です。

昭和自動車のHPは こちらです。




【肥前名護屋城登城記】



大手口〜三之丸
Apr. 09, '09

本丸
Apr. 11, '09

水手口〜台所丸
Apr. 14, '09

船手口〜遊撃丸
Apr. 16, '09

二之丸〜弾正丸、搦手口〜馬場
NEW ! Apr. 19, '09



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大手口〜三之丸


唐津からのバスを名護屋城博物館入り口で下車し、
道路脇から続く築堤の坂道を歩いていくと
すぐに肥前名護屋城です。

大手口から肥前名護屋城に入ったのですが、
その手前から名護屋城の遺構の井戸がありました。



この後、名護屋城ではいくつもの井戸跡をみますが、
10万人もの将兵が駐屯していた際には水が足りず、
水争いの喧嘩も耐えなかったそうです。

水不足解消の為に多くの井戸を掘ったのでしょうか。


名護屋城博物館で日本100名城のスタンプを押し、
いよいよ名護屋城の探索の開始です。


大手口の反対側にある城のかげ溜池です。



少し離れた池まで芝生が続き、
広々とした眺めです。

この眺めの反対側に名護屋城の大手口がありました。



虎口の石垣がしっかり残り、
一直線に登城坂が続いています。

大手口の虎口の石垣の上には
小さな二つの像が立っていました。



登城坂の右側には、芝生の広がる
長屋建物跡の空き地が広がり、
その向こうに東出丸の石垣が続いています。

名護屋城が廃城されて400年以上経っているのに、
遺構がこれほど残されているとは思いませんでした。

大手口を入ってする左手にある石垣です。
10m近い高さがあるでしょうか。
石垣がしっかりと残っています。



手前側には石垣の石が転がっていますが、
これは島原の乱の後に、人為的に
破壊された跡ではないでしょうか。

下の写真は東出丸の南側の石垣です。



こちらも規模の大きな石垣です。
中央に三角形状に切り込まれているのも
人為的破壊の跡だと思います。

大手口から入ってすぐの登城坂や東出丸の様子だけも
名護屋城の規模の大きさが伺えます。

名護屋城の紹介で、秀吉の狂気の証の城と
書きましたが、朝鮮出兵の本拠として
よくもこれだけの規模のお城を築いたものだと、
城址に立つとつくづく実感しました。

そして東出丸からの眺めです。



遠くに呼子大橋が見えています。
木々の緑も日に浴びて、1月初旬の
光景とは思えない程です。

丘陵地の所々に集落が見えています。
当時は陣屋の姿を見下ろす事が出来たのでしょう。


東出丸から広々とした眺めを楽しんだ後、
三の丸に向かいました。



三の丸から眺めた東出丸の様子です。
東出丸の南西には櫓台の石垣もあります。

当時はここに櫓が上がっていたのでしょう。
きっと素晴らしい眺めだったと思います。


こちらは三の丸の様子です。



東西45間(約82m)、南北59間(約107m)の広さです。

この三の丸には二階櫓、三階櫓、南門櫓、
西二階櫓そし西北隅櫓と5つの櫓があったようです。

三の丸中ほどにあった井戸跡です。




三の丸の南東の端にある櫓台から
眺めた大手口の様子です。



この櫓台は、大手口を入ってすぐ
左手に眺めた石垣の上にあります。

この眺めも雄大でした。


三の丸から、本丸大手の石段を登ると本丸です。
三の丸から本丸大手の方向を眺めた様子です。



木々の向こうに石段が見えていました。



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本丸


三の丸から枡形虎口になっている
本丸大手の石段を登って行くと本丸に出ました。



三の丸からはかなりの上りとなっています。
この本丸大手は1991年からの発掘調査で、
城門の礎石や石段、大量の瓦などが出土したそうです。

本丸の南側の石垣の上の様子です。




わずか7年で廃城となった名護屋城ですが、
この本丸大手から本丸の南側には
改築された跡が見つかったようです。

これは埋められていた築城当時の石垣を
展示用に掘り出した箇所です。



ここは一直線になっている本丸の南端の一箇所に
迫り出したように出っ張らせた箇所です。
「折れ」と呼ばれ、敵を横から
攻撃出来る様にしたものです。

築城当時はこの「折れ」の部分の石垣の上に
櫓が建っていた可能性もあるそうです。



埋められた築城当時の石垣の一部が
地表に顔を出している様子です。

このように本丸南側から西側にかけては
築城当時の石垣を埋めて、その外側に
更に高い石垣を築いているのですが、
その理由は謎とされています。

秀吉が名護屋城をより豪勢にするために造り直させたのか、
北側との高さが不一致になってしまった為でしょうか?
本当に僅かな工事期間で完成し、数年で廃城となったのに
大掛かりな改修工事が行われたのは不可解です。


近くには改修後の石垣の上に
建てられた櫓台の跡がありました。



土台の石の上に横木を置き、
その横木に柱を立てたようです。

本丸南端の石垣は所々破壊されていますが、
その下には馬場が見えていました。




本丸の西の端まで歩いていくと、
本丸南西隅櫓跡がありました。



10m四方の敷地に2階建ての櫓と
付櫓があったそうです。

南西隅櫓の右手奥に続く
細長い部分は多聞櫓の跡です。

名護屋城を廃却する際に、櫓を解体した後に
地面に盛り土をして礎石を完全に覆ったそうです。
地面の赤い部分がその盛り土の範囲を示しているそうです。

江戸時代になっての名護屋城の廃却は
かなり徹底したものだったようです。
反幕府勢力の拠点になるのを恐れただけでなく、
秀吉の出兵のシンボルとなった名護屋城を廃却することで
悪化していた朝鮮との関係を修復する狙いもあったようです。


本丸の西側から眺めた二の丸の様子です。



二の丸の向こうに浮かぶ島影は
小松島と加唐島でしょうか。
二の丸との高低差の大きさや
遠くに浮かぶ玄界灘の島影の眺めは
とても雄大なものでした。

多聞櫓跡にもいくつか礎石の跡が展示されていました。
下の写真は、左側が南西櫓の礎石、
右側の二つが多聞櫓の礎石だそうです。



礎石の間隔が違っているのは、南西櫓と
多聞櫓の構造の違いによるものだそうです。

これは多聞櫓の玉石敷の様子です。




写真奥、本丸の端の多聞櫓の建物跡に近い石は小さく、
その手前には大き目の玉石が敷かれています。

小さな玉石は多聞櫓の屋根から落ちる雨粒を受け、
大きな玉石は、通路だったと考えられているようです。

多聞櫓跡から遠く天守台を眺めた様子です。



高台に何もない空間が広がり、
遠くに海を眺める雄大な景色です。

天守台の一本の木が、名護屋城址を
遺跡のような雰囲気にしてくれています。



天守台近くの本丸から眺めた遊撃丸と
天守台の様子です。

曲輪の規模が大きく、とても立派な
造りになっているのがわかります。

玉石の敷き詰められた天守台です。



本丸の東北隅にあるこの天守台には
当時、五層七階の天守が聳えていました。

金箔を施した瓦が出土しているそうで、
その天守の屋根は黄金に輝いていた事でしょう。
戦に備えた城とは思えない豪華絢爛ぶりです。


東松浦半島の丘陵地の高台から眺める
玄界灘と海に浮かぶ島の様子です。



右手には先ほど東出丸から眺めた
呼子大橋も見えていました。

秀吉も天守からこの玄界灘を眺めていた筈です。
年老いた彼はこの景色を眺めてながら
何を思っていたことでしょうか。


天守台の東にある青木月斗の句碑です。



太閤が 睨みし海の 霞かな

青木月斗は明治時代後半から
昭和にかけて活躍したの俳人で、
正岡子規の弟子だった人です。

そして本丸中央に立つ東郷平八郎が記した
名護屋城址の碑です。



右に遠く天守台の碑が見えています。
本丸内には青いシートが並び、
今も発掘作業が続いているようです。


名護屋城のメインとなる本丸の散策を終え、
水手口から台所丸へと向かいました。



本丸北側の出入り口となっていた
本丸北門の石垣です。



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水手口〜台所丸


東松浦半島の丘陵地の高台にある本丸の
北側にある本丸北門を出ると、
かなりの急坂になっていました。



この細い道が本丸から水手口に至る道です。
名護屋城は規模のとても大きなお城ですが、
本丸北側は、本丸から直接に城外の
水手口に繋がっていて、防御上の
弱点になっていた様に思います。

しかし何箇所も折れ曲がった細く急坂の
この登城道であれば、敵の進攻速度も遅くなり
防御性も高まっていたのでしょうか。


本丸北門を抜けたところで右に折れ、
本丸北門の枡形虎口を形作っている
石垣の脇の細い通路を抜けてみました。



この細い通路を抜けると、三の丸の
北側の小さな曲輪に出ました。



現地の案内板にもパンフレットにも
この曲輪の名前が記されていませんでした。


再び本丸北門のところに戻り、
今度は水手口へと下りていきました。

急坂を下りきったところの水手口の石垣です。



当時は水手口の東には上山里丸、
北側に台所丸が広がっていましたが、
いまでは水手口の石垣の前を道路が走り、
ここで城外に出たかのように感じます。

上山里丸の北側を通っている
道路に沿って東に向かいます。
石垣の一部が崩されていて、
そこから上山里丸に上がってみました。



この一角は茶室跡と言われ、
その一角に井戸の跡がありました。

この名護屋城では、多くの井戸跡をみかけます。
これだけ井戸を掘っても水不足だったとは
やはりそれだけ多くの将兵が
この界隈に駐屯していた証でしょうか。


上山里丸の茶室跡を眺めた後、再び水手口に戻り、
今度は、台所丸の太閤井戸に向かいました。
台所丸の跡には民家が建っていて、
その民家と民家の間の細い路地を行きます。



この太閤井戸は肥前名護屋城屏風に
描かれた場所と正に同じ場所に位置しています。



当時は良質の水が得られ、
秀吉もこの井戸の水を飲んだと
推定されているようです。

この太閤井戸のある台所丸に接して、
鯱鉾池と呼ばれるお堀があり、
船着場跡の石段も残っていたようですが、
見逃してしまいました。


台所丸の太閤井戸を訪れた後は、
船手口から遊撃丸を訪れました。



遊撃丸北側の石垣の下を歩いて行きました。



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船手口〜遊撃丸


日陰になっている遊撃丸北側の石垣の下を歩き
やがて、遊撃丸の西側へと回り込みました。

この先に船手口がありました。



船手口の櫓門跡の石垣の向こうに
折れ曲がった遊撃丸の石垣が
日を浴びていました。

1989年(平成元年)と1990年(平成2年)の発掘調査では
この船手口からも金箔の瓦が出土したそうです。

船手口の櫓門跡の石垣に立つと
東側には一段高い遊撃丸の石垣の
下を通る二の丸北側の通路が見えています。



そして南側には二の丸の大きな曲輪が
空き地となって広がっています。



西側は東松浦半島の丘陵が続き、その向こうに
玄界灘に浮かぶ島影も見えていました。



当時は武将達の陣屋が立ち、
多くの兵士が行きかっていたと思いますが、
いまではとてものどかな景色です。

船手口を抜けると二の丸ですが、まずは
その北側にある遊撃丸に向かいました。


二の丸北側に続く、遊撃丸の石垣です。



この石垣にも何箇所にわたって
石垣が人工的に廃却された跡がありました。

名護屋城の廃却は徹底されていた事がわかります。

石垣を回り込み遊撃丸に入りました。



この遊撃丸には、第一次朝鮮出兵の後、
1593年(文禄2年)の和平交渉の際に、
明の講和使節の遊撃軍が滞在したところです。
遊撃丸はその使節から名付けられています。

遊撃丸の東側の出入り口の石垣の様子です。



石垣の奥に見える高台は本丸天守台です。
昔は、総石垣で囲まれた天守台ですが、
今はその一部が取り壊されているので、
天守台まで難なく上ることが出来ました。

遊撃丸東側の出入り口から南を眺めた様子です。



左手に本丸の高石垣が続き、
傾きかけた日差しを浴びていました。

この後、この写真の右側にある
二の丸に向かいました。



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二之丸〜弾正丸、搦手口〜馬場


遊撃丸を訪れた後、
その南側の二の丸に向かいました。
二の丸西側にある石垣です。



石垣には所々向かい合うように
階段が設けられています。
これを合坂といい、階段を利用して
兵の移動を容易にしたものだそうです。
当時はこの石垣の上に多聞櫓が
建てられていたようです。

そして石垣の上から眺めた二の丸の様子です。



広々とした二の丸の奥に一段高い
本丸が見えています。

本丸の手前のところには崩れた
石垣の石が転がっていました。



この南側には長屋建物跡が
地面の上に表示されていました。



この建物跡は地面に掘られた穴に
柱を立てる掘立柱建物跡のようです。

二の丸跡は廃却後に表面を削られた様で
この長屋跡以外の遺構は見つかっていないそうです。
肥前名護屋城図屏風では柿葺きの入母屋造りの
御殿風建物がいくつか建っているとのことです。


二の丸から見上げる本丸南西隅櫓の石垣です。



この石垣は1996年(平成8年)に修理復元されています。
石垣の中ほどの横長の薄い石材が割れ、
石垣全体が崩壊していたそうです。

また廃却後に人為的にも破壊されていたと推定され、
石垣に盛り土をして、廃却後の様子を再現しているそうです。

二の丸の南には弾正丸が続いています。



弾正丸の入り口から東を見た様子です。
本丸の一段下に三の丸へと続く細長い馬場があり、
その馬場の下の高石垣も見事です。

弾正丸は秀吉の親戚筋にあたる武将の
浅野弾正長政が居たことからこの名が付いたそうです。

弾正丸の様子です。



弾正丸の一角には浄水場があり、
その奥は畑になっています。

現在は名護屋城は史跡として整備されていますが、
廃城となって400年以上の年月が経ち、
それ以前、発掘調査の行われる以前の
名護屋城はこんな状況だったのでしょうか。


弾正丸から眺めた搦手口の筋違虎口の様子です。



名護屋城の裏側にあたるこの虎口は
弾正丸からの下り坂になっています。



虎口の石垣が残っていますが、1991年(平成3年)から
1992年(平成4年)に緊急修理が行われているそうです。
この櫓台の下側には瓦敷の排水溝跡が見つかっているそうです。


弾正丸と搦手口から二の丸の南東から本丸の下を通り、
三の丸へと続く、馬場へと戻りました。

馬場の途中に築かれている馬場櫓台が見えています。



馬場は長さ100m、幅15mと細長い曲輪で、
ここで乗馬の訓練をしていたと考えられているようです。



上の右手の写真は、馬場から
三の丸へと抜ける虎口の様子です。

これで、肥前名護屋城のほぼ全域を巡ってきました。
名護屋城の北側にあり、石垣修理が完成している
山里口を見逃してしまったのは残念ですが、
そろそろ唐津に戻るバスの時間が迫ってきていました。



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