首里城
Shuri Castle, Japan


登城日:
2008. 07. 06







【首里城概要】


首里城は琉球王国の王城でした。
その歴史は琉球王国の歴史に繋がります。

沖縄は12世紀後半には、各地で按司と
呼ばれる首領がグスクを築いて
割拠する対立の時代になりました。

14世紀に入ると、今帰仁城を中心とする山北、
浦添城を中心とする中山、島尻大里城を中心とする
南山の3つに分立し三山鼎立の時代に入ります。


1406年に尚思昭・尚巴志が浦添城を攻め滅ぼし
中山王となり、その直後に首里城を築いたそうです。

尚巴志は1416年に今帰仁城を、
1429年には島尻大里城を攻め滅ぼし
琉球王国が成立し、首里城が王城となります。

今帰仁城の様子はこちらです。


1470年にクーデターが起こり、第二尚氏王朝が始まりますが
1879年に、明治政府が首里城の明け渡しを要求するまで
450年以上にもわたり、その歴史を紡いできたそうです。


首里城は那覇市の北東の丘陵地、
那覇の市街の向こうに東シナ海を見渡せる
景勝の地に築かれています。


地図はこちらです→ Mapion


首里城は東西約400m、
南北約200mの広さがあり、
周囲は城壁で囲われています。

外郭と内郭からなる輪郭式の縄張りです。

城の内外を分ける城壁にある
歓会門、久慶門、継世門、木曳の4つの門が
外壁に設けられ、首里城への入り口になっています。

この内側の城壁にある瑞泉門、漏刻門、右掖門
淑順門そして美福門の内側が内郭です。

泰神門を抜けた御庭を囲むように建つ
南殿、北殿そして正殿が首里城の心臓部です。

正殿の東側は御内原と呼ばれる王の
居住区域で男子禁制だったそうです。





首里城は1453年(享徳2年)、1660年(万治3年)、
1709年(宝永6年)と3度の火災の被害を受けています。

そして第二次大戦時には、首里城地下に
日本軍が総司令部を置くという愚行を犯したため
沖縄戦におけるアメリカ軍の標的になってしまい
首里城は甚大な被害を蒙ってしまいます。

戦後は1958年(昭和33年)に
守礼門が再建されたのを初め、
首里城周辺の建物から再建が進められ、
1992年(平成4年)に正殿を中心とする建物の
復元工事が完成しています。


2008年7月6日に、首里城を訪れました。
その時の様子を紹介します。



【首里城へのアクセス】


「ゆいレール」首里駅から8番系統で
首里城前下車。徒歩すぐです。

「ゆいレール」首里駅へは
那覇空港から所要時間27分。
日中、10分毎の運行です。
8番系統のバスは日中約20分毎の運行です。

ゆいレールのHPはこちらです。
ゆいレールの乗車記はこちらです。

沖縄のバスマップはこちらです。
8番系統の時刻表はこちらです。





【首里城登城記】



守礼門から広福門へ
Nov.26, '09

下之御庭から正殿へ
Nov. 29, '09

北殿から久慶門へ
NEW ! Nov. 30, '09

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守礼門から広福門へ


「ゆいレール」の首里駅からバスに乗り継ぎ
首里城前で下車し、首里城を目指しました。

「ゆいレール」の乗車記は
こちらです。


バスを降り、首里城に向い始めた
ところにあった石碑です。



首里城一帯は首里城公園として
整備が行われています。

琉球の歴史と文化の中心だった首里城が
戦争で破壊された姿から当時の様子に
蘇らせるのはとても価値のあることと思います。

緩やかな坂道を歩いていくと、
守礼門が現れました。
中国の影響を受けたと思われる
装飾がされ赤瓦の載った華麗な門です。



往時は守礼門の手前に中山門があり、
この守礼門は首里城第二の坊門だったそうです。

1958年(昭和33年)の守礼門の再建は
首里城復元の先駆けになったものです。
琉球王国の文化をしのぶ象徴として
沖縄の人々の心に深く刻まれた
門なのではないでしょうか。


守礼門を抜けると車道を横切ります。
その左手にひっそりと石門が佇んでいました。

園比屋武御嶽石門
(そのひやんうたきいしもん) です。



ここは琉球王府の祈願所だったそうです。
園比屋武御嶽石門は排殿にあたり、
石門の後ろに広がる杜が神として
崇められていたそうです。

今、その神聖な森は一部は残っていますが、
城西小学校の校庭に変わってしまっていました。

この園比屋武御嶽石門は1519年に創建されたそうです。
この石門も大戦で破壊され、1957年(昭和32年)に復元され、
1986年(昭和61年)に解体修理されたそうです。

園比屋武御嶽石門から右手の参道を進むと
いよいよ首里城の石垣が見えてきました。


高い城壁に、立派な石門が見えていました。
首里城の正門、歓会門です。



歓会門という門の名前は、中国皇帝の使者・
「冊封使」を歓迎する意味で付けられたそうです。

門の両側には魔除けのシーサーが座っています。

アーチ型の石門の上に櫓が載っています。



中城城や座喜味城で見た石門にも
このような櫓が載っていたのでしょうか。

中城城の様子はこちらです。
座喜味城の様子はこちらです。

この歓会門は1500年頃に創建、
1974年(昭和49年)に復元されたそうです。

歓会門をくぐると外郭と
内郭の間の曲輪に入ります。

周囲を城壁が囲み、
いくつもの櫓門が見えて
気持ちが昂ぶってきました。



下の写真、左の門が久慶門、
右手の石段を登ったところが瑞泉門です。



久慶門は首里城の通用門にあたる門で
首里城見学コースの帰路にこの門を通ります。

石段を上り詰めたところに
あるのが瑞泉門です。



創建は1470年頃だそうです。
この門は1992年(平成4年)に復元されました。

瑞泉門から上ってきた石段を振返ったところです。



石段の途中には龍樋という泉がありました。
首里城の貴重な水の手になっていたようで、
またこの龍樋の水は綺麗に澄んでいたそうです。

その龍樋の水の清らかさを称えた
冊封使の碑の復元も立っていました。


瑞泉門を抜けると小さな郭があり
すぐに左手の漏刻門へと続いていました。



漏刻門は15世紀に創建された門です。
生憎、塗装の化粧直し中でした。

漏刻は水時計の意味で、この漏刻門の櫓で
太鼓を叩き時を告げていたそうなので、
太鼓櫓門といったところです。

この漏刻門では、駕籠に乗った位の高い役人も
下乗したそうで、「かご居せ御門」とも呼ばれたそうです。


漏刻門を抜けると、日影台に出ました。

漏刻門の手前の石段を登っているので
城壁の上部に近いところまで上っているので、
この日影台からは首里城北側の景色が広がっていました。



左の写真、一番手前の門は久慶門で
その左奥に歓会門が見えています。
久慶門から歓会門へと続く城壁の向こうの杜は
園比屋武御嶽石門の奥にある神と崇めた杜です。

日影台の真下の郭では発掘作業が行われていました。
(上右の写真です)
ここには当時、銭蔵や厩が建っていたようです。

そして日影台の日時計です。



首里城ではこの日時計と漏刻門の水時計の
両方で正確な時間を測っていたようです。

この日影台の時刻は沖縄の経度の関係で
日本の標準時よりも30分遅れた時を
示しているそうです。

日影台からは、首里城の中心部、
御庭を取り囲む北殿の建物が見えています。



北殿の建物の右手、日影台の
南側に建つ広福門です。



この広福門をくぐり
下之御庭へと向かいました。



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下之御庭から正殿へ


首里城正門の歓会門からいくつも
門を抜け、広福門をくぐると
下之御庭に入りました。



下之御庭は正殿前で行われる
儀式の控えの間だったようです。

左手に、御庭へと続く泰神門があり、
正面には首里森御嶽がありました。



首里森御嶽(すいむいうたき)は、
首里城に10箇所ある拝所のひとつで、
格式の高い拝所の一つだったそうです。

琉球国王が城外に出る際、この御嶽で
祈りをささげ、神女達が儀式を行ったそうです。

この首里森御嶽の背後には
立派な石垣が続いていました。



この石垣の向こう側には首里城内で
最大の聖域「京の内」が広がっています。

この右手には木曳門もあったのですが、
正殿を早く見たいと気が焦ってしまい、
立ち寄るのを忘れてしまいました。


いよいよ、泰神門をくぐります。



門の中央の屋根を高くし、三門にしたのは
中国の建築に倣って作られたそうで、
泰神門は1754年以降に
この様式で建てられたそうです。

この泰神門をくぐると、正殿や南殿、
北殿に囲まれた御庭(うなー)に出ます。



御庭には帯状の磚が敷かれ、その中央を
浮道がまっすぐ正殿に伸びています。

御庭は、正方形ではなく少し歪んだ形をしています。
また泰神門と正殿との中心は少しずれているので
浮道は正殿に対して80度の角度で交わるそうです。

明るい日差しを浴びて輝くような正殿の様子です。



この正殿は、1712年頃に再建されたものを
1992年に当時の様式で完全に復元されたものです。

正面の唐風の屋根が特徴的で
屋根には龍が乗っていました。

琉球が統一された後の、琉球国王が
政治や儀式を行う政庁としての建物で、
本州のお城でいうと、天守ではなく
御殿に相当する建物です。

この正殿は中国の紫禁城を模したようですが
唐風屋根などは日本の影響も受け、
琉球独自の様式のようです。

正殿に向かう浮道と左右に交差する磚の
モザイク模様もとても鮮やかでした。


御庭を囲む北殿と南殿の様子です。



左の写真が北殿、右が南殿です。

戦前の資料が豊富にあった正殿は
完全復元がなされていますが、
南殿と北殿は資料が少なく、残念ながら
鉄筋コンクリート製の概観復元になっています。

それでも御庭を囲むこれらの建物が復元され、
泰神門を抜けると、特別な場所に
足を踏み入れた事を実感します。


順路に従って、まずは南殿の中に入りました。
内部は展示室があり、首里城博物館のようでした。

南殿の南側には、国王が執務を行い、
近習の者たちが控えていた書院や
王子達が控えていた鎖之間も復元されていました。



そして書院から望む琉球庭園です。



明るい庭の様子は、どこかのリゾート地に
いるかのような感じがしました。

南殿の見学を終えると、
いよいよ正殿に向かいました。

南殿から正殿に向かう渡り廊下が開け
御庭の様子が見えていました。




正殿は内部は三階建ての造りです。
正面は40m、横幅は17m、そして
大棟までの高さは16m程あるそうです。

一階は下庫理と呼ばれ、政務を行う"表"で
二階は大庫理と呼ばれる儀式の場だったそうです。

二階にある琉球国王の玉座です



赤に極彩色の煌びやかな飾り付けがされて、
国王の権威を示しています。

「中山世土」の扁額は1683年に、中国の康煕帝から
尚貞王へ下賜されたものを復元されたものです。

正殿に展示されていた王冠です。



こちらは17世紀に清朝の
皇帝から贈られた国王印です。



こうした展示物をでm当時の煌びやかな
宮廷生活の様子の一端を窺い知る事が出来ました。


正殿の内部を歩いてみると、15世紀に
琉球王国を統一した尚氏の居城の首里城は
18世紀には、宮殿そのもののだったようです。



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北殿から久慶門へ


煌びやかな正殿を訪れた後に
北殿に向かいました。



北殿は評定所が置かれていて
琉球王府の行政施設の役割を
果たしていたそうです。

また中国から冊封使の接待所
としても使われたようです。

この北殿も南殿と同じく鉄筋コンクリート製の
概観復元となっていて、展示室がありました。

この北殿の裏は見晴台になっています。



ここからは首里城北側の景色を一望できました。

下の写真左は、那覇の中心街方向を眺めたものですが
那覇市街地の向こうに東シナ海を望み、
手前には、歓会門、久慶門が見えていました。



正面にはビル街の間を「ゆいレール」が
走っていく様子も見えています。
「ゆいレール」の乗車はこちらです。

そして、右手下には、右掖門が見えています。


この見晴台の東端からは、正殿の裏にある
御内原(おうちばら)の様子も見えていました。

御内原は王の家族や女官、神子らの居住空間で
男子禁制の場所だったそうです。
江戸城の"奥"にあたる場所だと思います。




北殿の見晴らし台から眺めた御内原の様子です。



遠くに一番の寝廟殿を取り囲んでいた石垣と
白銀門の石門のアーチが見えていました。

この御内原はまだ復元されておらず、
早く、ここも復元してもらえたら、と思います。

手前の白い石垣は復元工事中の淑順門です。



白い石垣はまるで大理石を敷き詰めたようで
青い空に綺麗に映えていました。


そして右掖門をくぐり外郭へと抜けて行きました。



右掖門からは緩やかな石畳のスロープが続き、
遠くに歓会門や久慶門が見えていました。



この景色は本州のお城では
見られない琉球独特の景色です。
やはりどことなく中国に
いるような感じもしました。

スロープの途中には先ほど日影台や
北殿裏の見晴台から眺めた銭蔵や
厩の発掘現場がすぐ近くに見えていました。



発掘調査が終わったらここにも
当時の建物が復元されるのでしょうか。


スロープを下った先には
寒水川樋口川がありました。



ここは瑞泉門の下にある龍樋とともに
首里城の重要な水の手だったようです。

この寒水川樋口川のすぐ先に
久慶門が聳えていました。



久慶門は「ほこり御門(うじょう)」と呼ばれ
首里城の通用門にあたるそうです。

国王が寺院にお参りに行く際や
北の地方に行幸する際も
この久慶門を利用したそうです。


久慶門を抜けて眺めた首里城の様子です。



首里城は450年以上にわたる琉球王国の
歴史を刻む、堂々とした立派なお城でした。

そして青空と明るい日差しが
とても似合うお城でした。



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