篠山城
Sasayama Castle, Japan


登城日:
2007. 10. 23






篠山城は1609年(慶長14年)に築かれました。

徳川幕府が成立し、6年後。
徳川幕府の統治が十分に確立されていない一方、
豊臣秀頼は大阪城に居て、西国大名の勢力も強く、
天下の情勢は混沌としていた頃と思います。

家康は、大阪城の包囲網の一環として
この篠山城を築城したようです。
縄張りは藤堂高虎、天下普請として西国15ヶ国、
20諸侯に命じての築城です。

加藤清正や浅野幸長、福島正則ら
豊臣恩顧の大名が築城に借り出されています。

地図はこちらです→ Mapion

篠山は山陰道を抑える交通の要衝で
淀城や姫路城とともに大阪城包囲網を
築いています。

淀城の様子はこちらです。
姫路城の様子はこちらです。
大阪城の様子はこちらです。




外堀の内側に三の丸、その内側には内堀を隔てて
二の丸と本丸が並ぶ梯郭式・輪郭式の縄張りです。

そして、外堀の外側には大手、南そして東の
3つの大きな馬出しが築かれています。

家康は篠山城に実子とも言われる松平康重を入れ、
その後一門の松平氏が城主を務めました。
1748年(寛延元年)に丹波亀山城から
青山忠朝が入封すると、幕末まで
青山氏が篠山城主となっています。

丹波亀山城の様子はこちらです。




外堀から南馬出し


2007年10月にこの篠山城に行ってきました。
三木城や廃線になった三木鉄道や、北条鉄道に
乗車した後に篠山城に向かいました。

三木城の様子はこちらです。
三木鉄道の乗車記はこちらです。
北条鉄道の乗車記はこちらです。

秋の日は既に傾きはじめていました。
篠山口駅からのバスを篠山の中心部で下車し、
篠山城に向かいました。

篠山城の手前で戦国時代からの屋敷門を
過ぎると篠山城の外堀が見えてきました。



街中の景色から急に人里離れたところに
来たかの様な景色になりました。

広い外堀が広々とした景色を作り出しています。

武家屋敷が残る篠山城の西側を、南に
向かいながら外堀の様子を眺めていました。



傾きかけた日差しを浴びて
輝くような木々。

これだけ広々としたお堀があるのは
さすがに天下普請で築かれた
お城だけの事はあります。

篠山城の南側の外堀は、
その幅が一層広くなっていました。



外堀の南西の端には
南馬出しが残っています。

馬出しはお堀に突き出したように
築かれた小さな砦のような区画で、
ここに兵を詰めさせたり、敵の様子を
偵察する拠点としたようです。



馬出しの縁は土塁で固められ
内側は何もない空間になっていました。



三の丸


この馬出しから土橋で外堀を渡り、
三の丸へと向かいました。



行く手に二の丸の石垣が見えています。
城内も思わぬ広さで、築城当時の
篠山城の重要性をひしひしと感じます。

広大な空き地の広がる三の丸を抜けると
内堀の向こうに二の丸の石垣が迫っていました。



まっすぐに伸びるお堀と石垣。

こうした直線的な縄張りは直後に築かれた
名古屋城も同じで、火力が発達し、
大兵力の動員しての関が原の合戦の
経験に基づいたものでしょう。

内堀に沿って北上し、篠山城北側の
大手門付近に出ました。



この辺りの三の丸も広々としています。



二の丸



北廊下門跡に築城当時の
篠山城の鳥瞰図がありました。



外堀に面した三の丸の外周には
土塀が立ち並び、二の丸・本丸の外周には
多聞櫓が全周に渡って建てられています。

枡形門の大手門から本丸や
二の丸に向かうには、さらに
鉤状の区画を抜ける必要がありました。

二の丸への入り口、北廊下門跡です。



この北廊下門を抜け、内堀に掛かる橋を渡ると
表門、中門そして鉄門と三つの門が続きます。



どの門も枡形門となっていて
その堅牢さは他では無いほどです。

鉄門付近で、大書院の
大きな屋根が見えて来ました。
鉄門は冠木門として復元されていますが、
当時は堂々とした櫓門だったようです。


大書院は二の丸にあり、当時は篠山藩の
政務の行われた建物だったようです。

明治以降、城郭建築が取り壊された
篠山城で、唯一残った遺構でしたが、
1944年(昭和19年)に焼失しています。

その大書院は2000年(平成12年)に木造で
当時のままに復元されました。



柿(こけら)葺きの大きな屋根が
見事で、優雅な建物です。

大書院には虎の間や孔雀の間等、
計6つの部屋があり、床面積は
793.33平方メートルにも及んでいます。

大書院でももっとも格式の高い上段の間です。



天井は格式の高い折上格天井です。
柱の造りや障壁画も見事なものでした。

大書院の奥には奥御殿の間取りが
地面の上に示されていました。



発掘調査の結果、築城直後に
大書院以外の建物が建て直された
可能性もあるようです。

そして二の丸の南端にある埋門です。



この埋門周辺の石垣には築城に携わった
大名を示す刻印が多く残っているようです。
池田輝政を示す「三左之内」の刻印が
残っているようですが、見逃してしまいました。



本丸


二の丸の東側には一段高い位置に本丸があり、
ほぼ一直線状に石垣が連なっています。



本丸西北角の石垣です。
角に隅櫓の台が見えています。

本丸は築城当時は殿守丸と呼ばれ、
現在の二の丸が本丸と呼ばれていたそうです。

本丸の中央には青山神社が鎮座していました。



この青山神社が創建されたのは1882年(明治15年)。
三代将軍・家光公の輔導役だった、青山家10代の
青山忠俊公を祀っているそうです。
その後、18代の青山忠裕公を後に合祀しています。

本丸の東南隅に天守台がありました。



当初、天守は建てられる予定だったそうですが、
篠山城の構えがあまりにも堅牢な為、
幕府から天守建設中止の命が下ったそうです。

それでも当時は、天守台には単層の櫓、
他の隅にも二重の隅櫓が建ち、それらの
櫓を結ぶ多聞櫓が本丸の周囲に並び、
篠山城は威容を誇っていたようです。

天守台からの眺めです。



短い秋の日は既に西に傾き、雲の合間から
柔らかな日差しが差し込んでいました。

左の写真、端正な形の山は丹波富士と呼ばれる
高城山で、中世山城の八上城跡があるそうです。


日が暮れぬうちにと、少々急ぎ足で
篠山城めぐりを終えました。

城内は広く、そして堅牢な造りの篠山城。
その堅牢さは行く前には思ってもみない程でした。
この守りの堅さに当時の徳川幕府の
危機感が現れているように思います。



大手門跡から外堀を土橋を渡って
篠山の町に向かいました。

篠山の町の様子はこちらです。

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